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1、ある日の昼に
七月の上旬。
暦の上では小暑と呼ばれる頃だった。
雨の多い季節だが、今日は雲ひとつない青空で、吹き抜ける風が心地いい。
太陽は中天から少し西に下ったところ。あと一時間もすれば、三時のお茶にとお客さんが来る。
「その前に、お掃除をするばい」
甘味処『うぐいすや』の前で、うきはいつものように竹ぼうきを持って、木陰から落ちる影の中、店の前を掃除していた。
昨日までの雨を吸い取った土は砂埃を立てず、掃き後が美しい弧を描き残す。
白壁の土蔵を改造した店の前で、一心に掃除をする矢絣袴の少女の姿は、古き良き日本の香りがする。
「こんにちは、うきちゃん。今日も精が出るねえ」
近所に住む、常連の中年女性だ。うきはニコニコと笑って快活に答えた。
「こんにちは。今日もいいお天気ですね。わたしはこのお店が好きだから。きれいにして、お客さんに喜んでもらわんと」
「うきちゃんを見てると、こっちも元気になるわぁ。白玉もおいしいし。『うぐいすや』と看板娘のうきちゃんは、宇城市の宝ね」
「そんな……褒められると照れるたい。今日は寄ってってくれます?」
「ごめんね、うきちゃん。今日はおばちゃん用事があるのよ。また明日、寄せてもらうわ」
すまなそうに女性が言う。うきは慌てて手を振った。
「いえいえ。いつも来て下さってますから。また明日、お越しんなって下さい」
女性を見送って、またほうきを動かし始めた。
その掃き後に、すっと影が落ちる。うきが目線を上げると、そこには若い女性が立っていた。
赤を基調とした胸元の開いた服を着て、髪をポニーテールにしている。ミニスカートについたフリルがふわりと揺れた。
「お店、開いてるかしら?」
「あ、はい。いらっしゃいませ。どうぞ入ってくださいね」
うきは壁にほうきを立てかけて、女性を店内に案内した。
★ ☆ ★
「お好きな席にどうぞ」
店の真ん中には囲炉裏があった。高い天井から伸びた自在鉤に、鉄瓶が吊るされてシュンシュンと湯の沸く心地いい音を立てている。
それを取り囲むように、今では珍しい木のテーブルと椅子が置かれていた。それらも古びてはいるが、清潔で手入れが行き届いていた。
女性が入り口近くの席につき、お品書きを眺めて、うきに声をかけた。
「ここのおすすめは何かしら?」
「うちは白玉ぜんざいがおすすめです。契約農家さんに作ってもらったもち米で、そこの製粉所で粉にしてます。あんこも同じところの小豆を使ってます」
女性は驚いたようにうきを見つめ返した。
「え? 契約農家……って、田んぼで作ってるの?」
うきはにっこりと笑ってうなずく。
「へぇ、驚いたわ。九州じゃどこも最近、バイオテクノロジーやクローンで作られた人工のものなのに。じゃあ、それをお願い」
「はーい。女将さん、白玉一丁でーす」
奥の女将に注文を伝えてから、年季の入った急須に茶葉を入れる。囲炉裏にかけてある鉄瓶から湯を注ぎ、蓋をして蒸らす。
五徳の中央で、炭火が控えめに赤い光を放っていた。
「はい、お茶をどうぞ」
淹れたての緑茶を、客の前におく。陶器と木の机がかすかにぶつかって、ことん、と温かみのある音がした。
「囲炉裏に炭火かあ。電気ポットじゃないのね」
「はい。火があったほうがあったかい感じがしますから」
客の女性は、古風な湯飲みから、お茶をすする。
「あら? これ……鹿児島茶ね?」
「はい、そうです。一口でよくおわかりですね」
「鹿児島は霧島の生まれなのよ、私」
「そうだったんですか。行ったことないけど、いいところって聞きます」
「ええ、とてもね」
女性は嬉しそうにもう一口、茶を飲んだ。
うきはそれを見て、にっこり笑ってから一礼して、厨房に引っ込んだ。
客はのんびりと、あたりを見回した。
古い土蔵をそのまま生かし、天井近くに窓があった。そこから涼風が店の中に吹き込んでいる。無論エアコンはない。
リン……チリン……。
どこからか、風鈴の音がする。
「うーん、いいわね、ここ」
日本の中でどこよりもテクノロジーの発達したこの九州で、ここだけがまるで切り取られたかのように時が止まっていた。
プラスチックの代わりに木が、電気の代わりに炭が、人工物の代わりに自然の恵みが満ち溢れている。
「いやー、風流だねえ」
一人ごちたところで、奥からうきが出てきた。
漆塗りの盆の上に、品のいい木製の椀が載っている。
「はい、白玉ぜんざい、お待たせしました」
きらきらした白玉の横に、紫がかった色の粒あんが丸く盛られている。なんとも素朴な趣だが、それがまたこの店に似合っていた。
「わあ、なんかとてもきれいね。いただきます」
木のさじを手に取って、白玉をひとつと粒あんをすくって、口に入れる。
「おいしい! それに、すごくほっとする味ね。なんだか懐かしいわ。どうしてかしら……?」
女性は首を傾げた。
うきは微笑んで、お椀の中のあんこを示した。
「あんこに、黒糖を混ぜました。お客さん、鹿児島の生まれだって。話してくれた時に故郷のこと、とても好きなんだなって感じたんです。少しでもおいしく、楽しく食べてもらいたいから」
「えっ、これ……私のために?」
「うちはお客さんに合わせて、少し出すものを変えたりするんですよ。気に入ってもらえたようでうれしいです」
「すごいわ、たったあれだけで……」
うきはとびきりの笑顔で答えた。
「世間はいろいろと騒がしかけれども、甘味を食べとる時ぐらい、心穏やかでいたかとですよ」
それは、うきの信念。
この、時間の止まったような店の中でだけは、全部を忘れて幸せでいてほしい。
ここで少し休んで、また頑張ってほしい。その手助けをしたい。
女性はうんうんとうなずいた。
うきの顔を見て、ひとつ思いついたようだ。
「ね、これ、もうひとつ出してもらえる? ひとりで食べるのはもったいないわ。おいしいものは分かち合いたいから、あなたもここに座って付き合ってくれない?」
「ええぇっ?」
「いいのよ。私のおごり。一仕事済ませた後なのよ。ね、いいでしょ?」
うきが困った顔をしていると、奥の女将が声をかけてきた。
「お客様のご好意だもの。いただきなさいな」
「……本当にいいんですか?」
「いいのよ。さ、座って」
★ ☆ ★
女将が白玉ぜんざいと、うきの分の緑茶を運んできた。
「お待ちどうさま。すみませんねえ。ありがとうございます」
「いえいえ。こっちこそ店員さんを付き合わせちゃって。さ、どうぞ」
うきは自分の目の前に置かれた白玉ぜんざいを、まじまじと見つめた。
客のように、席についてぜんざいを食べるのは初めてだ。
一口、口に入れた。
唇に当たる、つるりとした感触。
舌先に感じる粒あんの甘味。噛みしめるほどにもちもちして、かすかな素材の甘味も感じさせる。
そのまま滑るように、喉の奥に落ちていった。緑茶の程よい渋みと合わさると、またすぐに次が食べたくなる。
(おいしい……)
感想を、うきは危うく止めた。自分の店のものを大声で誉めるのは、はしたないことのように思えたからだ。
表に出ない分、さじの運びが早くなる。
女性も負けじと、ぱくぱくと白玉をほおばった。
「うーん、おいしいわねー」
「そういってもらえると、とっても嬉しいです!」
いつにも増してニコニコ顔で、うきは答えた。手にはさじを握りっぱなしで、口には白玉をほおばったままだ。
「実は、こういう風に座って食べるの初めてなんです。いつも来てくれるお客さんの気持ち、わかったような気がします」
「気持ちのいいお店だものねぇ。私も毎日来たくなっちゃう。私は田之上燃っていうの。あなたの名前聞いてもいい?
「あ、はい。わたしは不知火うきです。燃さん、よろしくお願いします」
「見た目どおり、礼儀正しいわねえ。うきちゃん、ごちそうさま」
燃はきれいになった椀をテーブルの上に戻した。
うきも空いた椀を置く。
「ごちそうさまでした」
丁寧に頭を下げる。顔を上げたうきを見て、燃は笑った。
「唇の右側。あんこついてる」
「えっ?」
「ああ、ちょっと待って。じっとしてて」
据え置きの紙ナプキンを取って、燃はテーブルに身を載り出した。うきの口の端を拭う。
「……すみません」
うきが恥ずかしそうにうつむく。
「いいのよー」
燃は立ち上がると、開いた胸元から財布を取り出した。
「ごちそうさまでした。二つでおいくら?」
「八百円になります」
「えーっと、電子マネー使える?」
「それだけは使えるように、勉強しました。お客さんたち困ってしまいますから。でも、本当は現金のほうが助かるんです。まだよくわかってなくて……」
テクノロジーの発達した九州では、もう現金のほうが珍しいぐらいだ。手軽で、つり銭の面倒もない。
うきが恥ずかしそうに言う。燃は快活に笑った。
「それじゃ、小銭で払うわね。硬貨出すの久しぶりだけど、こういうお店ならこの方が似合いよね」
小銭入れを開けて、燃は小銭を取り出した。
ちゃりん。
うきの手のひらで小気味良い音を立てた。
「はい、八百円ね。どうもごちそうさま。とってもおいしかった」
「いえ、こちらこそごちそうになってしまって。ありがとうございました」
「ううん、とっても楽しかった。それじゃ、またね」
店を後にする燃について、うきも外に出た。
「またいらしてくださいね」
★ ☆ ★
ポニーテールを揺らして歩き去る燃の後姿を見送って、うきは店内に戻った。
「今時珍しい、きっぷのいいお客さんばい」
女将の声がした。
「見ない顔だけんど、また来てくれるとよかね」
うきは盆に、きれいに平らげられた椀と湯飲みを載せた。
と、先ほどまで燃が座っていた椅子に、手のひらに乗るほどの小さな紙包みが残されていることに気づいた。
「あ、燃さんの忘れ物……」
慌てて外に出るも、もう燃の姿は見えなかった。
「うーん、次来てくれたときに、お返しするしかなか」
紙包みをそっと懐にしまって、食器を厨房に下げた。
清潔な台拭きでテーブルを拭い始めた。そこに声がかかる。
「おう、邪魔するぜ」
「あ、いらっしゃい、ま、せ……」
反射的に顔を上げたうきの目に映ったのは、ガラの悪い四人組の男だった。
三人は趣味の悪い派手なシャツ、残りの一人はこの暑い日に、黒のスーツを着ていた。いずれも真っ黒なサングラスをかけており、表情はよくわからない。
だが、漂う雰囲気と相まって、真っ当な職についているとは到底思えなかった。
「おう、ねえちゃん。ここに女の客が来なかったか?」
「フリルの赤いミニスカに、がぱっと胸の開いた服着てよ」
「ポニテの、気の強そうな女だよ。隠しだてすると、どうなるかわかるだろ?」
ドスの利いた声で恫喝する。
「まあまあ、そんなに凄んでは脅えさせるだけだ。……で、そういう女性は来ませんでしたかね」
風体の悪い男たちを制して、スーツの男が一歩前に出た。
言葉こそ丁寧だが、インテリヤクザという言葉がぴったりだ。
「し、知りませんよ、そんな人。来てないです」
うきはとっさに嘘をついた。
先ほどまで一緒に白玉を食べた燃の方が、この男たちよりもよほど真っ当で、信頼が置けるように思えた。
「ホントかぁ? 隠すとためになんねーぞ?」
いつもニコニコしているうきにしては珍しくむっとした表情をして、男たちを睨んだ。
「知らんこつ言うとるばい! それよりうちは甘味処たい。白玉ぜんざい四つでよか?!」
熊本弁で迫るうきの迫力に、男たちは顔を見合わせた。おとなしげな外見とのギャップに気圧されたのかもしれない。
「これはすみません。それじゃあ、いただくことにしましょうか」
スーツの男が頭を下げる。
「いいんすか? 兄ィ……」
「お前たちが迷惑をかけたんだ。そのくらいはいいだろう」
男たちは不承不承、席に着いた。
★ ☆ ★
運ばれてきた白玉ぜんざいを、男たちはそろって口に含む。
「う、うめぇ……」
「こりゃいいや」
口々に感想を口にする男たちに、うきは思わず笑った。
「甘いものを食べとるときぐらい、心穏やかでいたかとね。うちの白玉、おいしかでしょ?」
「ええ、とても。何か隠し味でもあるのですか?」
兄ィ、と呼ばれたスーツの男がうきに問うた。
「隠し味、という程のことはないですよ。お客さんに合わせて、少しずつ変えてますけど」
「ほう? それは興味深いですね。合わせる、と」
「はい。背の高い男の方は、お口が大きいので、お出しする白玉は少し大きめにしてます。噛みしめたときの食感を楽しんでほしくて。他にも、お年寄りには少し柔らかくしたり、お子さんには小さくしたり、工夫してるんですよ」
黒服の男はさじの上に載った白玉を見た。確かに、普通のものより大ぶりだ。
連れてきた男たちも大柄で、みな大きめの白玉を食べている。
「なるほど……他には? 原料にも秘密があるんでしょう?」
「契約農家に植えてもらったもち米と小豆を使ってます。粉は石臼で挽いて、手で絞って乾燥させる昔ながらの製法です。水は湧き水ですよ。正直に、昔ながらの作り方をしとるだけです」
「契約農家ですって? 米も小豆もとは……ちゃんと作っているところなんですね」
うきはうなずいた。
男はポケットから、デジカメを取り出した。
「すみません、参考に写真とってもいいですか?」
「いいですよ。どうぞ」
うきの許可を聞いて、男は何回かシャッターを切った。
フラッシュの光が、店内に反射する。
「出回っている既製品ではなく、契約農家の少量生産ですか……。秘密はそこにありそうですね」
男は何か考えているようだった。他の連中は行儀悪く椀を鷲づかみにして、白玉をかっこんでいる。
「粉を作っている農家に、ぜひ行って見学してみたい。場所を教えてもらえますか?」
うきは身振りを交えながら、農家の場所を説明した。男はうなずきながらメモを取った。
「ありがとう。早速行ってみましょう。ご馳走様。お会計は?」
「四つで千六百円です」
男は電子マネーのカードを取り出した。うきが読み取り機械を持ってきて、リーダーに通す。
「はい、ありがとうございました」
「ごちそうさん。うまかったぜ。いい情報も入ったしな」
「しっ! 黙れ。どうもご馳走様。それじゃ」
男たちが去っていくのを見送って、うきは片付けを始めた。今日は変わったお客さんが多いな、と思いながら。
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