何を生きる糧とするか?
そして何を生き甲斐とするか?
人生とは、この問いをめぐる終わりなき旅なのだろう。
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2020年3月、新型コロナウイルスが本格的に蔓延。
あれから丸4年が経った。
昨年の5類移行まで3年間、
時が止まったような空虚な感覚を連ねてきた方、
地獄のような苦しみの中でかろうじて生き抜いてきた方、
環境変化に適応するのがやっとで自分を省みる暇などなかった方、
人の数だけ十人十色のドラマがあったことと思う。
私はと言うと、コロナが原因でなのか、それともたまたま時期が重なっただけなのか、
2020年初頭を境に【セピア】として人前に出る機会がめっきり少なくなった。
このまま同じ環境で同じことを続けていても
人に毒づく気持ちが自分の中でいよいよ肥大化してまずいと感じていたので
ちょうどよい機会だと思って自然に受け入れていた節もある。
ただ以前から人前に出ること、人と会うことが好きな自分が
こういう感じになるのは良いのか? それは楽しいことなのか?
本当に望んで、いや望まないにしてもせめて納得して、自分で決めたことなのか?
そう考えるとちょっと怪しく、
どこからとなく襲い来る外的なベクトルよって漆黒の檻に押し込められているような
そんな感覚のまま1年、2年と過ぎていったようにも思う。
先日、とある場所で“昔馴染み”が集まる会があった。
それこそ4~5年ぶりとか、10年近くぶりに会う人もたくさんいた。
全く予想だにしていなかったが、
「お前の講義チャンネル観てるぞ!」
「あれ続けられるの本当にすごいと思います!」
そんな嬉しい言葉をいくつも戴いた。
自分に誇れるものがあるのかないのかわからないような状態で
この会合にも行ってよいのかどうかも相当に迷ったものだったが、
本当に行ってよかったと思うし、活動を続けていて本当によかったと思った。
なにより、そうやって嬉しい言葉をかけてくださる方々というのが
みな相応に歳を重ねているはずなのに
どこまでも溌剌としていて、表情が豊かで、優しげなのが印象的だった。
彼らの顔を見ることができて、本当によかったと思った。
一方で、変わらない人というのもいる。
変わらない安心感、実家のような安心感という類ではなく
嗚呼お前はまたそれなのか、という感じのやつ。
ものすごくちっぽけな存在に見えてくるやつ。
最近NHK大河ドラマ『光る君へ』で、
主人公のまひろが母親仇の藤原道兼のことを指して
「私は道兼を許すことはありません。されど、あの男に自分の気持ちを振り回されるのはもう嫌なのです。それだけにございます。」
と父の為時に向かって語るシーンがあった。
私は親を殺された経験はないが、この言葉には共感しかなかった。
憎い奴に自分の気持ちを振り回されるのはもう止めよう。
たいして関わりのない人間の幻影にいつまでも自分の気持ちを支配されて、
自分が思うままに動けなくなるのは馬鹿馬鹿しい。
そう思えたのも、今の自分に多少なりとも充実感を感じているからなのかもしれない。
憎悪の感情、嫉妬の感情というのは、
自分が何者でもない、何も成していないという劣等感や空虚感からくるものだろうか。
邁進できていると確信して日々を過ごせていれば、そんなことを考えている余裕などなく
ふとした瞬間にそれがやがてちっぽけなものに見えてくるのかもしれない。
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