ひとりひとりが伸び伸びと自由に発想して計画し実行する。このような自律型の人間が集っている組織は生産性が高く、柔軟性も高い。失敗もあるがそれを反省から学びに変えて改良していく。
仕事をこなすだけの仕事も多い。だが、こなすことには重要な意味がある。
その仕事がなければ社会が成り立たないからだ。
それでも、単調な仕事の場合は、やりがいがあまり持てないかもしれない。
言われたことをやるだけになりがちだ。その場合でも、自分なりに仕事を楽しむ工夫は大事。単調な仕事であっても、社会とのつながりを日々、意識できる人は、やはりよくできた人なのだろう。
いずれにしても、仕事というものには、必ず、自分の持ち場があり、その持ち場を守るという精神的な規範こそがプロフェッショナリズムであり、どの仕事も崇高なものにできる。その人のプロ意識に依存するものだとしても。
テクノロジーのサポートが受けられる現代社会では、一人の狂人が世界を恐怖に陥れることもできれば、一人の天才が多数の人々を支えて夢を持たせることもできる。
常々思うのは、人は多重的な存在であるということ。
わたしは4人の子供の親であり、両親の子であり、妹の兄であり、会社の部長であり、社長の部下であり、家事もすれば、ピアノも弾く。映画も見れば野球もする。囲碁もやる。しかし、数学科に在籍する学生でもある。
このような多重性が人の本来の在り方であるから、食事をする、眠るということもひとつひとつ、高みにいる人もいる。たとえば「食事をつくること」の一事をとっても、プロもいればド素人もいるわけだ。
何がいいたいかといえば、社会のニーズや社会の要請は日々変わるものであり、天気が悪い日もあれば不幸にも災害に見舞われた地域もある。テロが発生した地区もあれば、火事が起こった地域もある。
そのときどきで、人のやるべきことは変わっていく。
会社の組織も、あまりにも縦割りがひどいと、社会のこうした変化に無関心になってしまう。
フラットな組織では、社会の変化に応じて、自分のやるべきことを柔軟に変えていくことができる。
たとえば、消防士と警察官を兼務するような職責があってもよい。
たとえば、セブンイレブンのアルバイトは、ほとんどすべての業務を一人で完結できるようにシステムがサポートしている。決済も、棚卸も、機器のメンテも、調理も、伝票も、なにからなにまで店の状況に応じて、自らがやるべき優先順位が存在している。だから生産性が高い。それは縦割りの組織ではないから。
技術進化によって、多重的な職責が成り立つ土壌ができつつある。
いまの自治体や国家の制度や運営はあまりにも非効率ではないか。
これは学校運営にもいえる。
なぜ、中学や高校程度の専門を専門と呼ばなければならないのか。高校数学と古典はどちらも習得できるだろう。
20年も30年も教員をやるならば、5教科ぐらいは余裕で教えられるのではないか。
生徒はどうだろうか。
生徒は5教科ちゃんと対応しているではないか。
子供に対応できるのに、大人がさぼっているのではないか。
国語の先生は国語だけ教えて仕事をしている気になってはいけない。
むろん、それでも、教員の雑務は多く、もっとも多忙な職業のひとつになっている。
何かがおかしいが、生徒を管理しなければならないという制度自体を社会に合わせて変えていくべきではないか。
ユニクロのような良質で暖かい機能性なものが溢れる現代で、制服を着る意味がない。
やってはいけないことを規制し、管理をする意味はない。
むしろ、いろいろユニークなチャレンジを奨励しなければならない時代の要請があるはずだ。
人とできるだけ違うダイバーシティを認める時代である。
そのようなダイバーシティの時代に、白い靴下しかいけない、のような見当違いの教育をしていては日本が終わってしまう。
管理という無駄な職責を全部なくすることで教員はもっと自己研鑽に励むようになる。
大会で好成績を残したいものは、コーチと午後から練習してもよい。
その際、語学力や数学力は競技の専門書を英語で読むなどすれば力学的な思考も身に着くからそれでよい。
数学が好きなものは、世界中の教科書の中から、よい教科書を選び、必要ならば英語や日本語で学べばよい。
自分を表現するには、みなの前で発表をすればよい。
これは毎日やってもよい。
目標を持たせれば、自分で自分を管理できる子供に徐々になっていくだろう。
夢物語ではなく、おそらく、いまのテクノロジーを活用すればこのようなテーラーメイド型の教育システムは可能であろう。
制度を決めて100年。200年。そのような制度は今の社会に合わない。
合わないなら取り替えるべきだが、それができていない。
民間のスピードを活かして、民間から変わらなければならない。
国の借金が多いことよりも、変わらない制度をそのままにしているわれわれの怠慢を心配すべきだ。
一人何役やってもやりすぎるということはない。
いまは、それぞれが全力で奮闘する時代であって、そうでなければ地球が守れないという崖っぷちに人類は置かれている。
むろん、戦争などしている余裕はなく、移民を排斥しているような暇はない。
わたしたちはすべて有限の存在であり、命の尽きるまでの時間は誰しも、多くは残されてない。
誰しも今日が一番若い。
一番若いときに一番頑張るのがよい。
(山本 潤)
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