そう教えてくれたのは、東邦大学 神経科学研究室の増尾 好則(ますお よしのり)教授。コーヒーをはじめとする“いい香り”が快く感じられるのはなぜなのか、ストレスと香りの不思議な関係についてうかがいました。
コーヒーの香りで脳内物質の量が変化する
生物は、生きている限りストレスから逃れられません。増尾教授の研究テーマのひとつは、さまざまなストレスが動物の脳に及ぼす影響。ストレスが高じてうつ病になるまでの変化などを解析していたところ、ふとしたことから「香りの癒やし効果」を調べることになったといいます。
増尾教授 :
ソウル大学で食品化学を専攻している大学院生と会ったときに、彼が「コーヒーの香りをかぐと胃潰瘍を生じ難くなるので、脳にもストレスの癒し効果があると思う。ぜひ脳について共同研究をさせてほしい」と提案してくれたのです。
たしかに、ストレス研究というと、マイナス面の解析ばかりが注目されて、ストレスを抑制する方法はあまり研究されてこなかった。それで、ストレスに対するコーヒーアロマの効果を調べてみることにしたんです。
それまでコーヒーの研究といえば、カフェインの作用についてのものばかり。焙煎されたコーヒー豆の香りに注目した例はほとんどありませんでした。
しかし、ラットにコーヒーの香りをかがせる実験をしたところ、生まれて初めて経験する香りであるにもかかわらず、脳内ではさまざまな遺伝子・タンパク質の発現量が変化しました。このことから、コーヒーの香りはストレス抑制効果や抗酸化作用をもっていることがわかったのです。
ラットも人間も「コロンビア豆」の香りが好き
増尾教授 :
人間はストレスを受けると、脳や血中のさまざまな因子の量が変化します。 たとえば、NGFR(神経成長因子の受容体)などは徐々に減り、学習・記憶に重要な海馬という脳部位の神経細胞が死んでいきます。
しかし、コーヒーの香りをかいでいるラットでは、ストレスを受けてもNGFRなどの減少を抑制することがわかりました。
じつはラットの情動系の働きは、人間とよく似ていると増尾教授。コーヒーの好みまで一致しているといいます。
増尾教授 :
ラットが一番好きなのは、コーヒー豆の中でもコロンビア種の香りだといわれています。これはあとから知ったのですが、じつは人の場合もコロンビア豆の香りを好む人が多く、 喫茶店でブレンドする場合にコロンビア種をベースにすることが多いそうです。
コーヒーのストレス抑制作用を享受するには、毎度コーヒーを飲む必要はなく、香りをかぐだけで十分だそう。疲れたときにコーヒーが飲みたくなるのは、体がカフェインを欲しているのだとばかり思っていましたが、香りが脳内物質の量まで変化させていたとは驚きです。
森林浴は「合法ドラッグ」?
こうした働きをする香りは、コーヒーだけではありません。増尾教授がラベンダー、α-ピネン、タイムなどの香りで実験したところ、同じようにストレス抑制効果が確認できたといいます。
増尾教授 :
α-ピネンというのは、もっとも多いヒノキに50~60%、サイプレス(イトスギ)に45~55%、あとはカモミールローマン、ローズマリーなどにも含まれる香り物質です。
α-ピネンはちょっと特徴的で、ラットにかがせたところラットが行動的になりました。しかも、覚醒作用をもつドーパミンの合成酵素の遺伝子発現量が増えたことから、脳内ドーパミン量の増加によって活発に動くようになったと考えられます。これは、α-ピネンに覚醒剤と似た働きがあることを示唆しています。
α-ピネンは、いわゆる“森の香り”としても知られています。含有量の差はありますが、ほとんどの木に含まれているため、森に入ると最初に香るのがこの成分です。
増尾教授 :
つまり森林浴は合法ドラッグのようなもの。 覚醒剤のように強い中毒性はないと思いますが、この香りをかぐと抗不安・ストレス緩和効果によって活発になります。 パワースポットと呼ばれる場所が、森林に漂うα-ピネンのためにそうした感覚を人間に与えるということは、十分に考えられることだと思います。
香りがうつ病を予防する
さらにα-ピネンなどの香りには、うつ病を予防する働きも期待できるとのこと。
増尾教授 :
精神疾患の発症リスクは「遺伝」と「環境」であり、環境はストレスと言い換えることができます。つまり、ストレスが高じてうつ病になりますので、α-ピネンのストレス抑制効果はうつ病発症を抑制することになります。
香りはダイレクトに脳に到達する
香りがこれほど人間の脳に影響を与えるのは、嗅覚のメカニズムによるものです。
増尾教授 :
鼻からニオイ分子が入り、鼻腔の上部にある「嗅上皮」に付くと、そこに存在する嗅神経がニオイ刺激を受容して脳の「嗅球」に伝えます。ニオイ刺激は次の神経に伝達され、大脳辺縁系を含む大脳皮質に達します。大脳辺縁系は学習・記憶、情動などの機能と密接に関わっている部位です。
そして、香り情報はさらに視床下部に伝えられます。視床下部は自律神経系や内分泌系を支配しています。
考えてみると気持ち悪い話ですが、嗅覚というのは、ニオイ分子が実際に嗅上皮に付いた場合、ニオイ刺激がダイレクトに脳に到達するということなんです。
ここまでは嗅覚経路についてお話してきましたが、ニオイ分子は経皮吸収や経鼻吸収によって体内に入ります。それが血流に乗って全身を巡り、脳をはじめとするさまざまな臓器にもしっかりと作用します。アロマセラピーのひとつであるオイルマッサージが効果的なのはこのためです。
増尾教授 :
嗅覚は視覚に比べると普段あまり意識されていませんが、じつは脳にとても大きな影響を及ぼしていると考えられます。ニオイ分子は常に空気中に漂っていて、無意識のうちに悪い影響や良い影響を脳に与えているんです。
いいニオイも悪いニオイも含めて、嗅覚は私たちの体とメンタルに直接働きかけています。そう考えると、自分のまわりを心地よい香りで包むことはとても重要。これからはもっと積極的に、メンタルケアとして香りの効果を取り入れていきたいと思います。
メンタルは変えられる!
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増尾 好則(ますお よしのり)教授
東邦大学 理学部生物学科/大学院理学研究科生物学専攻人間生物学部門 神経科学研究室 教授。1986年 筑波大学 大学院医科学研究科 神経生化・薬理学専攻 修士課程修了、1990年 パリ第6大学 大学院神経科学専攻 博士課程修了、PhD取得(パリ第6大学)、1994年 博士(医学)取得(東京大学)。1990年より武田薬品工業株式会社医薬開拓研究本部、2000年より工業技術院生命工学技術研究所(2001年より産業技術総合研究所(産総研)に改称)。2005年に産総研ヒューマンストレスシグナル研究センターに精神ストレス研究チームを立ち上げてストレス研究を開始。2010より現職。
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