【前書き】
政治とは、民意を受け止めることに始まり、民意を反映させることで完結する営みだ。ところが今、私たちの前に立ちはだかっているのは、民意に背を向けたまま政権にしがみつこうとする政治家の姿である。2025年参議院選挙。その結果は明白だった。自民党は大敗を喫した。
だが、石破茂首相は「比較第一党」という曖昧な表現を盾に、まるで勝利したかのような言い訳を重ね続ける。そして、過去の自民党首相たちが潔く退いた例にならい退陣すべき場面でも、続投を表明したのである。
今回の記事では、石破政権がなぜ退陣すべきかを順を追って解説していく。民意を受け止めずに居座る政治家の姿勢が、いかにこの国の未来にとって有害であるか。その構造と責任を、あなたと一緒に紐解いていきたい。
第1章「敗北を認めぬ言葉遊び──『比較第一党』の欺瞞」
◆“敗北”を曖昧にする言葉のマジック
選挙とは、民意を映す鏡である。その鏡が示したのは、自民党に対する明確な「NO」だった。ところが、石破茂首相はその現実を直視することなく、「比較第一党」という聞き慣れない言葉を繰り返した。
この言葉は、「他党よりは議席が多かった」というだけのこと。しかし、国民が政権に求めたのは「過半数」という信任の証であり、「比較的に多い」という言い訳ではなかった。
◆会見で4度繰り返された“逃げ”の構文
石破氏は選挙後の会見で、この言葉をわずか30分間に4度も繰り返した。
「比較第一党としての責任を果たす」
「多くの方々の支えに感謝しながら、比較第一党の議席をいただいた」
まるで敗北がなかったかのような語り口。だが、この発言を聞いた有権者の多くが抱いたのは「また言葉で逃げたか」という深い失望だった。
◆政治家の最大の責任とは何か?
この国では、過去に多くの首相たちが選挙に敗れれば潔く身を引いてきた。
政治家が敗北を認め、自らの退場をもって責任を示すこと。
それは「信なくば立たず」の原則に則った、当然の対応だった。
だが今、その倫理観が崩れようとしている。
石破氏は「比較第一党」という言葉にすがり、まるで辞任の必要はないと言わんばかりに会見を終えた。
◆“比較第一党”という欺瞞の正体
この言葉の本質は、「責任のすり替え」である。
真の敗北を覆い隠し、「最大議席だから政権は続く」という論理にすり替える。だが、有権者の声を無視したその姿勢こそが、政権の“正統性”を大きく損なっている。
「最大議席=正当性」とは限らない。
選挙は結果以上に、その後の姿勢が問われる。
勝って謙虚に、負けて潔く。それが政治家のあるべき姿であり、石破氏はまさにその逆を行っている。
◆結論:居座りは信頼を崩壊させる
石破茂氏が「比較第一党」という表現を用いた本質は、敗北の自覚のなさ、そして責任を回避しようとする姿勢にある。
日本の未来を託すには、あまりに“軽い”覚悟だ。
このような姿勢のまま政権が続けば、国民の信頼は根底から崩れ去る。
次章では、過去の首相たちがいかにして責任を取ってきたのか──その比較から、今の政権の異常さをさらに浮き彫りにしていく。

第2章「過去の首相たちは退陣してきた」
◆“責任”とは、言葉ではなく行動で示すもの
石破茂首相の「続投宣言」は、政治における倫理と美学を踏みにじるものだった。
かつての日本の首相たちは、自らの政権が国民の信任を失ったとき、逃げずに責任を取った。潔く退陣し、政権を次に託すという覚悟があった。
宇野宗佑氏──参院選で自民党が敗北した翌日、即座に退陣。
橋本龍太郎氏──同じく参院選で敗北した翌朝に記者会見を開き、自らの責任を認めて総辞職を決断した。
この国のリーダーたちは、「負けたら辞める」という政治的な美学を共有していた。
それは単なる形式ではなく、国民に対する最大の誠意であり、次世代への道筋を開く責任だった。
では、石破茂氏はどうだったか。
彼は、明確な敗北を喫しながらも、「比較第一党として責任を果たす」と語り、政権への執着をにじませた。
◆“前例”を無視した続投の愚かさ
石破氏は「政治の停滞を避けるため」と続投の理由を語ったが、それはあまりにも一方的な理屈だ。
むしろ、敗北の結果を明確に認めない姿勢こそが、政治不信を生み出し、社会全体を停滞させる温床となる。
過去の首相が退陣することで社会に与えた影響は、「リーダーの交代が政治の刷新になる」という前向きな機運だった。
だが石破氏の続投表明は、リーダーの失敗を曖昧にし、責任の所在をうやむやにする悪しき前例となる。
◆時代が変わったからではない。覚悟がないのだ
よく耳にするのは、「今の時代、簡単に辞めるべきではない」という声である。
だが、その論理は、真の責任から逃れる免罪符にはならない。
政治とは、信頼の上に成り立つものであり、信頼を失えば立場を譲るのが当然だ。
時代が変わったのではない。
変わったのは、政治家の覚悟である。
◆信を失った者に、政権を担う資格はない
有権者の声を無視して政権に居座り続ける。
それは、民主主義の根幹を否定する行為に等しい。
「民意を受け止める」という最も基本的な責任を放棄する政治家に、政権を任せておくことはできない。
石破氏の続投によって、日本の政治は「責任を取らなくてもよい場所」になりつつある。
この空気こそが、日本の政治劣化の象徴である。
次章では、今回の選挙で失われた保守政治家たちの声──杉田水脈氏らの落選が意味するものに迫っていく。

第3章「保守政治家の大量落選──自民左傾化の象徴」
◆失われた“保守の矜持”──次々と姿を消した国士たち
2025年の参院選は、自民党の保守層にとって“壊滅的”とも言える結果となった。
杉田水脈氏、佐藤正久氏、赤池誠章氏、和田政宗氏、長尾敬氏──。
これまで国民のため、国のため、時には孤立を恐れず本音を語ってきた政治家たちが、次々と議席を失っていった。
それは単なる選挙結果の話ではない。
保守の良心が政治の場から姿を消していった瞬間だった。
杉田水脈氏の落選は、その象徴的出来事だった。
SNSでは「これからも日本のため、力を尽くす」と誓ったが、その背後には、かつて彼女を支えてきた多くの保守支持者の無念がにじむ。
◆誰が保守を見捨てたのか?
選挙戦で左派的なスローガンや曖昧な外交姿勢が目立った石破政権下の自民党。
本来守るべき保守の価値──家族、伝統、国益──が後回しにされ、むしろ党内では「保守色を出さない方が得策」とされる空気さえあった。
その結果、比例代表では保守派の“象徴”たる人材が冷遇され、特定枠によって優遇された一部候補が議席を奪っていった。
「現場で戦う人間よりも、空気を読める人間」が優先された。
この構図が、今の自民党の“病巣”を如実に物語っている。
◆有村治子氏の孤軍奮闘と“希望の火”
そんな中で、唯一保守の矜持を守り抜いたのが有村治子氏だった。
5回目の当選を果たした彼女の存在は、保守層にとって数少ない“光”である。
だが、それはあまりに小さな火であり、いつ風に吹かれて消えてしまってもおかしくない。
彼女ひとりでは、かつての保守議連が担っていた役割をすべて背負うことは不可能だ。
必要なのは、有村氏のような政治家を支える“土壌”と“政権交代の覚悟”である。
◆結論:政権の左傾化は、保守層の離反を加速させる
保守層の大量落選──それは国民の声を聞こうとしなかった政権への“報復”でもあった。
石破政権が追い求めた「中道・リベラルへの接近」は、結局どちらの支持も得られず、最も大切な“土台”である保守支持層の信頼を裏切った。
日本の未来を真剣に考える者たちが、議席を奪われ、沈黙を強いられたこの選挙。
この事実を見過ごしてはならない。
次章では、石破首相が繰り返し口にする「政治の停滞を避ける」という論理が、いかに現実からかけ離れているかを検証していく。

第4章「“政治の停滞”という都合の良い口実」
◆“国政の停滞”は誰が生み出しているのか?
石破茂首相は会見で「今、最も重要なのは政治の停滞を防ぐことだ」と繰り返した。
耳障りは良いが、その言葉が意味するところは実にあいまいだ。
では、ここで立ち止まって考えてみたい。
本当に「政治の停滞」を生み出すのは、選挙結果を受けて退くべきタイミングで居座りを決め込む政権なのか。
それとも、民意を真正面から受け止め、新しい体制をつくることで流れを変えることなのか。
◆停滞の正体は“責任の曖昧さ”
選挙において明確な審判が下ったにもかかわらず、それをあいまいな言葉で打ち消す。
その瞬間、政治の現場に生まれるのは「判断の宙づり」だ。
官僚機構も、党内も、そして国民さえも、次に進めない。
それが本当の“停滞”ではないか?
政治の停滞とは、指導者が方向性を示せないときに生まれる。
選挙で否定された指導者が続投することこそが、社会を混迷させ、必要な判断を先送りする温床となる。
◆「続けること」が安定ではない
政治の継続性は重要だ。
だが、それは“信任された上での継続”であって、“敗北しても継続する”という意味ではない。
むしろ敗北しても居座ることは、国民の選択を踏みにじる暴挙に他ならない。
石破氏の言う「停滞を避けるための続投」は、責任から逃げる口実であり、保身を正当化する論理のすり替えだ。
◆結論:動かぬ政治は、居座る政権が作る
本当に政治を前に進めたいのであれば、潔くバトンを渡すべきだ。
新しい人材、新しい方向性、新しい決意こそが、政治に“動き”を取り戻す鍵なのだ。
「停滞を避けるために辞めない」のではない。
「停滞を解消するために辞める」のである。
石破政権の最大の停滞要因は、まさに石破氏本人にある──。
次章では、外交と安全保障という日本の命綱を、石破政権がどう向き合っているのか。
その脆弱さと危機意識の欠如を明らかにしていく。

第5章「外交力の欠如──日米交渉の迷走」
◆“米中の狭間で漂流する日本外交”の現実
2025年の参院選後、石破政権の外交的脆弱さが一気に浮き彫りとなった。
最大の焦点は、トランプ政権による強硬な関税政策──いわゆる「トランプ関税」への対応である。
ベセント米財務長官の来日、そして8月1日までとされた交渉期限。
にもかかわらず、日本側は明確な対策もなく、手探りのまま漂流していた。
◆“対中包囲網”を理解できぬ政権の限界
トランプ氏が提示した14カ国への追加関税案──その構造の中で、日本は“特異な存在”だった。
中国と対峙し、アメリカと共に安全保障を担うはずの日本が、BRICS諸国や一帯一路参加国と並列に扱われた。
この外交的な屈辱に、石破政権はまともな抗議すらできなかった。
それどころか、「選挙で忙しい」「国民生活の安定が先だ」として、国際交渉を後回しにしてきた。
◆“コメ700%関税”への無策と沈黙
トランプ氏が米国産コメの関税を槍玉に挙げた問題も、同様だ。
「日本は友人のはずなのに、我々のコメに700%の関税を課している」
この発言は、事実誤認を含みながらも国際世論に火をつけた。
それに対し、石破政権はまともな反論を行わず、「正確性に欠けるが、感情的には理解する」と弱腰な姿勢を取った。
結果、日本は「不誠実な交渉国」「市場閉鎖国家」というレッテルを貼られるに至ったのである。
◆“外交は静かにやるべき”という幻想
石破氏は「外交は静かに、粘り強くやるべきだ」と語る。
だが、現実は“静かすぎて何も進まない外交”になってはいないか?
トランプ政権は、数字と結果を重視する現実主義だ。
そこに“曖昧さ”や“儀礼的発言”は通用しない。
石破政権の外交は、まさに平成的手法の限界を露呈したものであり、2025年の世界情勢にはまったく通用していないのだ。
◆結論:交渉の場に立つ資格が問われている
日本の未来を決する場面で、なぜ“鈍い政権”が代表を務めているのか。
これは国民にとって、もはや笑い話では済まされない深刻な問題である。
関税、安全保障、TPP、食糧自給率──。
いずれのテーマにおいても、石破政権は「交渉すべきときに黙り、説明すべきときに逃げる」姿勢を貫いてきた。
このままでは、日本は国際社会において「信頼なき協力国」の地位に甘んじることになる。
次章では、安全保障の核心──尖閣、台湾有事、そして防衛費──に、石破政権がいかに無責任であるかを明らかにしていく。
第6章「国防なきリーダーが日本を危うくする」
◆“自衛なき国家”へと向かう石破政権の危うさ
国家の要──それは「守る」ことである。
どんなに経済が好調でも、どれほど平和を謳っても、安全保障の土台が崩れれば、その国家は一瞬で瓦解する。
2025年の今、日本を取り巻く安全保障環境は激変している。
中国は尖閣諸島周辺での領海侵犯を常態化させ、台湾海峡では緊張が日増しに高まっている。
北朝鮮は弾道ミサイルを繰り返し発射し、ロシアは極東における軍備強化を進めている。
この現実の中で、石破政権は果たして“備え”を持っていたのか?
答えは否である。
◆防衛費“増やすフリ”で責任回避
石破氏は会見で「防衛費の増額は検討している」と語った。
しかし、その内実はあいまいな“中期的見直し”に過ぎなかった。
自衛隊の装備更新、島嶼防衛体制の再構築、サイバー・宇宙・電磁波領域への投資──どれも“必要性は認める”だけで、具体策は示さず。
それどころか、防衛費の増額に否定的な公明党との協調を優先し、「財政規律の中での防衛強化」といった聞こえの良いが実質空虚な方針に終始した。
これでは、仮想敵国に“脅しが通じるわけがない”。
◆“台湾有事”は他人事なのか
米国は繰り返し、「台湾有事は日本有事でもある」と警告を発している。
だが石破政権は、その発言を「地理的には否定できない」と言葉を濁しつつ、「外交努力が第一」と述べるのみ。
外交と防衛は両輪である。
防衛力という“実”の裏付けなき外交努力など、相手国にとっては“弱腰”としか映らない。
石破政権は、外交を優先するという美名のもとで、防衛力強化の議論から逃げているだけである。
◆“国を守る覚悟”が感じられない政権
防衛における最大の要素──それは装備でも金額でもない。
「国を守る」という覚悟である。
かつて、尖閣の問題に際して明確に「武力侵攻には断固たる対応を」と言い切った政治家がいた。
だが今の石破氏には、その熱量が感じられない。
「丁寧な対話を重ねる」「衝突は避けねばならない」──それは当然の姿勢である。
だが、“侵略を前提とした行動”に対してまで「対話」で済ませようとする姿勢は、日本の防衛を危うくするだけだ。
◆結論:覚悟なき政権に、国防の舵取りは任せられない
この国のリーダーに必要なのは、外交辞令ではない。
“万が一”を想定し、最悪に備えるリアリズムと、そのときに動ける即応体制の整備である。
石破政権が掲げる“防衛強化”は、曖昧な将来像に過ぎず、現実への即応力を欠いている。
この政権に、国を守る覚悟はあるのか──。
国民の命を守る責任が、本当にあるのか──。
いま、その資質そのものが問われている。
次章では、締めくくりとして「あとがき」に入り、今回の選挙で失われた保守の声と、国を憂う民意の重みを改めて記していく。
【あとがき】
◆“失われた声”の意味を、私たちは噛みしめなければならない
今回の参議院選挙は、単なる政党の勝敗を超えた意味を持つ選挙だった。
それは「この国を守り抜こう」としてきた保守の政治家たちの退場を、私たち国民自身が許してしまった瞬間でもある。
杉田水脈氏の落選──。
それは、保守層にとって「一つの時代の終わり」を意味した。
「日本の国柄」「家族の絆」「日本人としての誇り」──そうした価値観を掲げ、メディアの攻撃にも耐え抜いてきた政治家が、議席を失った。
同様に、佐藤正久氏や長尾敬氏、赤池誠章氏といった“日本の背骨”とも言える政治家たちが、静かに舞台を去った。
それが意味するものは、あまりにも重い。
◆「信を問うた結果だから仕方ない」では済まされない
確かに選挙は民主主義の根幹であり、結果は民意そのものだ。
だが、私たちは本当に“正しい判断”ができたのだろうか?
メディアに踊らされ、一部のスキャンダルに目を奪われ、政治家の「志」や「国益」よりも、「パフォーマンス」や「言葉尻」ばかりに注目してしまったのではないか。
今、杉田水脈氏のような国士を議会の外に追いやってしまった現実を、国民一人ひとりが受け止めなければならない。
◆“日本の損失”を二度と繰り返さないために
この国には、まだ守るべきものがある。
この国には、語るべき誇りがある。
この国には、次の世代に手渡すべき希望がある。
それを真正面から訴え続けた保守系議員たちの落選は、日本の損失であり、我々全体の失敗だった。
だからこそ、我々には責任がある。
「次こそは、見誤らない」と誓いを新たにしなければならない。
石破政権の延命に付き合う時間は、もう終わりだ。
国民が声を上げ、立ち上がり、正しい方向へと政治を動かす。
それが、日本を取り戻すための第一歩なのだ。
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※高倉 龍之介(政治フリージャーナリスト・映像クリエイター)