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標題=ハンキードリイ/デビッド・ボウイ
掲載媒体=ロッキングオン9号
発行会社=ロッキングオン社
執筆日=1974/01/15
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<私とは私の友人である>とボウイは日本に来て語ったそうである。僕にはボウイの言葉の真意が奈辺にあるのか分からないけど、ボウイという人間の孤独の輪郭に瞬間、触れたような気がした。今、ハリンキィー・ドリイを繰り返して聴いていると、その虚飾され磨かれた音の裏側で、決して、こちら側を見てはいないボウイの、うつむいた姿が浮かぶ。彼は決してレコードの外側に入る僕たちに語りかけているのではなく、私という私の友人に語りかけているのだ。
BメンはともかくAメンの透みきった緊張感は自縄自縛の美しさだ。それは例えば、小林秀雄が書いた<Xへの手紙>のXというのは、何も中原中也という個人ではなく、むしろ中也をも含めた、小林の裡側に秘む異様な<わたし>というものの集合体であるという事、つまり、そうした内的な<異>に向けて発信された手紙であったという事と同じ事だ。
今となっては、私というものを凝視めて行った涯に他者を発見してしまうのは、とりわけ新鮮な恐怖でもなくなった。ヴァレリーのように、その発見に一生かかって驚き続けているわけにもいくまい。だから、ボウイのように、自分とは自分の友人であるという事を自明として、むしろそれをバネとして何事かを為すという人間も出てくるのだろう。しかしボウイにしろ誰にしろそう簡単に自分が他者である事を全面に肯定できるとは思えないのであって、主体性論者の敗北は、今でも、ずうっと敗けっぱなしのままではなかったか。
ボウイのトータルアルバムの中で、ハンキィドリイの位置は過渡期、というより、崖を飛び降りた瞬間の、目尻が吊り上がるような不思議な感覚の時である。それは、ボウイの今のところの最下降点であるジギィースターダストへ至るための不可避の瞬間であっただろう。
<くるしみ>とは、生理的に言うならば集中力である。僕たちの肉体は例えば、神経が弛緩してしまっている時いくら刺激を与えても何も感じない。つまり痛みとは瞬間的な神経の集中である。ひるがえって精神に還してみれば、それは<凝視力>である。みつめること。みつめつづけること。私という私の友人をみつめつづけること、それが全てだ。ボウイが、現存する肉体を虚構化することによって引っ張りだした、存在と意識との離反の凄まじさを今、僕は、美しいと思うのである。