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俺の棒銀と女王の穴熊【1】 Vol.22
2013-05-29 18:00部室にいるときと同じく、時間を忘れて練習を続けた。ふと気づけばもう午後五時半を回っていて、外はぼんやりと薄暗い。小腹も空いてきた。
「夕飯はどうするんだ。また出前?」
「そのつもりだけど、何にするかはまだ決めてないのよね」
「よかったら私、作りましょうか」
紗津姫がポンッと手を合わせる。
「先輩が料理するってことですか?」
「ええ、また碧山さんにおごっていただくのも悪いですし。食材はありますか?」
「冷蔵庫にあると思うけど……」
「じゃ、お台所を貸していただきますね。おふたりはそのまま詰将棋をやっていてください。できたらお呼びします」
ずっと正座だった紗津姫だが、痺れる様子もなく立ち上がり、和室を出て行った。その超人ぶりに驚くと同時に、こらえきれない喜びが湧いてきた。
「先輩の手作り料理か……! こんなに幸せでいいのか?」
「な、何よ。手作り料理くらいで大げさな」
「そういう依恋は、 -
俺の棒銀と女王の穴熊【1】 Vol.21
2013-05-27 18:00☆
午後からは紗津姫との指導対局を集中して行い、あとは詰将棋の続きというカリキュラムになった。三時のおやつにチョコレートを食べていると、なるほど脳の疲労が緩和される感じだった。これからは部活のときにも堂々とお菓子を持ち込めそうだ。
「そういえば先輩は、普段どんな風に勉強しているんですか?」
「私は主に、プロの棋譜を並べています。スポーツでもプロの試合を見て研究するっていうのがありますよね。あれと同じです」
最初に部室に行ったとき、紗津姫がひとりで将棋盤に向かっていたことを思い出す。あれは棋譜並べをしていたのだ。
「じゃ、じゃあ俺は先輩の棋譜を並べてみたいです!」
「そんなの記録してないんじゃないの?」
「大丈夫ですよ。だいたい頭の中に入っていますから」
紗津姫はあっさり言ってのけると、すべての駒を初期位置に戻した。
「これは去年、私がアマ女王を奪取したときの棋譜です」
紗 -
俺の棒銀と女王の穴熊【1】 Vol.20
2013-05-25 12:00☆
将棋を覚えて初めて味わったのが、脳が燃焼するという感覚だった。
人間の脳は何割かが常に働いていないといわれるが、その部分が強引に叩き起こされて稼働しだすような感覚があるのだ。学校の勉強などよりもずっと脳が熱くなり、見えない汗を掻いているような。
「だからプロの対局でも、タイトル戦ではおやつが提供されるんです。盤を睨みながらケーキを頬張って栄養補給して、次の一手を考えるんですよ」
「わりとシュールな光景ですね、それ。ごちそうさまっした」
こってり美味しいミックスピザは、すぐに平らげられた。頭蓋骨の内側に新鮮な血液が巡る。失われた脳の栄養を取り戻すのに、これもとてもいい食べ物だったようだ。
「将棋の勉強は、もう少し休憩してから再開しましょうか」
紗津姫はそう言いながら、ティッシュで口元を拭く。何気なさそうな仕草も、紗津姫の手にかかれば貴婦人のように優雅になっている。
こ -
俺の棒銀と女王の穴熊【1】 Vol.19
2013-05-24 12:00最初は八枚落ちで捻られた来是だが、今は四枚落ちの手合いで指している。駒落ち将棋にはすべて定跡があり、正しい手順を教えてもらったので、もう六枚落ちでは負けることはなかった。
「実にいい指し心地ですね。身が引き締まります」
部活のときよりもいい音を立てて、紗津姫は軽やかに指している。正座する女王は、和室の風景と完全に溶け合って、いっそう美しさを増していた。
この前、プロの女流棋士の写真を見た。タイトル戦では華麗な和服を着ることが多いらしいが、もし紗津姫がそうしたら、どれほど美しくなるのだろうか……?
「……ってこれ、この前教わった定跡と違うじゃないですか?」
「ふふ、こういう手もあるんです」
当然、上手の駒が増えれば定跡は複雑になっていく。さらに、あえて定跡を外すことで下手を混乱させるテクニックもある。来是はどうしたらいいかわからなくなった。
そして、あえなく失着を連発する。その隙に -
俺の棒銀と女王の穴熊【1】 Vol.18
2013-05-23 12:00■4
明くる土曜日。碧山家でのミニ合宿は、さっそく午前から行われることになった。
幼い子供の頃は、頻繁に依恋の部屋に通っていた……というより、無理矢理連れ込まれていた。そしてお姫様と執事、あるいはキャリアウーマンと主夫、あるいは女教師とダメ生徒などという役回りでおままごとをさせられていた。
しかし小学校高学年あたりから、依恋は来是をさっぱり招かなくなった。男女を意識しだしたのだということは、今になってみれば容易にわかる。逆に依恋のほうは来是の部屋に突入してくることがしばしばだったが。
「かれこれ五年ぶりくらいか」
ほどほどの感慨にふけりながら、来是は高さ二メートルはある門扉の脇のインターホンを鳴らす。
「はい」
「おう依恋、俺だ」
「来是? うん、ちょっと待ってて」
すぐに幼馴染が玄関から出てくる気配がした。足取りがとても軽そうだった。
「いらっしゃ――」
門が開かれるのと同時 -
俺の棒銀と女王の穴熊【1】 Vol.17
2013-05-22 12:00浦辺はそれからもいくつかの質問をして、インタビューの締めに入った。
「えーと、最後に交流戦についての意気込みを語っていただければと」
「そうですね……。相手の大蘭高校はとても手強いですし、新入部員のおふたりも、本格的に将棋を始めて間もないです。厳しい戦いになると思いますが、ただ勝つことだけを考えるのではなく、まずは楽しむことです。楽しむ心を忘れず、いい棋譜を残そうと心がければ、おのずといい将棋になると思います」
「うんうん! 春張、碧山さん、頑張ってくれよ」
「おう、頑張るさ」
「それでは、取材は以上っす! どうもありがとうございました!」
浦辺が道具をしまおうとしたところで、依恋が慌てて声を上げた。
「ちょ、ちょっと。あたしへの取材はないの。いくらでも撮影して構わないって言ったじゃない」
「あー、ごめん。それはまた次の機会にさせてくれないかな。コンセプトがぶれちゃいけないし」
「コン -
俺の棒銀と女王の穴熊【1】 Vol.16
2013-05-21 12:00☆
集中できることがあると、時間の流れも速く感じられるようになった。学校から帰ったら予習復習もそこそこに、将棋の勉強に明け暮れる。そうするとあっという間に日付が変わっているのだ。
中学時代まで夢中になっていたテレビゲームは、さっぱりプレイしなくなった。少なくとも将棋のほうがよい趣味だと思われているようで、高校入学を機に変わった息子の様子に、両親もなかなかご機嫌だ。
今週最後の授業も終わった。この放課後が、今や何にも代えがたい至福の時間だった。鞄を持ってそそくさと立ち上がる。
「春張、将棋部にいる神薙さんって二年生が学園クイーンなんだって?」
クラスメイトの浦辺が話しかけてきた。早く部活に行きたいのだが、周囲との交流も大事だ。それに紗津姫の話題となれば無視できない。
「ああ、そうだよ。やっと先輩のことが一年生にも伝わってきたみたいだね」
俺は始業式の日から知ってたぜ、とプ -
俺の棒銀と女王の穴熊【1】 Vol.15
2013-05-20 12:00☆
「それじゃあ今日からは、守りの大切さを勉強していきましょうか」
「よろしくお願いします!」
放課後、生き生きとして部室に向かった来是は、紗津姫を目の前にしてますますテンションが上がった。依恋は不気味なほど静かにしているが、いちいち気にかけない。
「これまでは攻める楽しさを実感してもらうために、おふたりには好きなように指してくださいと言ってきましたが、やっぱり守りを大切にしないとなかなか勝つことはできませんからね」
「この前の道場でも、負けた将棋は守りの差が大きかった気がします」
どんな競技でも共通することだが、上手い人は攻撃はもちろん守備が上手い。攻撃は最大の防御などという言葉は、話半分に聞いておかなければならないのだ。
「まずもっとも大事なのは、王様をそのままの位置に放置しないことです。初期位置のままでいることを居玉と言いますが、『居玉は避けよ』という格言があって」
「 -
俺の棒銀と女王の穴熊【1】 Vol.14
2013-05-19 12:00■3
なぜ男は巨乳に惹かれるのか。
宇宙に到達し、物質の最小単位・素粒子まで観察するようになった人類が、そんなシンプルな問いになかなか答えを出せないでいる。それらしい説はいくつか提示されているが、もちろん来是にとって小難しい理由はどうでもいい。
今、目の前に憧れの先輩がいる。
制服を押し上げる豊かすぎるバストを見せつけながら、聖母のように優しく将棋を教えてくれている。ただその現実だけでよかった。
彼女が後ろに回ると、わざとなのか無意識なのか、温かい膨らみが背中に当たった。
「春張くん……教えてほしいことは他にありますか?」
もしかして、将棋以上のことを教えてくれるつもりなのだろうか?
幸せだった。こんな幸せは他にない!
「むふふ、先輩、俺にもっとあれやこれやのご指導を……!」
そう口にした途端、頭を思いっきりはたかれた。
「寝ぼけていないで、早く起きなさい!」
「ぬわ?」
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俺の棒銀と女王の穴熊【1】 Vol.13
2013-05-18 20:00☆
休憩と昼食を挟みながら、六局の勝負をこなした。
今のところ、三勝三敗。最初の対局ではどうにか勝てたが、同じ4級の別の人にはミスを連発してしまい、勝つことができなかった。あとの二敗は5級と6級が相手だったが、これも序盤で致命的なミスをしてしまって、いいところなく負けた。
部活の練習とはまるで違う。勝てばとても嬉しいし、負ければとても悔しい。そんな当たり前のことが、ストレートに突き刺さってくるのだ。
「はあ、頭が疲れる……」
自動販売機のジュースを飲みつつ、次の対局を待つ。
「お疲れ様、春張くん。健闘しているみたいですね」
紗津姫はとても涼しい顔だった。
「先輩はどんな調子です?」
「おかげさまで、今のところ全勝です」
「さすがですね……」
依恋はどうしたかな、と視線を向ける。ちょうど対局が終わったようだ。受付に手合いカードを持っていく。
対局が終わると、勝ったほう
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