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標題=続・都市はロック
掲載媒体=ロッキングオン28号
発行会社=ロッキングオン社
執筆日=1977/07/06
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●興味
興味、という言葉があって、それが表している状態がある訳だけど、こないだ、ちょっと考え事をしていた時、突然、<興味>という言葉が、ある恥ずかしさを持って嫌いになってしまった。確かに興味というものから僕らはモノを考え行動してきた訳だけど、興味がら出発した思考が、また別の興味を産むものでしかないとしたら、それは随分と不毛な運動だ、と思った。
興味というのは、まず自分というものがあって、それから見知らぬ対象物があらわれてそれに向かってユラユラと自分が近づいてく、という事でしょう。つまり、そこには決して自己同一する事のない距離がある訳です。距離がなくなる程近づいた気分になる事も可能だろうけど、でもそれは気分であって、やはりギマンだと思うのです。距離の長短はともかく距離が存在するというのは事実なのだから。
例えば、あるミュージッシャンに興味を持っている女の子がいて、その子はそのミュージッシャンがけなされるとまるで自分がけなされたような怒り方をする……という心理システムは、自分とミュージッシャンの距離をなくすために、自分を失くしてしまう、という手段をとった為だろう。
<ロック・ファンによるロック専門誌>というのは渋谷が考えた言葉で、僕ら自身が<ロック・ファン>と自己規定した意味は、あくまで、ロックミュージッシャンとファンとしての僕、という孤独な関係を意識したものであって、無責任な聴者としての評論家ではない、と強く思っていたからだ。
しかし世の中には無責任な聴者(受け手)というものが多く、それは圧倒的に多く、それは何も音楽に限らず、○×さんのファン、○×という国のファン、○×主義のファン、ROのファン……いろいろいます。
とにかく、これまでの表現とかメディアが受け手を甘やかすように、砂糖をどっさり入れてしまったから、雑誌にしても、読者というのは最初から自分を気持ちよくさせてもらうために文章を読む、という悪癖がしみついているんです。御本尊さまバンザイ、御本尊さまのワイフ、御本尊さまに会えれば死んでもいい、と、うわごとを繰り返してると、消したはずの自分に絶対に無理が出ますよ。もっともそれて無理が出ないようだったら救いようもないけど。
●興味(2)
ところで、興味主体と興味対象の間に距離があることは述べましたが、この距離をそのままにして、次から次へと興味対象を並べて売るのがカタログというやつでして、それから、その距離を凝視め、固定化するのが批評というやつです。
さて、僕は興味というのが嫌いで、距離というのが嫌いだ。自分にはないもの、とか距離を置いて憧れるナニカを見るのではなく、生活という名の手で触れる実感を信じているし、鏡に映った自分、などではなく、今まさに距離なくして存在している自分の確かさを信じている。
だから今の僕は、ファッションとしての、あるいはシーンとしてのロックには興味はなく、ただ、ボウイという一人の人間が<ステイ・ウィズ・ミー>と言ったところの意味を僕の生のかけがえのない暖かさとして受けとめるだけだ。ただ、それだけだ。
興味とか好奇心とかがもてはやされたのは主に60年代のメディアだったと思うが、僕たちは既に「山の彼方」に何が住むのかを知ってしまってる訳だし、どのようにつまらないものでも幻想によってはその人にとっての神になり得る事も、あるいはどのように正しいものでも、それを受け止めるものの幻想によって、上っ面だけのファッションに堕してしまう事も知っている。問題は、だから、興味対象にはなく、奇になるものを好きになってしまった主体の方にある訳で、その事に皆んなが気付いたからこそ、誰もが<スッキリしたい、ふっ切れたい>と願い行動した訳です。
興味では決してない、今の、この僕の世界に触れる感覚を何と呼べば良いのか分らないし、そんな言葉は必要ないのだろう。興味の消滅は同時にその人間にとっての、容観性を奪うものであって、これは特に滑川君と山崎さんに言いたいのだが、今これから僕たちは批評の不可能性の世界に生きるのだ、批評する余裕もなく必要もないのだと。興味主体と興味対象と、そして第三の眼との陰湿な三角関係を清算して、ようやく初めて、主体と対象はおおらかに愛し合うだろう。
●日々
それまで、とんでもなく見当はずれの方ばかり見てて、何も見えない何も確かめられない、と思っていたのが(当り前の話だ、最初から何もなかったのだから)ある日、料理に代表される生活への<興味>を覚えるにしたがって、急に見えるものの輪郭がはっきりとなってきた。
前節ではカッコ良い事を言っていたが、実際そう簡単に徹底できるものではなく、例えばまだまだ僕は料理に対しては<興味>でしかなく、従って批評でしかなく、生活そのものであるとは言えない。男が料理すると確かに女と違って、独創性なりアイデアなりが加わって(つまり批評性が加わって)面白いけどでもこないだふと気付いたのだけど、料理とは、単に材料をそろえておいしいものを作る、という事ではなく、日々の生活一部として買いもの、調理、食事、後かたづけ……等が複合的に組み合わさったものである。男は同じ料理を何度も作りたがらないが、母親は毎朝同じ味の味噌汁を作った。
僕が母親というものから学びたいと思うのは、あの日常生活の<手際良さ>である。それは興味からではなく必要によって自らを鍛え上げて行く、という事だ。
佐藤雅子さんは、春になると右手の親指と人差指の爪を伸ばすのです。イチゴジャムやシロップを作るためのイチゴのヘタを取りやすくするためにである。
佐藤雅子さんの文章が僕は大好きだった。教科書的な料理についての本ばかりの中で、佐藤さんの本に会った時、本当にホッとしてしまった。それは育ちがどうという問題では全然なく、一人の個人と料理という普遍性が見事に調和している姿をみせてくれたからだ。……でも3冊の本を残して、彼女は死んでしまいました。
●プロフェッショナル
芸術家に女が少ないのも、歴史的制度という理由もあるけれど、それよりも、芸術というものが、極端な観念運動だったからだ、と思う。生身の自分を対象化し、対岸に虚像としての自分を設定する事が観念運動ならば、僕は虚像としての女、を知らない。
政治家に、商人に、つまり、分業されたモロモロの労働内容に、才能を活かした女というのが極端に少ないのも、分業された労働とは対象化された生活という意味で、観念運動だからだろう。
プロの料理人には女はなれない、という説がある。それは当然の事であって、現実のプロの料理人というものは言葉の正確な意味で料理している、のではなくて、単に観念的に労働しているに過ぎないからである。
料理とは、食べる人を誰々さん何々さんと具体的に設定して、手近の材料をやりくりして、済ます、というものである。
だが、プロの料理人の仕事は、任意の客がメニューから選んだ任意の注文を受けて、後は、客観的においしい料理を仕上げるふぁけである。だからその労働は写植屋が写植をうったり、駅員が切符をきったりするのと同じ質であり、従ってコックさんは家に帰れば料理はしない。
その料理には、料理人の一方的な<自分>しか入っていない。その関係性は、料理が本来持っているコミュニケーションが欠如しているし、ここで料理人と客とがベストの関係性になれたとしても、それは、芸術家とパトロン(ファン)程度のものでしかない。
同様に家の中でスパイスを集めたりフランス料理に一人でこっていたとしても、それは将棋のあの手この手を考えたりプラモデル作りに熱中するのと大差ない。
全ての一般的な仕事が、愛する人への料理のようなものであれば良いのに、と思った。料理のコミュニケーションがコミュニケーションの本質だ、と僕が言うと、友人は、セックスのコミュニケーションだ、と言った。確かに僕もそう考えていたような気がする。でもセックスは生活的ではないし、むしろ個人的なものだから、セックスによって豊かになるコミュニケーションというのはあるかも知れないが、セックスそのものが豊かなコミュニケーションとは思えない。それならばもっと<豊かなスケコマシ>というものがいてしかるべきだけど、数を自慢する奴に限って品性は貧しい者ばかりではないのか。
●おみず
気の抜けたサイダーを飲んで、おいしかったという記憶があるな。ホットコーラというのもね。刺激が必要な人というのはね、固いんだな。固いの。固いとね、こう、空気を切っちゃうでしょ、えいやあ、ってね。でもそんなんで空気は切れないから、結局、何んか違うものを切っちゃったりして、僕なんかも切られたりして。もっともサイダーとかコーラなんて、もう甘ったるくて飲めたしろものじゃない。一ヶ月位前のある日からなんだけど、突然、砂糖が気色悪くなって、コーヒーもブラックで飲んでると、友人はなに気取っちゃって、って言うけれど、全然そんなつもりはなくて、ホント、体がそうなっちゃったのです。同時にウイスキーも、僕はそんなに飲めないけれど、それでも、水割りからロックへと変ってしまった。タバコは、僕は吸わないので関係なし。
人間の味覚ってさ、保守的な割には新しいもの好きで、まるで日本人という感じ。それでさ、要するに味覚に対する自制というものをさ、働かせないとね、どんどんどんどん、例えば、甘さ、というのものね、舌の方が慣れちゃってね、砂糖の量がエスカレートしてくる訳。コーラなんてね、ホント、自制を知らない子供みたいでしょう。ケーキ屋さんのケーキだってさ、今ではさ、あそこのケーキは甘くなくっておいしい、という位。もっとも、ケーキ屋のケーキの場合には、油脂の分解を防ぐために砂糖を沢山いれてるらしいけど。
とにかくさ、甘くて刺激のある飲みものはもう、うんざりしてるでしょ。こないだ、富士山麓の人が東京に来たらね、「東京の水道水はドブ水だ」といってあきれてたよ。だけど僕は水道水しか知らないし……おいしいおみず、が。だけどさ、東京の水がやだからって富士山麓へ行く人は、結局は、行くのではなくて帰る人達なんだよね。だから、帰ってしまった人達は、水道の水を飲む人間の事なんか考えてはくれない。
僕は今夜も水道のおみずで番茶でも入れて飲むよ。僕は今でも、この水道から岩清水のように冷たくおいしい水か出てくる事を信じているし、僕の日常的な仕草や労働や思考は、少しずつでも、その実現の為の事でなければ、と思っています。だから、君も山の彼方の空遠くへ行かないで、僕と一緒にここに居て欲しいのです。