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私の子どもの頃の最大のコンプレックスは「一人っ子」です。

え?なんで?と思う方もいらっしゃるかもしれません。兄弟喧嘩も取り合いもしなくていいし、両親の愛を一心に受け止められるなんて幸せなんじゃないの?と言う方もいるでしょう。

でも、私にとってはこの「一人っ子」というのがものすごくコンプレックスだったんです!

母は養女だった


まずは簡単に私の家庭環境をお話ししましょう。

両親と祖父母、つまり大人4人に対し子ども1人です。

さぞかし甘やかされて育ったのか、というイメージが沸くかと思います。まず、その先入観が苦手でした。

実際はとんでもない、苦労の連続でした。苦労、とその頃は思わなかったのですが、明らかに普通の家庭ではありませんでした。

母は自分が1歳の時にもらわれた養女で、それを両親から聞かされたのは私を生んだ後だったということです。

母も自分は養女では?とひそかに思い、戸籍も確認したそうですが、昭和の初めの頃は簡単に戸籍を変えられたので記録には残っていなくて実子扱いになっていたそうです。

そしてそれを打ち明けられたのは言い争いをしている最中、「お前は本当の子ではない。将来面倒をみてもらうためにもらったのだ。」というようなことを言われた時でした。

そんな風だったので結婚も好きだった人とは思い通りにならず、婿をもらうためにお見合いをさせられ、私の父に決まったそうです。

父も婿養子で家には居場所がなく、毎日仕事が終わると夜遅くまで時間をつぶして帰ってきました。

母は私を生んで6か月後に再就職し、勤務先も遠く帰宅が遅かったので当然ながら私は義理の祖父母に育てられました。

いつも言い争いが絶えず、気性の荒かった祖母は私に向かって両親の悪口ばかり、それを意見するとお線香に火をつけて追いかけてくるような有様でした。

夜は冷たいご飯に冷たい味噌汁。瓶詰の海苔の佃煮などを瓶から直接箸にとって食べていました。

でも生まれつきそうだったので別に不幸とも思わず、これが普通の生活だと思っていました。

もしこれを共有できる兄弟がいればよかったのに、私が兄弟を欲しがった理由は多分そういうことにあるのだと思います。

仕事でいない両親、軍隊上がりの厳しい祖父とわがままで気性の荒い祖母。そんな家庭環境の元で、たった一人で過ごすのは子どもながらに苦痛で居心地が悪かったのです。

兄弟がほしかった


そんな私は人知れず空想癖の強い子供になってしまいました。

思えば中学生くらいまで、私は自分自身を生きず、自分が勝手に想像した世界の中で、その主人公として生きていました。

幸いにして人格までは分裂しませんでしたが、想像で生きたくなるほどの環境でした。

後から聞くと、祖母は私のランドセルの中身までいちいちチェックしていたと言います。留守中の両親の部屋に入り、いろいろ詮索もしていたようです。

ある日たまりにたまって母に「兄弟が欲しい」と直訴しました。

するとあっさり否定されました。「つわりがひどかったから二度と子どもは生みたくない」とたった一言返されました。

それで「ああ、兄弟が欲しいなんて、私には願っても無理な望みなんだ」と悟り、落胆し、あきらめた私でした。

他人から「兄弟は?」と聞かれるのがなにより恐怖でした。私が「一人っ子」と答えると、ほぼほぼの人がへぇ、と目を見張るのです。

そこには一人っ子だから甘やかされてきたんだろう、一人っ子だからわがままだ、一人っ子ならお婿さんをむかえるのかね、などという思惑が見てとれました。

そんなんじゃないのに、兄弟なんて欲しくてもできないのに。それでも私は無言でした。

ただ、黙って他人の反応を眺めるしかありませんでした。兄弟がいない以上、なんの反論もできません。

小学校の同級生だったHさんの言葉は本当に辛かったです。

「○○(私のあだ名)は一人っ子だからわがままだ」いつも私にそう言うのです。

「一人っ子だとわがままなの?」それはおそらく大人が言っていたことの受け売りだったのかもしれません。

それでもその言葉は私に常に重くのしかかりました。

一人っ子になりたくてなったわけじゃないのに、私がどんなわがままをしたのだろう?そういう思いがつのっても、やはり言い返すことはできませんでした。

私だって兄弟が欲しい、同じ家にもう一人私以外の子どもがいたらどんなに楽しいだろう?

祖父母の私への執着も半減したかもしれないという思いでいっぱいでした。

Hさんは、私にそんな言葉を残したことを果たして覚えているでしょうか?私がどれほど胸を痛めたことを思ったことがあるでしょうか?もし再会できたら一度聞いてみたいものです。

不安定だった学生時代





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