Webの未来について
橘川幸夫


1.Webとは何か?


 まずはWebとは何かというところから論を進めましょう。

「Webとはインターネット上に掲示された案内板です」
「Webとはインターネット上に掲示された案内板を相互にリンクしたものです」
「Webとは個人格もしくは法人格が自分の意見・感情・伝達事項などが公開されたものです」
「WebとはHTMLやXHTMLといったハイパーテキスト記述言語によって記され、それは新しい共通言語として世界標準です」
「Webとは有名無名、性差、年齢差、所得差、民族差、などの差異がなく情報発信と情報受信が出来るものです」

 これらを合わせて考えると「Webとは世界共通言語による広告(広く告げるという意味での)です」と言うことが出来ます。僕たちは、個人のお小遣いで世界中に対して広告をうてるようになりました。さて、どういう自分をアピールするのか、あるいは、どういう商品を販売するのか、それが問題となってきます。自分をアピールすることも、それが対価を望まないとしても、自分の意見を「販売」することになります。旧来メディアでいえば「意見広告」という範疇です。

 インターネット上の情報取引がはじまっています。その対価は「仕事依頼」という現実的成果の場合もあるし「友だちになって」という関係メリットの増加という場合もあるし、「クソったれ」という返品要求もあるかも知れませんが、コミュニケーションを情報取引として見れば、いずれも正しいあり方だと言えるでしょう。情報発信者は、インターネット上の世界を利害関係なしのマーケットとしてとらえると良いのではないか。それはもちろん、20世紀までのリアルな物資の奪い合いのようなマーケットではありません。情報と情報の、貨幣を介在しないコミュニケーション世界です。そのあとでのリアルな取引や協働作業がビジネスになったりする場合はインターネットの外の世界での出来事です。


2.インターネットにおける「市」と「行商」

 さてインターネットを情報マーケットとして見るならば、旧来社会の歴史が参考になります。取引の歴史は、最初は偶然性から始まったのでしょう。自分が持っている不要なものと、相手が持っている不要なものが自分にとっては必要であると感じた者同士が出会い、交換します。最初は、一方的に奪い取ることも多かったでしょうが、やがてルールが出来てきます。偶然から必然に成長していくのです。

 日本では戦国時代に出来た「楽市・楽座」という仕組みが、交換の必然性を具体的なマーケット(市場)に高めたものとして有名です。織田信長が制定したものが有名ですが、この時代、各地に生まれた武力を背景にした権力者が、我が地を栄させるために、この制度を奨励しました。

 市の原理は「人を集めること」です。まず「売り手」を集め、次に「買い手」を集めます。売り手を集めるには、個別営業が必要になります。「こういう市をやれば儲かるから」という理を諭すプレゼンテーションが必要だったでしょう。権力を行使して無理やり集めることもあったでしょう。

「買い手」を集めるには告知が必要ですが、新しいシステムはなかなか説明出来なかったに違いありません。その結果、どうしたかというと、交換取引とは全く無関係にイベントを開催したいのです。芝居、見世物、力勝負のようなものです。そうしたイベントの告知の方が集客力を高めるためには効果的だったのでしょう。

「市」の本質とは「人に集まってもらう」というところにあります。インターネット上のWebとは、まさに「楽市・楽座」の展開です。webマスターは、自分のサイトのアクセス数をあげるために、さまざまなイベントや仕掛けを試みています。

 もうひとつ「市」とは別の交換方式があります。「行商」というものです。これは産地から物資を消費集積地に運び販売するものです。富山の薬売りが有名です。こちらは人を集めるイベントは必要がありません。商品のクオリティとサービス、何よりも販売者の人柄が重要だったと思われます。

 つまり商売の構造には2つのベクトルがあるということです。一つは、「買い手(ユーザー)に買いに来てもらう」ベクトルと、「こちらから買い手(ユーザー)のところに向かって行く」というベクトルです。現代社会の小売ビジネスでいえば、ターミナルステーションに立地する百貨店(デバート)が楽市・楽座の系譜を継承しています。新宿や渋谷のようにJRと私鉄や地下鉄が交錯する駅は、かつての街道が交差する立地であり、そこに巨大な市の施設を作って、階上には催事コーナーを設けてイベントを実施したり、特売セールや地方物産展などの企画で客を集めて、イベントとは直接関係のない商品までも販売するものです。

 それに対して、コンビニエンスストアは、より買い手の方に出向くスタイルです。行商に近いものでしょう。かつて東京にも千葉の農家の人が「担ぎ屋さん」と言って、でかい荷物を背負って行商に来ていましたが、その品揃えは、主食からお菓子まであり、現代のコンビニと類似します。担ぎ屋さんが都市のそれぞれの地域に根付いた業態がコンビニと言えなくもありません。


3.未来のWeb環境

 
「市」と「行商」という二つベトクルで、インターネットの未来を想定してみることにしましょう。Webとは市です。通販のモデルも、Web上のカタログに人を集めて、そこで購入してもらい配達します。基本的には「来てもらう」構造です。行商的に出向くものといえば、プッシュ型のメール案内が思い浮かべられます。

 インターネットはさまざまな領域の川が流れこんで出来た巨大な単一の情報の海ですが、今後は、さまざまな融合が起こるでしょう。異質な価値観、異質な方法論が、溶けて一体化するようなイメージです。放送と通信の融合というのも、システム的に考えられていますが、方法論の融合でもあります。放送はどちらかというと市の方法論ですし、通信は行商の方法論です。市と行商の融合というものが、引き起こされてくると思われます。

 Webは更に市としての機能と魅力を備えていかなければならないし、それも、わざわざアクセスして訪問するという感じをユーザーに抱かせないで、あたかもユーザーのところに行商に行くように、日常的にユーザーの前に立ち現れているというものが望ましいと思われます。市と行商がシームレスにまざりあったイメージを僕は持ちます。現在でいえば、Facebookのようなソーシャルメディアのあり方が一番未来に近いのかも知れません。しかし、まだFacebookは、一つの企業による巨大店舗にしかすぎず、完全とは思えません。

 未来のWebを想定する時に、それがどのような機器の上で表現されるかも重要でしょう。パソコンは本来家電的な閲覧ツールではなく、業務的な開発ツールです。システムエンジニアが利用するものと、エンドユーザーが利用するものが同じであるのはおかしい。開発者のツールから、どのように脱皮して、大衆的で未来的な情報ツールが実現可能なのかを追求したのが、スティーブ・ジョブズの戦いであったのでしょう。

 もっともリアリティがあるのが、今のテレビがインターネット端末になることです。そのためには、既存の電波法の利権を支配している特定の放送企業ではなく、すべての個人格・法人格が、テレビを使って全世界の茶の間に放送出来るようなシステムと制度が必要になってくるでしょう。インターネットのWebは、現在のテレビ放送番組のようになる可能性があります。

 その場合も依然として情報を発信する側はパソコンになるでしょうが、現在のニュース番組やバラエティ番組やドキュメント番組は、すべて一般の個人格や法人格によって制作され発信されることになると思います。YouTubeやニコ生は、やがてライト兄弟の発明のように語られるでしょう。その時のWebのあり方は、よりWeb自体を意識しない方向に進んでいると思われます。

かつて古代中国で象形文字が発明されて、その文字コードは選ばれた優秀なエリートによって多様な展開がなされました。お酒を飲んで酔っ払うという意味を表すにも、泥酔、ほろ酔い、笑酒、泣き酒、怒り酒、悲しい酒など、多種多様の象形文字が開発されたと言われています。しかし、あまりに多様で複雑すぎたため、すべての象形文字を覚えて使うことの出来るのは一部の限られた人たちだけになり、大衆層に文化として広がることなく、象形文字の文化は滅びたということです。コンピュータ言語の進化を考える時に、ある教訓を与えているような気がします。

 どのような高性能な機器が登場しても、高機能のプログラム言語が登場しても、基本はP2Pのコミュニケーションが世界ネットワークの中で成立するという基本構造は変わらないと思います。