絶後のまばたき
ロッキングオン9号
1974年1月15日
いろんな人がいて、いろんな事を思っていて、それでも自分は 自分だ、と思う時、いやがおうにも思わざるを得ない時、人はどのようにして他者と対処していけば良いのか。対処、という言葉の嫌味と苦臭は、たぶん、すれ違わざるを得ない想いと想いの呼び起こした風の昏い溜息だ。他者の眼奥に映るあの不吉な殺意を、どのようにして私自身の眼から、ぬぐい去らす事が出来るのか。観客の居ない銀幕の上で私と他者は、単純に与えられた演技をこなしているのに過ぎないのか。
自分にシラけるのはまあそれで良い。他者にシラけるのも、まあそれで良い。しかし、自分と他者との間に存在する、越せば越せそうな、しかし決して越える事の出来ない河に対して、私たちは私たちの責任において何らかの感情も持ってはならない。関係の深みに下降して行こうと願う限り、私たちは関係性にだけはシラけてはならないのだ。
生きるとはそれが生きていく側の主体にとって積極的なものであれ否定的なものであれ、決して疾走し続ける事ではなくて屈折し続ける事だ。誰一人として夜の素顔でもって昼の街路を歩く事は出来ない。生きるとは自分を殺し続ける事だ。沈黙する事だけが、かろうじて嘘をつかないでいられる唯一の状態だとしても、その認識の上で吐かれた嘘とは、決して処世術とか演技とかいったものを超えた、もっとなまめかしいものであるはずだ。そして、誰もが背負わねばならぬそうした自明の矛盾を、せめて矛盾であると自覚し続ける事が、自分に対してのまごころではないか。
苦しみ、とは単独なものだ。それは自分の所有(もの)であるか、あるいは他者の所有だ。換言すれば、それは個人の所有であり、力量(さいのう)だ。男<性>の所有だ。だから、私たちが私の夜を共有できないように、他者の苦しみの内側に入り込んで行けるような、暴力的方法は、ない。それでは関係の淵には、何が、どのようにしてあるのか。それは理解のような外的な歩行ではない、むしろ背中合わせで出あってしまい、思わず振り返ってしまった時のような、殆ど辛さと云って良い感覚の渦がある。渦がある。私は渦だ。中心の欠けた渦だ。
逆流している。もう何年も何年も前から逆流している。他者の背後を分ってしまってから、むしろ河の深度を抉り取るようにして他者の視線を凝視めてきた。よせば良いのに、ひよわな肉体より、もっとひよわな精神が、よせば良いのに、根拠のない自負によって見えないものを凝視めてきた。眼球を直立させるための自負は、肉体としてはむしろ自責のスタイルを保つしかなかった。せきとめるはずの肉体が、破壊孔にならざるを得なかった。
保留したままで消えていく事は許されていなかったにしても。河は枯渇していた。しかし、何かが確実に逆流していたのだ。流砂。
裏切られるのが恐いから先に裏切ってしまう臆病者。確かに信じなければ裏切られる事はない。しかし、そのように思ってしまう事は、信じて裏切られるより悲しいのではないか……こう書いてから2年以上にもなる。今でもそうだろうけど、その頃は未だ全く、信じる、という事のきわどい視線について何も分かっていなかったのだろう。人間が人間を信じるとは、決して一方的な信仰ではないのだ。
分からない。もう何年も何年も前から分からないままだ。今はただ女<性>の辛さに似た時間の空洞を吹き抜ける風に身を荒らしてみる。
冬が来たけど自分は来ない。悪意と嫌悪に装飾された、安物のコートがその場しのぎの風防となるのだろう。憎悪は来ない。息苦しいほどの視線を押し付ける、化物の感情は来ない。ずうっとずうっと来ない。私の待ち受けているものだけが、来ない。いや、ほんの冗談だよ……。すれ違った失語症の電信柱が、自嘲のような捨て台詞を言ったかも知れぬ。そして呼応するように駄犬がこう呟き返したのだろう。<私はあまりに待ち過ぎたので、もう何を待っているのかさえ忘れてしまいましたよ><それでも私は……>
憎シミハモウ形ヲトラナイ(逸見猶吉)