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りゃんさん のコメント

>>今度の発掘で江戸時代のものは出た。弥生時代や縄文時代の遺跡もでた。だがこの間の期間の遺跡や物が出てきていないという。何故なのか。

なぜなのか、興味が湧く。持ち合わせているシロウト知識で考えてみる。

1、縄文海進、弥生小海退、平安海進があり、縄文弥生のころの関東地方の海岸線は今現在とはかなり違っていたし、その後今までに変化もした。
2、さらに黒潮の流れの変化などの影響もあり、そのあたりの気温気候が衣食住に適していたのかどうか。
3、縄文は採集(海の近くだったとすれば、魚介類が主だっただろう)、弥生であれば稲作もおこなわれていた可能性があり、それによる住居地の差もあるだろう。
4、平安、鎌倉、室町のころの関東がどうだったかの知識は自分にはほとんどないが、家康が江戸の町をつくりはじめる前は、皇居外苑のあたりまで日比谷入江が入り込み、海だったというのは有名な話。さらに、後背地も湿地や原野で、そのあたりにはほとんど人は住んでいなかったといわれるのも有名な話。

こうした事情をもとに細かく考えていけるのではないか。学者の考察が待たれる。


なお、さらに一般論としてふたつ書いておきたい。

1、家康が土地を当時の公共事業によって開発していなければ、江戸という町はありません。当時だって、町の下には縄文・弥生の遺構はあったでしょう。
2、孫崎さんの住居、あるいは誰の住居の下にも縄文・弥生の遺構があるかもしれません。

調和が大事だということでしょうが、開発に異議を唱える側は、1、2、を忘れがちです。
No.5
2ヶ月前
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孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。