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tamashigeさん のコメント

石原莞爾の見通しのこと

 石原莞爾は、戦前の日本が満州国を支配・経営し、国力を充分にためて準備してから、欧米との次の段階の植民地切り取り侵略戦争、石原は最終戦争と呼んでいましたが、を構想していましたから、
 そもそもすぐ支那事変を起こし、中国との泥沼の戦争に足を突っ込むことに反対していましたし、ましてや国力の大きく違う米国、英国との戦争を始めることに反対していました。日本帝国の軍人として「見通しを持っていた」ことは確かですが、だからと言って「支持」するわけにはいかない面があります。

 支那事変を起こして軍部内で石原がこれを非難した時、支那事変を実行した武藤章は石原にむかって、「石原が満州でやったことを忠実にならって支那事変を始めたのであって何が悪い」と面とむかって居直ったと言われています。その発言は、武藤ら個人の考えではありませんでした。より侵略的な、冒険的に軍人が勝手に戦争を始め(=『事変と称す」)、既成事実化することは、軍部が権力をより深く、大きく握っていく行為でしたし、実際に実行した軍人が出世しました。それが戦前の日本政府内、軍部内での抗争の仕方でしたし、権力奪取の方法でした。そのような意味では、「内向き」の行為だったのではないでしょうか。今の官僚の自己の権限拡大行為と似た面があります。最終結果に責任をだれも負わない無責任体制でもありました。その結果、より冒険的な方向に高級軍人のほとんどが乗っかったのだと思います。石原が予備役にされたのは、決して偶然ではなく必然の結果だったと思います。
 
 だから、「もし、石原の「正確な見通し」を受け入れていたら」という指摘はおっしゃる通りではありますが、より厳密に言えば、すでに石原の見通しを受け入れる基盤を失っていた当時の政治システムそのものの批判へと進むべきなのだと思います。
No.24
124ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
軍人で日本を負けると予言した人はいなかったのでしょうか。問題多い人ですが、石原莞爾は「負けますな」と述べています。  軍人で特異な立場に立っていたのが石原莞爾です。「帝国陸軍の異端児」の渾名のあった人です  真珠湾攻撃への道は様々な出来事が積み重なってできてきますが、その重大な節目が 1931 年の柳条湖事件です。 満州の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖付近で、日本の所有する南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された事件です。関東軍はこれを中国軍による犯行と発表し、満州における軍事展開およびその占領の口実として利用しました。これを実行したのが日本軍で首謀者は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐というのが有力です。 ところが、石原莞爾は真珠湾攻撃の直前、東條英機等の政策を厳しく非難しています。 石原莞爾と仙台幼年学校、陸軍士官学校、陸大で同期だった横山臣平
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。