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石のスープ
定期号[2013年2月21日号/通巻No.70]

今号の執筆担当:渋井哲也


渋井哲也 連載コラム【“一歩前”でも届かない】vol.11
「失った命と、新たな命を感じながら」




■瓦礫の中で探し物をしている2人の女性と出会う

 2011年5月11日、岩手県見宮古市光岸地で、瓦礫の中から何かを探している女性二人と出会った。工藤千鶴子さん(当時34歳)と義母の洋子さん(同65歳)だ。洋子さんの腕の中には、千鶴子さんの子ども、紅(あかり)ちゃん(同2歳)もいた。
 
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[キャプション]瓦礫の中から探し物をしていた
工藤千鶴子さん(右奥)と洋子さん(手前)  

 閖伊川が宮古湾に流れる河口の辺りで、周辺には宮古魚市場がある。数百メートル上流にいけば宮古市役所。すぐそばの愛宕交差点を北上すると田老地区に向かうことができる。

 千鶴子さんの義父(同75歳)と夫(同35歳)は、ここで板金屋を営んでいた。宮古市の沿岸や川沿いは高い堤防で覆われている。その川沿いの堤防(防潮堤)のすぐ裏に事務所があったのだが、事務所からは直接、海面や川面は見えない。堤防は約3.5メートルの高さで、津波警報が鳴っていても、堤防のそばから津波自体は見えない位置にあった。

 「写真もなくなってしまいました。古いのはあるんですが」

 3月11日の津波によって、事務所にあったものは全て流されて紛失した。千鶴子さんたちは、瓦礫の中から少しでも思い出の品が見つからないかと探していたのだ。
 当時、千鶴子さんの子どもは4人で、小学生1人と保育園児2人、そして紅ちゃんがいた。自宅は事務所から1.5キロほど離れた高台にある中里団地だったが、地震があったとき、千鶴子さんや未就学児の子どもの3人は、夫や義父とともに事務所にいた。地震で近くの蔵が崩れそうになっているのを見て、千鶴子さんは外へ逃げた。

 「向かいの蔵を見ていたら、壁がガタガガタと崩れて来て、いつも(の地震)と違うって思って、作業場にいた夫と義父の2人に話したら、『逃げたほうがいい』となったので、夫と一緒にちびっ子3人を車に乗せて、長女が通う小学校へ回っていったんです」

 長女が通っている鍬ヶ崎小学校では、地震の際は、保護者が学校へ迎えにいくことになっていた。とくに何も持たずに、急いで向かった。板金屋の事務所には、義父が残った。

 「義父には早く逃げたほうがいいと言ったんです。ただ、義母が宮町にいたので、心配で迎えに行くと言っていました。トラックで向かえに行ってもらおうと、そこで別れてしまったんです」

 宮町に行くには、愛宕交差点を宮古市役所方向に進み、築地交差点から国道106線を閉伊川沿いに上流へと進むことになる。しかし、結果として、義父は義母には会えなかった。

 「2時46分の地震があって、義母に3時10分ごろにやっと電話がつながったんです。これが最後の電話でした。『早く逃げて』って言ったんです。そうこうしているうちに、津波予報の高さが増して来ていたんです。50cm、1m、3m、6m、10mと、どんどんあがって来ていたんです。もうダメだって思ったんで、小学校の近くの熊野神社まであがったんです。私たちも、そのままそこで避難していました」

 鍬ヶ崎小学校は、沿岸から3〜400メートルほど、標高15メートルほどの場所にある。同校では、地元消防団の判断で「小学校にいるよりは、高台になっている熊野神社へ」という指示があり、小学生は無事だった。千鶴子さんたちも小学生たちが避難するのを確認し、神社へと避難した。このとき、千鶴子さんは義父に電話している。

 千鶴子さん「今、どこにいた?」
 義父「まだここにいた」

 千鶴子さんたちが熊野神社に避難したとき、義父はまだ避難せずに、板金屋の事務所にいた。熊野神社の高台から、北側は鍬ヶ崎、南側の蛸の浜が見えた。

 「真っ黒くて、気持ち悪いような水が見えたんです。映画みたいに。変な感じです。二番目の子どもは津波を見たかもしれない。しばらく、夜に泣いたりして、『地震がくるの?津波がくるの?ここまであがってくるの?』って言ってました。地震がくるたびに思い出していました。今は大丈夫だとは思いますが、地震があると思い出すみたいで。まだ余震がありますから」 
 
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[キャプション]堤防の裏にあった板金屋の事務所跡  

 
■逃げ遅れた家族への悔恨

 「完全な逃げ遅れですね」と洋子さんは言う。夫をなくした洋子さんは、悔しい思いを引きずっていた。
 逃げ遅れた夫の遺体は、震災から18日後の3月29日、事務所から約100メートル離れた愛宕交差点付近のガソリンスタンドで、瓦礫の中から見つかった。顔に内出血の跡があり黒ずんでいたが、本人である事は確認ができた。

 「生きていれば自分で戻ってくると思っていた。でも、震災から何日も経っているし、ずっと見つからないでいた。もしかしたら海のほうへ流れて行ってしまったかもしれない、とも思っていました。一時は諦めていたんです。だから、見つかっただけでも……。でも、見つかったけど、悔しい。海が憎いっていうか……」

 夫と交わしたの最後の言葉は、何気ないものだった。

 「確定申告をするために、宮町に行ったんです。車に乗せていってもらっただけで、『じゃあ、行ってくるから』と言っただけだった。向こうは何も言わなかった。申告が終わって、立ち上がったときに揺れて、すぐ外に出たんです。治まっても、またすぐに地震で……。宮古駅のほうから愛宕の方まで歩いて行ったんです。近くのものに捕まりながら、歩いたり、走ったり。でも、余震があったりして……。やっと愛宕まで来ると、津波が来てて何もできない状態だったんです。『津波が来たよ』って言われて、後ろを見たら、防波堤を越えてきたので、もうだめだって思って。すごい高い波だったんです。もしかしたら、(国道45号などの)表通りを歩いたら(私も)ダメだったかもしれない。(国道45号から一本山側の)裏通りを歩いていたからよかったんです」

 千鶴子さんは、義父が逃げ遅れた責任を感じていた。

 「あのとき、無理矢理にでもひっぱって連れていけばよかったなあ、とか思ったりします。自分でも何かできることがあったんじゃないかとも思って。電話でもっと言っていればよかったんじゃないか、って。でも、『あんたのせいじゃないんだよ』ってみんなが励ましてくれて。いろんな人の言葉で救われた。最初は、自分の責任じゃないかって思っていたんです」  
 
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[キャプション]震災から2カ月目の月命日だったこの日、
千鶴子さん達は事務所の跡地にお供えをしていた    


■5人の子どもの母として

 子どもから見ると祖父が震災で亡くなったことなるが、子どもたちはどう感じているのだろうか。千鶴子さんに聞いた。

 「津波は怖いものだってことを、子どもたちには知ってほしい。おじいちゃんが亡くなったことについては、顔が分かる状態だったので遺体を一緒に見たんです。その表情を見たときにはずっと固まっていたんですが、車に戻って来たときにはやっぱり泣いていて……。子どもたちには(見つからなかったおじいちゃんが)『戻って来てよかったね』と話したんです」

 自宅のある中里団地は高台だったために、浸水エリアではない。しかし、電気は止まり、断水した。そのため、懐中電灯で照らしながら炊事をしたり、水汲みの日課がしばらく続いた。給水所は最初の一週間はなかった。約1キロ離れた鍬ヶ崎小学校にはわき水があったので、その水を沸かして飲料水としていた。近所の人はみな並んでいた。その後、やはり1キロほど離れている第2中学校に給水ポイントができた。

 「小さい子がいるので、食事を食べさせないといけなかった。お風呂は入れませんでしたね。そのため、車で15〜20分の距離の実家へ連れて行ったんです。でも、最初の頃は、ガソリンが手に入れなくて、そこまで行くのも大変だったんです。出かけたいけど、出かけられなかったですね」

 その後、支援の物資がたくさん届くようになった。千鶴子さんは、大学時代を横浜で過ごしていたが、当時のインカレ・サークル仲間が調べて、段ボール箱に何箱分も支援物資を送ってくれたという。

 「野球のサークルだったんです。メールをすぐにもらったようなんですが、当初はメールの受信もできませんでした」

 小学校は4月6日の始業式予定だったが、25日に延期となった。その間、子どもたちを遊ばせる場所を見つけるのも大変だった。

 「いつもは遊ばせるのは、この事務所の近くだったんです。でも、遊ばせる場所もない。だから、家の中で悶々としているしかない。学校が始まってなんとか。初めは給食もだめなんじゃないか、と心配されたんです。給食センターは炊き出しもしていましたし。でも、いろんなところからの支援があったので、再開できるようになったんです。子どもたちの中には家が流された子もいたり、避難所から通っていた子もいたんですよね。ただ、学校が始まっても、体育館が避難所になっていたので、体育はできませんでした」

 このとき千鶴子さんは妊娠中だった。予定日は6月4日。5人目の子どもが産まれるのを待ち望んでいる時期だった。

 「いつもなら、ここ(事務所)にくれば、横になれるところもあったんだし……。それにいつも、学校や幼稚園から子どもが帰ってくると、お義父さんとパパが仕事をしているところに集まって、みんなでワイワイガヤガヤやっていたんです。でも、すっかり変わってしまった。子どもたちもいろいろ思うところがあって、我慢させたりする部分も多かったし、不安定な気持ちを出せないときもあって、親としてはかわいそうだな、って……」

 義父はバイクが好きだった。そのときの写真が残っている。自宅に飾っているその写真を見て、朝は「おはよう」と声をかけている。また、子ども達とも「連れていってもらったところで楽しかったところはどこだっただろうね?」と話している。近所にある「シートピア」(道の駅みやこ)も、義父と子ども達がよく遊んだ思い出の場所だ。

 「津波のことよりも、楽しかったことを子どもたちと話しています。お義父さんもパパもバイクが好きで、男の子には『陸王』というバイクの名前をつけたくらいですから。ニュースを見ると、津波の映像が出るので怖いですね。子どもたちには見せたくない。でも、見てほしいというのもあるんです。覚えていてほしいですから」 

 
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[地図]岩手県

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[地図]宮古市の市街地



*  *  *  *  *
 
 「石のスープ」編集部の渡部です。
 工藤千鶴子さんのお腹にいた子どもは、同年6月7日、無事に産まれました。2946グラムの女の子でした。直沙希(まさき)ちゃんと名付けられ、元気にしているそうです。

 今月、宮古市の同地区に行った際、久しぶりにお会いしたいと思って連絡したのですが、残念ながら会えませんでした。来月で震災からちょうど2年、三回忌を迎えます。千鶴子さんの義父のお骨はお寺に預けてあったのですが、三回忌をお墓で迎えられるようにとお寺に行く日が、僕の都合とぶつかってしまったのです。

 少し余談ですが、東日本大震災の犠牲になった遺族の方達で、工藤さんのようにお骨を寺に長く預けていたり、自宅で手元に置かれている方は少なくないようです。入れたくてもお墓や流されてしまったり、遠方に避難してそのまま移住してしまったり、すぐにお墓が見つからずいるのです。また、東京電力・福島第一原発の影響で警戒区域となっている地域から避難している人達は、お墓に戻る事もままなりません。
 こうした「当たり前の事」が戻るまで、震災は続いていると言えるでしょう。

 さて、工藤さんご一家の過ごした事務所周辺の最近の様子を撮影してきました。
 震災当時と現在の様子を比べられるようにしてみました。

 
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[キャプション]冒頭で紹介した、瓦礫の中で探し物をしている
千鶴子さん達の写った写真と、ほぼ同じ構図の現在の様子  

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[キャプション]2011年5月11日撮影。事務所の真裏の堤防の上から。
中央の奥にガソリンスタンドの看板が見えるが、そこが義父の見つかっ
た愛宕交差点。そのやや左のさらに奥に見える白い建物が市役所   
 
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[キャプション]2013年2月9日撮影。上の写真とほぼ同じ構図の現在の様子 



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■渋井哲也 携帯サイト連載
ジョルダンニュース「被災地の記憶」
http://news.jorudan.co.jp/

渋井さんによるニュースサイトでの連載です。最新号では「津波で自宅が流された小学生。津波の被害が少なかった神社」とのタイトルで、福島県相馬市の小学生が見た風景について、前号では「奇跡と悲劇が紙一重だった釜石市鵜住居」というタイトルで、釜石市の鵜住居地区にあった「奇蹟」と呼ばれる学校と、そのすぐ側で多くの人が避難して犠牲を出した「悲劇」の防災センターについてレポートしています。



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渋井哲也 しぶい・てつや
1969年、栃木県生まれ。長野日報社記者を経てフリーライター。自殺やメンタルヘルスやネット・コミュニケーション等に関心がある。阪神淡路大震災以来の震災取材。著書に「自殺を防ぐためのいくつかの手がかり」(河出書房新社)など。
[Twitter] @shibutetu
[ブログ] てっちゃんの生きづらさオンライン