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ジャニス・ジョプリンと叫び/Rockin'on 3号(1973年冬)
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ジャニス・ジョプリンと叫び/Rockin'on 3号(1973年冬)

1973-01-22 22:02
    ジャニス・ジョプリンと叫び
    Rockin'on 3号_P35-p37
    1973年


     私たちは日常の沼でひたすら増殖しつつある自からの声にもならない叫び声を懸命に抑圧しながら生きている。この途方もなく曖昧で不測な発酵しつつある内的意志から、外側の殻を保守する為に、欺いたり、威嚇したり、なだめたり、あらゆる手段(てだて)を強いている。自身の裡で叫び声はやがて確固たる狂気の円柱として峻立するだろう。その過程は最早、時間が指し示す距離を踏み外している。しかし現実の肉体として在る私は決して私自身を越境する事は出来ず、時間の矢も必らず墜ちるだろう。私はひたすら叫びの意志を育みつつ、だがしかし遂に現実の<さけび>は瞬間である、一回性である、という畏怖に制御されている。<叫ばねばならぬ>という衝迫と<叫んではならぬ>という圧迫が万力の両側面のように私を重たく挟み込み、あらゆる発想と意味の葛藤の渦に、たゆたう。私は絶望し恐怖し予感する。電話帳を調べ、横断橋を渡り、他人に道を尋ねている、私の日常の動作の薄い膜を突破るようにして、吃水線を越える瞬間の<さけび>が私を引裂くであろう、と。叫び声とは畏らく裂び声なのであって、それは引きチ切るような、つまり強姦されそうな衣服の焦操音ではなくて、あたかもスルメイカのそのように重たい直線なのだ。

     ジャニスは<歌手>という職業を望む事によって自己の内面に秘む混濁とした狂気を表現する契機を与えられたが、それは、望む事によって、与えられた事によって、幸と不幸といった相対論の枠を越えて一つの確実な<不幸>を背負う事に他ならなかった。ジャニスは自からを裁断する自からの声に懸命に耐えていた。よく耐え得るほどにジャニスという女は強かった。あまりに強かった。強すぎた。だからジャニスの叫び声はますますラジカルにならざるを得なかった。ジャニスの声は決して<野獣のように吠えている>のではない。何かの対称があってそれに向かってコミュニケーションしたいが為に叫んでいるのではない。呼んでいるのではないのだ、ジョンが虚空(ヨーコ)に向けて一生懸命に呼んでいるものを、ジャニスは希求し、それ以上に本能的なまでに絶望していた。その声は自分の内側へ向うしかなかった。

     どうか、私の愛を受け取って
     いやなら私をひとりにしておいて
              Move Over

     ジャニスを論じるのに詞を云々するのは私の発想ではないが、ここには男と女の関係の辛い車輪に疲れ果てた一人の投げやりな居直りがある。中途半端な愛を許さないジャニスの強さがある。歌謡曲風に言うと<しょせん他人と知りました>というあのふてくされたリアリズムの認識に他ならない。<その純情に偽りがなく、故につねに別離を思ってゐねばならぬやうな女であった。その多情じゃ空極の純情の如くにも見える>と書いたのは、無数の男を愛した和泉式部を語った保田與重郎である。ジャニスが人一倍に奔放であったのは、ジャニスが人一倍に辛かったからであるという事は、自明に思われる。諦めていながらも、求めなければならないという自己矛盾によってジャニスは更に自からを裂いたのである。

     叫びの直接性とは葛藤の直接性である。
     叫びの源泉は必らず私たちの日常の諸矛盾であるが、ジャニスは単に、苦しいから叫んでいる、といったような自分自身の対して甘ったれた人間ではなかった。私は私の耳(へんけん)を信じるならば、ジャニスは、苦しいよお? と訴えているのではなく、どうしようもなく汪溢してくる<さけび>を懸命に、抑圧、しているのだ。だからこそジャニスはブルースなのだ。

     もし私たちの時代に私たちのブルースがあるとしたら、それは苦しみを発散する事ではない。もとよりブルースとは慰安ではない。ジャニスは歌う事によって真の安らぎを得た訳ではないだろう。救いをそこに求めてもそれは真の救済とはならなかった。サザン・コンフォートもジャニスの苦しみを曖昧にする事はあっても、解決ではなかった。ジャニスにしたって日常にあっては<さけび>を奪われている無告の個でしかなかったのだから。

     私たちは、この苦しみを語ってはならないと思う。この苦しみから語らなければならないのだ。ブルースとは抑圧と斗う為の自己抑圧なのだから。私たちは表現者が少しも傷ついていない表現では少しも傷つく事は出来ない。ジャニスの歌い様を誰が真似ようとジャニスの生き様を真似する事ではない。<本当に観客を泣かす為には役者は泣いてはならない>というこざかしい嘘を私は信用しないし、そういう虚構にのめり込んで泣ける程ウブではないのだ。私たちが表現から受ける感動には必らず表現者の血肉が生贄にされており、それは表現者の残酷である事を想い知るべきなのである。

     私にとってロックというのは、何を言ってんだか解んないけど何を言いたいのかはすごく良く分るというあのアジテーションのようなコミュニケーションなのだ。逆に言えば、何を言ってるかが問題ではない。何を言いたいのかが問題なのだ。だから詞は二の次。<CRY BABY>のそのように、あたかも木ねじを肉体ににじ込ませるようなジャニスの声を聴いただけで、ジャニスがあの笑い顔の仮面の裏で、どのような表情をしているのか分る。それが分るという事の意味だ。

     例えば佐々木幸綱が言うように歌とは<しらべ>ではなく<ひびき>である。水平の連体性ではなく、垂直に個を突き刺す。叫びは止揚された歌であり歌は止揚された声であり声は止揚された音であり音は即ち個的人間と世界との接触である。関係性である。ジャニスは関係の密林でメチャクチャに傷ついた自からの肉体の<音>を急激な速度で叫びへと持っていった。

     だが私はジャニスのように叫ぶ事は出来ないだろう。実は良く把握してないんだが、まず、これだけは確認しておこう。男にとって、私にとって、狂人とは、気が狂った者ではなく、気が狂わなければならないと思い続けている者なのだ。

     女は気が狂うことが出来ない。何故なら既に狂っているのだから。ジャニスの叫びは、そんじょそこらの男よりよっぽど意識的であるが、やはり、本能であり本物であるからこそ私は、ジャニスのように叫ぶ事は出来ない。それは多分、女は<時間>を所有している、生殖という永劫回路を胎内に所有している、といった問題になるのだろうが、それは発想だけで語れる問題ではなさそうである。

     最近の意識的と思われる世界中の男性達が、懸命に女の叫び声を欲しがっているという事態は、すごく共感できるのだが、結局そのような事ではらちがあきそうもない。

     歌が正に<訴え>である時ならともかく、訴える対称の何もなく、訴えるという行為にも結果にも、根底的に絶望している時、私たちはどのようにして歌う事が可能であろうか。

     もしかして<さけび>とは最早<歌>ではないのかも知れぬ。それは既に訴えではなく、焦りでもなく、居直りでもなく、誇示でもなく、要求でもなく、懇願でもなく、悲鳴でもなく、<  >ですらもない。<さけび>は沈黙の溶世界から発せられたにもかかわらず、沈黙と対峙し、遂に現実の溶世界を一瞬にして凍原と化し氷海に向かって疾走する亀裂なのだ。

     私の<さけび>に体する解釈は、その一回性という事に比重を置いている。つまり叫んだその後の世界が何ら変わらないとしても、無関係であり、興味も責任も感じない。ゴウマンに言い放ってしまえば、私が叫ぶのではなく私が叫びとならなければならないのだ。

     私たちは、ある地点に立たされており、霧深い前方には何やら巨大な恐怖と安楽が待ち受けている。叫ぶとはつまりこの崖を飛び降りる事であり、叫んだ後には<私>というシステムは破壊されてしかるべきである。それは断言の崖だ。<さけび>とは全自己史を凝縮した断言である。この崖こそが私たちのバニシングポイントであり、生涯の反歌の一瞬である。<断言>する事、もうこれ以上のどのような発想も、思考も、感情も、認めないという球体の意志を発射する事。つまり正直になるという事。それは今の私にとって許し得ないものとしての悪である。真剣であるという事と正直であるという事は違うのだ。よく解らない事を言い切るとは嘘をつく事であり、ますます何が何だか解らなくなって来たこの曖昧な現実に対して、何事かを語るという事自体、最早、虚語を語る事の以外ではない。本気で嘘をつくという事だけが私には私に忠実な姿である。喋れば喋る程私たちの饒舌な言葉から意味がすり抜けて行き、ロックの音が巨大になればなるほど私たち自身は沈黙の沼に沈んで行くという事実と同じ事である。

     ジャニスは4年間しか歌わなかった、という驚異は、ジャニスは4年間も歌い続けた、という驚異に置き換えるべきである。持続という言葉は持続し得なかった者に対して言われるべきだ。持続とは、静止した観念を床の間に飾り続けるという事ではなく、絶え間のない、耐えようのない、精神のふかまりに他ならない。持続とは決して持続など出来っこない荷物を背負いつつ歩き出す事だ。そういう意味では私は最早、大江健三郎のような奴らには何も言うべき事はない。持続する志にとって、持続できてしまった事は屈辱以外の何事であろうか。

     ジャニスは<もうジャニス・ジョップリンという名前には飽き飽きだわ。これからはパールと呼んで>と言ったように、ジャニス・ジョップリンという存在を嫌悪し、パールと呼ばれる事を喜んでいた。それは、ジャニス・ジョップリンという生身の女からパールという仮構への異常な自己変革の意識過程であり、その結果、ジャニス・ジョップリンという存在(にくたい)はパールという存在(いしき)に殺されてしまった。殺らなければ殺られるのだ。しかし、日々を一生懸命死んでいる者にとって現実の死とは、自からを変容させ得る可能性としての一契機に過ぎない。ジャニスは決して覚める事のない眠りに入った。だが、ジャニスは昨日も、一昨日の夜もそのようにして眠りに入って行ったのである。

     この苦しみからも、その苦しみからも何も新しいものなど生れはしない。新しく生れて来るように見えるものは新しい衣装をまとった古典的存在でしかない。新しいものとは既に古くなりつつあるものなのだから。それはそれで良いのだ。

     歌手というものは死んだら忘れられるものなのだ というおもいがしきりにして仕様がない。
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