日常にあるなにげない「言葉」をひとつずつ手のひらにのせて眺めてみる......そんなエッセイを石井ゆかりさんにお願いしました。今回の言葉は「言葉」です。
マイロハス編集部さんから「お題」を頂いて書くコラム企画、第5回目のテーマは、「言葉」。
私は現在、肩書きを「ライター」としていて、言葉をつづることを生業としている。
この肩書きを選んだのは、「物書き」「文筆業」などとすると、ちょっと物々しすぎて、気恥ずかしかったからだ。単純に、文章を書くこと、つまりライティングを生業としているから、ライター、という意味で使っている。
しかし、この「ライター」という肩書きは一般に、もっと別な意味を持っている。たとえば、普通のライターさんは取材や打合せなどでフットワークよく飛び回っているものだ。しかし、私はほぼ、自室の机に座り、朝から晩まで地蔵のように座ったままで仕事をしている。仕事紹介のような記事で「ライターと言っても、文章を書いている時間は仕事の中のほんの一部なんです」という一文を読んだことがある。私は「そうでもない人もいます」と心の中で呟いた。
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「作家」は文字通り、作品を作る。仕事は「自己表現」のひとつと言えるだろう。一方、一般的な意味での「ライター」は、ものごとを「伝える」のが仕事だから、自己表現は、間接的には行われているのかもしれないが、それがメインでは無いはずだ。私の仕事は「作家」と「ライター」の中間くらいにあって、どちらかと言えばライター寄り、みたいなモノなんだろうなと思う。
そんなスタンスだからか、私の文体には特徴があるらしい。自分では意識していないのだが、Webサイト「筋トレ」をスタートさせたときから「ゆかり節」などと言われることがしばしばあった(ごはんにかけるとおいしそうな感じもする)。
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で、「どんなふうに言葉が出てくるんですか」と、よく聞かれる。
聞かれて初めて考えたのだが、もし私の「言葉」に特徴があるとしたら、それは「否定」から言葉が出てくる、というところではないか。
たとえば、「その方にお会いしたら、すごくきれいな人でした」と言ったとする。
しかし「きれいな人」という言葉から出てくるイメージは、人によって千差万別だ。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は杜若」と、美女を花に喩える表現がある。一方、小説「野菊の墓」で、ヒロインを「民さんは、野菊のような人だ」と表現する場面があるが、これもまた、美しさの表現だと思う。「牡丹のような人」と「野菊のような人」では、まったく別の「きれいな人」が思い浮かぶ。
そう思ってみると、単に「きれいな人」と言っただけでは、何も伝わっていないのだ。もとより、イメージや印象を「正確に伝える」ことなど不可能なのだが、それでも私たちは何とか、その細部を言葉で伝えようとする。
そんなとき、「Aのようではなく、B」という表現方法がある。
たとえば、単純に「野菊のような人だった」と言うだけでなく、「牡丹のような美人や芍薬のような美人ではなく、彼女はあくまで、野菊のような美人だった」と言えば、華やかさや派手さはなくとも、芯の強い、明るい、どこかもの悲しいところのある人、というふうにイメージが絞られていく。
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白い画用紙の上に「光」を描こうと思ったら、影を書き込んでいくしかない。影を深くすればするほど、光が際立って感じられる。レンブラントの絵はどこまでも暗いけれど、私たちはそこにまぶしさを感得する。最初に「Aのようでなく」と置かれる否定は、その先に言いたい「B」という光を浮かび上がらせるための、黒い影なのだ。
このやりかたは、「きれいな人」を表現する、といったような部分的なことにとどまらない。文章全体の構成を考える上でも、この形を取る。すなわち、「一般にはAと考えられているが、じつはBなのではないか」といった構成だ。
このとき、本当に主張したい「B」より、否定したい「A」のほうから話を始めることになる。すると、否定するつもりだった「A」についてしらべたり考えたりしなければならなくなる。結果、否定しようと思っていた「A」の中に、否定しがたいことや例外を見つけてしまうこともある。そこで、文章全体が全く新しい方向に向かっていったりする。
影で光を表現するようなこのやりかたは、様々な可能性を持っている。うまく行くこともあれば、大失敗することもある。試行錯誤は今日も続く。