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沖縄中學卒業後、一年間東京で豫備校生活をしたのち七高に入つたが、貧乏で學資もなかつたので、はじめ母の異母弟にあたる叔父の家に世話になつた。この人は大してわるくなかつたが、その母がひどい人で、わたしが琉球人の腹だというのでおなじ食卓でめしをくうことをこばみ、ぜんぶ下男と一しよにさせた。湯殿はあつたがわたしが湯に入るときたないといつて湯にも入れない。だかわたしは町の銭湯にいつた。そういう侮辱をうけるのでとうていがまんができなくなり、寄宿合に入つたが、さうなると金が足りないので、とうとう高等學校は一年在學しただけで中途退學し、一九一三年(大正二年)に琉球にかえつてしまつた。
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