1906年5月22日、首相官邸において元老及び閣僚の「満州問題に関する協議会」が開かれました。満州を我が物にしようとする軍部の動きに懸念をもった伊藤博文の要請によって、開催されました。
鶴見祐輔は大作『後藤新平』を書きます。妻が後藤新平の娘でです。第二巻に次の記述があります。
「その出席者は元老、重臣、閣僚を網羅し、その論ずるところは大陸経営の根本に亘り、まことに日本膨張史上の一大事件であった」
何故、鶴見祐輔は「日本膨張史上の一大事件」と位置付けたのでしょうか。
日本国内では日露戦争後、満州を日本の利権としてこれを確保しようと動き
ます。 これを止めるために、伊藤博文が会議を要請したのです。
この協議会では、満州を我が物にしていこうとする意見を陸軍参謀総長児玉源太郎が述べます。これに伊藤博文(元首相)が激しく反論します。
ここでは主に、伊藤博文の主張点を見てみたいと思います。
「満州
コメント
コメントを書く武力の戦いは、国土陣取り合戦であり、多くの人が戦死し、家族との離別など悲しい現実が待っていますが、一時的な悲惨な現象と見ることができます。
しかし、生活に直結する経済は、階級社会に直結します。遠い過去を振り返れば、皆が助け合い共同生活を営んでいたが、富める者が割拠してくると、一定のルールを決めないと、強盗とか殺し合いばかりが起きて絶えないことを反省し、政治によって、ルールに反するものは処罰するとか、富める者が貧しい者に税金として拠出することによって、共同生活を維持してきたといえる。過去のことを顧みることが無く、米国が始めた金融資本主義による貧者の増大に日本が加担し始めている。この悪影響は、中東の紛争戦争で明らかなのに、安倍政権は人民貧困化政策TPPの締結を急いでいる。
過去を振り返れば、集団的自衛権を行使して、地球の裏側まで殺りく行為に出かけたり、TPPで貧民を増やすことは、世界に平和をもたらすものでなく、略奪行為、紛争、戦争を世界にまき散らすものでしかないことなどわかりきったことである。サイレントマジョリティー(40~50%)の人が覚醒し、地方選挙とはいえ、選挙に出かけてほしいものである。強い者(米国)に物言えず、腹の座らない軟弱で、超現実主義の官僚、マスコミ、政治家の良心を持った人たちが物言えない状況を打開するには、民意しかないのではないか。
日本開国前後から維新に参加した伊藤博文、山形有朋、西園寺公望、桂太郎らは英米の若い外交官らと付き合うことによって世界政治の冷酷な現実を、言わば、ON THE JOB TRAINING方式で深く理解していたと思います。ところが、帝国の軍は維新後に出来上がった。さしずめ、伊藤らはリアリスト、児玉らはロマンチストでしょうか。
戦後の日本を見ますと明治維新から敗戦にいたるまでの政治外交の経緯に似た傾向のあることに気が付きました。敗戦の苦い経験に教訓を得て政治を作って行こうとする意思を持って歴代続いた政治指導は鳩山由紀夫で終わり、菅直人以降、右傾化が激しくなり、安倍政権に至って大陸圧迫政策を取り始め、武力行使辞さずとの強い姿勢に変わりました。辺野古基地建設は米国を引きづり込むために不可欠なプロジェクトなんでしょうね。
我々民衆は百害あって一利もないこの時代錯誤の謀を不発に終わらせる必要があります。その為にはとにかく大マスコミを民衆の側に引っ張り込む必要があります。中国投資銀行のニュースは大きなクサビでした。それに続くクサビの打ち込みがなされるのを切に期待する次第です。
伊藤博文があと10年長生きしたら...歴史のifですね。
私見では穏健派が勢力を伸ばす客観情勢が当時の日本に
あったかということですね。
なかったと思います。
当時日本は加速度のついた一億火の玉侵略マシーンでしたから。
伊藤はつぶされるかそれとも政治家らしく軌道修正したものと
思います。
かなしい推測ですけれども。
強行派ではなくとも、朝鮮の植民地化を推進した伊藤博文に対して、彼が生きて米英と協調してほしかったとの希望的観測からは、孫崎享氏は朝鮮の永続植民地化を望んでいるのでしょうか。
帝国主義(盗賊主義)に批判的な視点をもった外交官の加藤拓川でなく、伊藤博文を持ち上げるのはなぜでしょうか。
・加藤拓川 - 弁護士会の読書
http://www.fben.jp/bookcolumn/2013/03/post_3569.html
『伊藤博文は韓国を植民地同様に扱い、韓国を無視した。拓川は、赤十字条約改正会議における韓国の外交権を認める立場で外交官として行動しようとして、帰国を命じられた。伊藤博文の逆鱗に触れたのであった。
外交官拓川は、盗賊主義の外交政策に従いながらも、最後の段階で、これに露骨にくみすることができなかった。』
・「伊藤博文を激怒させた硬骨の外交官加藤拓川」(高文研)
http://www.koubunken.co.jp/0500/0495.html
『帝国主義に対して批判的な目を持ちながらも、日本帝国主義の外務官僚として実績を重ね、親友・原敬のたっての頼みでシベリア干渉戦争の真っ最中に全権大使としてシベリアに派遣されるなどの反面、師の中江兆民同様に部落問題に関心持ち、最晩年の松山市長時代には軍国主義反対演説を議会で行うなど、人権問題や平和主義を実践しようとした言動に光が当たる。』