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フレデイ タンさん のコメント

いやいや、驚きです。吉田茂は白洲次郎と同じく根っからの英米派の男で軍部に対して反骨を通した剛の者と思っていました。この記事に接し、吉田茂の長男の健一がケンブリッジをドロップアウトして文士に生きた理由が分かったように感じます。

思うに、敗戦後、満州経営に積極的に関わった諸君が集団でマッカーサー政権に身売りする、いや就職する変わり身の速さは今のサラリーマンや若手官僚の鏡ですかね。まー考えて見れば、一人で乗り込んできたマッカーサーも彼らのゴマスリには抗しきれなかったのでしょう。兎に角、彼らは裏金操作も上手で事務能力も抜群、使い勝手が良い。彼らの指導のもとに、日本人は、戦後、いち早く米国市場に適応し、経済ナンバー2になったわけですから。しかし、大きなものが抜けていました。つまり、ドイツが育んだ懺悔の精神です。そういう精神が育まれなかったから、デーモンみたいな安倍、麻生体制が生まれた。これは日本人が精神を育まなかったために抱え込んだツケです。ツケは我々が払わなくてはいけない。早く払わないと延滞金利が嵩む。

出来るだけ早くまず大メデイアの権力からの離反を促す。それしか方法はない。
No.2
118ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
吉田茂はこの時代、重要な役割を演じています。彼は戦後数々の著作を行っていますが、戦前の軍部との協力関係についてほとんど記述していません。 従って吉田論には戦前の軍部との協力についてすっぽり抜ける場合が非常に多いのです。 吉田茂著『日本を決定した百年』では、あたかも自分が部外者であったかのように記述しています。 ・植民地は国力の重要な源泉であった。それゆえ、狭い国土と貧弱な資源しかもっていないことは日本の弱味であったし、それを憂うる人も少なくなかった。 ・内戦のもたらす混乱状況と、その中で行われる排日運動は中国と満州を圧迫していた。満州のシナ側軍閥は日本人に対して極めて高圧的な姿勢をとり、日本政府はこれに対して十分に日本国民の利益を保護しなかった」 すでに見てきたように、中国に対峙するのに、外務省には二つの流れがありました。 小村寿太郎―山座円次郎―広田弘毅の系統です。これは満州の利権を
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。