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☗1
依恋の様子がおかしい。
目を合わせるとすぐに逸らされる。話しかけようとしてもなんだかんだ理由をつけて付き合ってくれない。そのくせ依恋のほうから話しかけてくると――。
「あ、あのさ」
「うん?」
「……なんでもない」
こんな無意味なやりとりで終わったことが何度もあった。
おまけに部活中もなんだか落ち着かない様子で、しょうもないミスを連発する。王手飛車を食らうのはまだしも、二歩だの王手放置だのをやらかして反則負けしたり。
相手のポカで勝っても、特に依恋相手の場合は嬉しくない。なぜなら。
「お前は俺のライバルなんだからさ、もっとちゃんとしてくれよ」
「……っ! 知らない!」
急に不機嫌になって、部室を出て行ってしまう。そして部活が終わるまで戻ってこなかったり。
今日も、気分が悪いと言って部活に参加せず帰ってしまった。こうまで不安定な状態だと、さすがに本気で心配しなくてはならないかもしれない。
で、的確な助言をくれそうな人は、この女王以外にあり得なかった。二枚落ちの指導対局の最中、話を振ってみる。
「あいつ、どうしたんでしょうね。スランプかな」
「スランプというのは、実力のある人がなるものです。依恋ちゃんはまだそれほどの腕ではありませんよ」
「はあ、珍しく厳しいですね」
「依恋ちゃんのことは、依恋ちゃんが解決するしかないんです。まだまだなのは春張くんも同じなんですから、集中しましょうね」
「わ、わかりました」
紗津姫は依恋を放っておく方針のようだ。しかし依恋自身が解決するしかないというのはもっともなので、この話は打ち切ることにした。
「さあ、これはどう応じますか?」
おもむろに歩を突き出してくる。
これは取っていいのか、それとも手抜いて別のところを攻めるべきか。それぞれの選択をした場合の予想局面を、じっくりと読んでいく。そして決断する。
「――取らないで攻め合いに出る!」
来是も歩をぶつけて相手陣にプレッシャーをかける。あちらには大駒がないのだから、攻め合いなら圧倒的有利のはずだ。
ところが。
「……あ、あれ?」
思惑どおりに攻め合いに出たはずが、途中からまったく読みが外れる。紗津姫は変幻自在に金銀桂馬を繰り出し、あっという間に来是は防戦一方になった。いや、防戦というのもおこがましい。まったく防ぐことができずに、飛車も角も奪い取られていく。
「ま、負けました……。くそう、あの歩は取っておくべきだったか!」
「じゃあ、その局面からやり直しましょう。今度は取ってみてください」
すらすらと盤面を整理して、すぐさま再戦。今度は来是のほうからガンガン攻めることができたが、ギリギリのところで紗津姫の玉は逃げてしまう。とうとう攻めを切らされて、またしても無念の投了となった。
「ぐぐ……! 先輩、鉄壁すぎる」
「というより、途中の攻めがまずかったんですよ。じっと力を溜めるということも覚えなくては」
「はあ……夏休みまでには二枚落ちを卒業したかったのに、無理そうだなこりゃ」
「神薙先輩って最近、春張くんに容赦ないですねえ」
金子が言うと、紗津姫は満面の笑みを浮かべる。
「ええ、何しろ私を超えたいっていうものですから」
「へ? それって……」
「うん、まあ、そういうことだよ。でもおかげで日々上達している感じがするし」
「ふうん……なるほど、それで碧山さんは」
「依恋がどうした?」
「いえいえ」
なんだか曖昧に返事をしてから、金子も自分の練習に集中した。
――神薙紗津姫がアマ女王の座を防衛してから数週間。彩文学園将棋部の練習風景に、はっきりと変化があった。
紗津姫は今まで以上に熱心に指導するようになった。しかしそれは来是に対してだけ。依恋や金子相手には、今までのように適度に手を抜いて勝たせることもあるが、来是が相手のときは一切手加減をすることがなくなった。そして来是が投了しても、彼が悪手、疑問手を指した局面に戻って、そこからまた指し直す。そうして何度やり直しても、紗津姫が受けのテクニックを余すところなく披露し、攻め切れに追い込む。
金子の言葉どおり、容赦のない将棋を立て続けに味わわされていた。しかしそれが嬉しかった。誰からも憧れを抱かれるアマ女王が、自分だけのために真剣に教えてくれるのだから……。
「春張くんはもう俺とほとんど差はないな。たったの三ヶ月でたいしたもんだ」
関根も太鼓判を押している。来是は今や、関根と平手で互角に戦えるようになっていた。紗津姫直伝の振り飛車退治が決まると、たまらなく気持ちがよかった。
「金子さんも基本ができてきたし、この分なら優勝も狙えるかもしれないぞ。関東高校将棋リーグ戦」
期末テストも終わり、彩文学園は今週末から夏休みに入る。
夏が熱いのは、何も運動部だけの専売ではない。将棋にも熱き伝統の大会がある。それが関東高校将棋リーグ戦だ。
その名のとおり、関東の高校将棋部が一堂に会する、一チーム五名で行われる団体戦。開催地は将棋会館、プロ棋士が審判長という、将棋を愛する高校生にとって絶対に外せないイベントである。
「あの大蘭高校も出るわけですよね」
「ええ、しかしこの大会はA級B級C級と分かれているんです。大蘭高校はA級で、私たちはC級ですから、対戦することはありません」
「C級っすか……」
いくつもの大会に出ている彩文学園将棋部だが、ここ数年は目立った成績を残せていない。去年も紗津姫ばかりが個人で活躍して、団体戦はまるでダメだったと聞いたことがあった。
「うーん、明らかに私が足を引っ張りそうですけど」
「そうプレッシャーを感じなくていいですよ。金子さんはまず、楽しく指すことを目標にしてください」
「そういうことなら、気楽にやります」
「でも春張くんは別ですよ。全戦全勝する気で臨んでもらわないと」
「も、もちろん! バッチリ勝利に貢献しますよ」
紗津姫が将棋の楽しさを説くのは変わらない。しかし来是に対してだけは、それ以上に勝つためのテクニックを教えている。
――俺の想いは、確実に伝わっている。
来是は腹の底から闘志が沸き上がってきた。私の恋人にふさわしい人になってみせてと、期待をかけられている。きっとそんな男は、これまでいなかったはずだ。
今はまだ無理。しかしこの夏でその片鱗を見せることができれば……一歩、二歩とその夢に近づけるはず。
「で、俺はこの大会を最後に引退するわけだが」
「……そっか、受験勉強ですもんね」
関根はさっぱりした態度で、うむと頷く。
「俺はそう熱心に将棋していたわけじゃないけどさ、最後となると……やっぱ勝ちたくなってきたな。都合のいいこと言ってるかもしれないけど、みんな協力してくれ」
「ええ! ぜひ優勝して、関根さんに花道を歩いてもらいましょう。部員全員が一丸となって、頑張らなければ」
「はい!」
威勢よく決意表明したところで、何の関係もない素朴な疑問がひとつ。
「ところで部長、どんな進路にしようと思ってるんです?」
「すでに決めているぞ。小学校の先生だ!」
「……ああ、もう何も言いません」