oldjapさん のコメント
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報告(智恵子に)昭和二〇・一〇を読んでみた。
何故、今この詩を今一度読もうと思ったか。
かすかに、次の句があるような記憶をしていたからだ。
「日本はすつかり変りました。
あなたの身ぶるひする程いやがつてゐた
あの傍若無人のがさつな階級が
とにかく存在しないことになりました。」
昭和20年10月、日本は軍国主義、国家統制からさよならをしたと思えた。少なくとも多くの人々は、戦後の日本は、軍国主義、国家統制から無関係の社会に思えた。
しかし、見事復活しつつある。
「人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子」、そして、その状況が「人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の 砂にすわつて智恵子は遊ぶ。 無数の友だちが智恵子の名をよぶ。ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―― 砂に小さな趾あしあとをつけて 千鳥が智恵子に寄つて来る。 口の中でいつでも何か言つてる智恵子が両手をあげてよびか
tsutomizuさん、人間が人間である限り、自由を奪われることは、「死」を意識する人もいます、とは何と大げさな。
人間は、サルなどの高等哺乳動物と生きることについてはさほど変わりません。自由を奪われることは、「死」を意識する人が存在しないとは言いきれませんが、ごくごく稀でしょう。最近の例では、ナチス政権下のドイツ、スターリンの下のソヴィエト、日本の軍国主義の下でも大半の国民はそれらの政権に協力して生き抜きました(死刑、爆弾などで殺されなかったひとたちは)。自由を奪われることは、「死」を意識するとは、いったいなんでしょうか。自殺でしょうか。
「体制管理が徹底すると、自由な発想が排除されるので、国家が停滞し、衰退の方向に進んでしま」うとあなたはおっしゃるけれど、例えば中国、米国、英国の例を参照する限り、あなたの意見に同意できず、あなたのはdemagogicalな意見だと思わざるを得ません。
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