チャンさん のコメント
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1906年5月22日、首相官邸において元老及び閣僚の「満州問題に関する協議会」が開かれました。満州を我が物にしようとする軍部の動きに懸念をもった伊藤博文の要請によって、開催されました。
鶴見祐輔は大作『後藤新平』を書きます。妻が後藤新平の娘でです。第二巻に次の記述があります。
「その出席者は元老、重臣、閣僚を網羅し、その論ずるところは大陸経営の根本に亘り、まことに日本膨張史上の一大事件であった」
何故、鶴見祐輔は「日本膨張史上の一大事件」と位置付けたのでしょうか。
日本国内では日露戦争後、満州を日本の利権としてこれを確保しようと動き
ます。 これを止めるために、伊藤博文が会議を要請したのです。
この協議会では、満州を我が物にしていこうとする意見を陸軍参謀総長児玉源太郎が述べます。これに伊藤博文(元首相)が激しく反論します。
ここでは主に、伊藤博文の主張点を見てみたいと思います。
「 満州
帝国主義(盗賊主義)に批判的な視点をもった外交官の加藤拓川でなく、伊藤博文を持ち上げるのはなぜでしょうか。
・加藤拓川 - 弁護士会の読書
http://www.fben.jp/bookcolumn/2013/03/post_3569.html
『伊藤博文は韓国を植民地同様に扱い、韓国を無視した。拓川は、赤十字条約改正会議における韓国の外交権を認める立場で外交官として行動しようとして、帰国を命じられた。伊藤博文の逆鱗に触れたのであった。
外交官拓川は、盗賊主義の外交政策に従いながらも、最後の段階で、これに露骨にくみすることができなかった。』
・「伊藤博文を激怒させた硬骨の外交官加藤拓川」(高文研)
http://www.koubunken.co.jp/0500/0495.html
『帝国主義に対して批判的な目を持ちながらも、日本帝国主義の外務官僚として実績を重ね、親友・原敬のたっての頼みでシベリア干渉戦争の真っ最中に全権大使としてシベリアに派遣されるなどの反面、師の中江兆民同様に部落問題に関心持ち、最晩年の松山市長時代には軍国主義反対演説を議会で行うなど、人権問題や平和主義を実践しようとした言動に光が当たる。』
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