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俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~史上最躍の棋士~ Vol.5
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俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~史上最躍の棋士~ Vol.5

2015-02-08 13:00
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     結局、このときの長考が仇となった。時間に追われた大熊は終盤で悪手を指し、それからわずか数手で寄せ切られた。一手違いに持ち込むことさえできなかった。まさに完敗である。
    「すごい手ですね、この銀は……」
    「私も最初に知ったときは、驚きましたよ。実はこれ、ソフトに指された手だって、他の人から教えてもらいましてね」
    「え?」
    「まあ、本当に有効かどうか確証は持てなかったんですが、今回は上手くいったようで」
    「そうですか……。いやしかし、てっきり誰かが思いついた手なのかと」
    「大熊さんは、ソフト否定派ですか?」
    「いやいや、人間が指そうがソフトが指そうが、いい手はいい手です」
     なぜSHAKEはこれを指さなかったのだろうか。最善を尽くせば後手がやれる――ということであってほしかった。最高のパートナーと信じるSHAKEが、他のソフトに劣るとは考えたくない。
     感想戦は▲5五銀左の周辺から、およそ一時間の長きに及んだ。大熊はフリークラス脱出に向けて手痛い黒星を喫したことを、今は少しでも忘れようとした。藤田もまだ数年の猶予があるとはいえ、立場は大熊と大差ない。今後、この将棋にどのような有望な変化が現れるか、懸命に探っているようだった。
     将棋会館を出る頃には、夜の八時を回ろうとしていた。腹も減っているし、朝と比べて寒さは一段と厳しい。体が余計に縮こまる。
     勝ちたかった。水面下で研究されている、見たことのない手を指されても、腕力でねじ伏せて勝ちたかった。SHAKEとの練習でも、新手らしい手を指されたことは何度かあった。そんな局面でも、勝てることはあったのだ。
     だが、今回は負けた。単に黒星を重ねたという以上に、棋士としての資質を試されたような気がした――。
    「大熊さん、お疲れさま」
     背後から声がかかった。ゆっくり振り向くと、真っ黒な防寒着姿の伊達が立っていた。
    「名人、まだ帰ってなかったの?」
    「あなたの対局が気になってましたから。記録係の子に聞きましたけど、すごい手が出たようで」
    「君も知ってたんじゃないのか」
    「いや、最近は研究会をすることもありませんからね。実に面白い手だった」
     名人位から陥落したら、引退する。今もなお波紋を広げている伊達の宣言を、大熊は論評するつもりはない。自分がどうあがいても手の届かない棋界の最高位を、永久に放棄しようとしている――複雑な気持ちがあることは確かだが、何をどうしようと、結局は本人の自由だ。将棋界のためにと慰留するつもりもない。
     だが、すでに引退後を見据え、勉強もせずに将棋以外の活動にシフトしている――この噂がどうやら真実らしいことを知ってしまっては、一言くらい言ってやりたくなった。
    「なあ伊達くん。俺が気になってるなんて、冗談だろ?」
    「僕は将棋に関しては、決して冗談は言いませんよ。大熊さんは今や、将棋界でもっとも注目を集める棋士と言っていい」
    「……そりゃ、嬉しい気持ちはある。しかし将棋ファンが応援するならともかく、同業者がそういうことを言うのはどうかね。しかもついこの前、自分を負かした相手に」
     棋士は互いがすべて、競争相手だ。たとえ同門でも師弟でも、対局となれば全力で負かしに行くのが将棋だ。その競争相手を応援するようなことを、大熊はただの一度もしたことがない。しかしこの名人は……。
    「正直に言います。僕は将棋界が盛り上がるなら、なんだってしたい。この目的の前には、名人だのなんだの、小さいことです」
    「本気か?」
    「ええ。そこでひとつ、大熊さんにお願いがあるんですが」
     伊達の目は真剣だ。「名人だのなんだの」という言い回しはひとまずおいといて――こちらも真剣に聞く必要がある。
    「今度、クリスマスフェスタが開催されるのはご存じでしょう? サプライズとして、出てくれませんか」
     将棋連盟は近年、この季節になるとクリスマスフェスタを開催し、ファンとの交流を図っている。人気棋士との写真撮影や指導対局といった催しが好評を博していることは大熊も知っているが、高知在住の人間にはまるで縁のないことだった。そもそも自分が人気棋士の枠組みに入るわけがない――。
    「プログラムはもう決まってるんじゃないのか」
    「企画立案には僕が関わっていますから、多少は調整できますよ。大熊さん、その頃また連戦しに上京するでしょう? タイミングもいいはずだ」
     手合課に聞いてきたらしい。まったく隙のない準備のよさだった。
    「……あとでメールくれ。今は明日の対局のことだけを考えたい」
    「わかりました。では失礼」
     伊達の姿が見えなくなってから、大熊も帰路についた。ややこしいことは考えないで、今日一日の疲れを癒やすのが先決だ。
     カプセルホテルに戻ると、昨日同様に大浴場にゆっくり浸かり、遅い夕食を取った。アルコールを飲みたい気分だったが我慢した。明日こそは勝利の美酒に酔うとひそかに誓った。
     午後十一時には寝床に入り、さっさと消灯する。脳は疲弊しきっており、すみやかに睡魔がやってきそうだった。
     ……が、気になることが浮上してきた。大熊は真っ暗なカプセルの中、スマホを取り出す。
     将棋連盟のサイトにクリスマスフェスタの情報は掲載されていた。出演棋士のトップに伊達名人の名がある。他にもベテランから若手まで、人気棋士がずらりだ。自分は場違いに思えた。もっともサプライズと言っていたから、出演が確定しても、ここに大熊大吾の名が載ることはないのだろう。
     そして、ゲストの項目に気になっていた名を見つけた。
     将棋アイドル・神薙紗津姫。
     その見慣れない肩書きは、プロデューサーの伊達清司郎によって、一気に将棋ファンの間に広まっていた。大熊も彼女の将棋部のブログは見ているし、教室の子供たちも、ここのところよく話題に出している。たいした逸材を発掘したものだと思っていた。
     このアイドルに会ってみるだけでも、出る価値はあるか。大熊はそんなことを考えながら、今度こそまぶたを閉じた。
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