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2、『いつも』が壊れたとき

 

 夕方。おやつ時の客もみな帰り、風鈴の音と炭火のはぜる音がやけに大きく聞こえた。

 

「そろそろ店じまいの支度をしておくれ」

 

 明日の仕込みのために、閉店は早い。

 女将の声に元気よく返事をして、うきは片付けの作業に入った。

 のれんを仕舞い、炭火に灰をかけ、椅子をどかして床を掃除する。

 

 それらが終わったところでうきは大きなかごを持って女将に声をかけた。

 

「それじゃ、女将さん。明日の分の粉と小豆をもらってきますね」

「ああ、頼むよ。気をつけてね」

 

 田んぼに隣接して建てられた製粉所で、翌日分の粉を挽いておいてもらう。

 小豆も、管理された場所に保管してもらったものを、もらってくる。

 新鮮な材料を使うのも、おいしさのうちだと思っている。

 

 うきは通いなれた道を、ゆったりと歩いていった。

 夕日は雲に遮られることなく、あたりを紅に染めている。

 

「明日もいい天気みたい。梅雨も、もう終わりとね」

 

 二十分も歩くと、周りはのどかな田園地帯になった。

 緑色の稲穂がまっすぐに天を向いている。これから秋にかけて黄金色になり、頭を垂れるようになるだろう。

 それを想像すると、なんとなく嬉しい。

 

 目的地が見えてきた。倉庫を兼ねた製粉所だ。まわり一面の緑の中で、赤い屋根がひときわ目立つ。

 

 だが、何か様子がおかしかった。

 いつもは閉められているはずのドアが開きっぱなしなのが遠目にもわかった。

 胸が締め付けられるような不安があった。

 うきは袴の裾を引っつかんで走った。

 しかし。

 

「きゃあっ!」

 

 何かに足を突っかけてすっ転ぶ。

 いつもは入り口に立てかけられている、鍬だ。

 

(おじさんは几帳面な人だから、こんなところに放り出しとくはずもなか……)

 

 胸騒ぎがした。

 起き上がったうきは、服についた砂埃を払うこともせず、再び走り出した。

 

★ ☆ ★

 

「おじさんっ! どぎゃんあっと」

 

 どうしたの、と言いながら、うきは中に駆け込む。

 入り口のそばには、なじみの農家の男性が壁に寄りかかって座り込んでいた。

 頬が真っ赤に腫れている。

 

「おじさん……いったい何があったとね」

「変な男たちが来てな。品物を売れ言うけん。うちゃ契約だから、ぬしにゃ売れんと答えたばい。したら、力ずくじゃと……」

 

 周りを指し示した。

 製粉所の中は悲惨なものだった。

 

 破壊された精米機。

 切り裂かれた麻袋。

 割られた石臼。

 まき散らされた小豆。

 そこかしこに飛び散った、粉と米。

 

「ひどか……なんでこげんことを」

「わからんたい。すまんが今日の分は……」

「そげんことより、おじさんの怪我が心配たい。早く冷やさんと」

 手ぬぐいを取り出し、井戸の水で冷やして絞る。それを男性の頬に当てた。

 

「すまんなあ」

「気にせんと。それより、どんな男たちだったとね?」

「スーツの男と、数人のガラの悪そうな……」

 

(まさか、あの人たち……)

 うきは息を飲んだ。さっき紹介した連中じゃなかっただろうか?

 

「わたしのせいだ……」

 

 おいしいと誉められたのが嬉しくて、あんなに簡単に場所を教えてしまった。

 

「うきちゃんのせいじゃなかとよ」

 沈むうきの肩に手を置き、慰める。

 

 と、そこに女性の声がかかった。

「あなたのせいじゃないわ」

 

★ ☆ ★

 

 西日にポニーテールのシルエットが浮かぶ。

 

「燃さん……?」

「あなたのせいじゃないわ。ごめんなさいね、うきちゃん。巻き込んでしまったみたい。私があなたの店に寄らなければ、こんなことにはならなかったかもしれない」

「? どういうことですか?」

 

 燃は製粉所に入り、周りを見渡した。

 惨状に、ため息をつく。

 

「あいつらは、熊本プラントクローニングのバイヤーなのよ。名前は聞いたことあるでしょ?」

 

 それは、県でも有数のバイオテクノロジー会社だった。特に植物のクローンを作る分野で業績を上げている。スーパーで並ぶ野菜や米、植物由来製品の多くにこの会社のロゴが入っている。

 

「自然の種や草や木の実を取ってって、培養して売ってるのよ」

「でも、それはあまり珍しくないんじゃないですか?」

 

「それだけならね。あいつらの悪辣なのは、手に入らないと力ずくで奪っていくところ。そのために荒事専門のバイヤー、要するにヤクザもんを雇ってるの。ここに来たのは多分そいつらね」

 『うぐいすや』で出された白玉を食べて、大量に生産して売れば金になると思ったのだろう。

 

「そげんこつのために、おじさんに怪我ばさせて、ここをめちゃくちゃにして……」

 

 怒りを通り越して、うきは悲しくなってしまった。

 じんわりと目じりが熱くなる。

 

「なんか、間違ってるばい……」

 

 ぽろりと零れ、頬を伝う一筋の涙。

 

 いつも景気いい音を立てる精米機。今は黒煙を上げている。

 舌触りのいい白玉に欠かせない、目の細かい粉を作るための石臼も、使えそうにない。

 いつもあった、昔から続くあったかい光景は、面影しか残らず壊されている。

 

「どうしてこんなことを。みんなが幸せになるために、おいしいものを作るのはよか。でも、そのおいしいものを作るために、他の人が不幸になる」

 

 きっ、と顔を上げる。

 

「そんなの、そんなのは絶対、間違ってるばい……!」

 

 うきの頬に、涙の跡は残っていたが、目にはもう浮かんでいなかった。

 

「私のせいで……ごめんなさい」

 燃は心底すまなそうに言う。

「燃さんのせいじゃなかとです。どうして巻き込んだなんて言うんですか?」

 だが、燃は首を振った。困ったような、いたずらっぽいような、微妙な表情で説明を始めた。

 

「あんまり大きな声じゃ言えないんだけどね。実は私、あいつらのところ――まあ、本社じゃなくて実験施設なんだけど、あるものを盗んだの。追手を巻いたと思ったから、休憩がてらにあなたの店に寄ったんだけどね」

 そう言いつつ、開いた胸元あたりから何かを探そうとしている。

「あ、あれ? どこやったかしら」

 服の上をぱたぱたと叩いたり、あちこちを探しているが見つからないようだ。

 

 うきは自分の懐にしまった紙包みを思い出した。燃に差し出す。

 

「もしかして、これのことですか?」

「そう、これよ! あなたのところに落としてたのね。よかったわ。ありがとう」

 燃はうきから小さな袋を受け取って、胸元にしまいこんだ。

 

「よければ、私に任せてくれない? 奪われたものを取り返せばいいんでしょ? ちょろっと行って、盗んでくるわ」

「いえ、わたしも行かせてください。取り返すだけじゃ、多分駄目です。ここの場所は知られちゃってるし、諦めるとは思えません」

「うきちゃん……わしのことはよかばってん、危ないことはせんで……」

 男性が制止するが、うきは首を振った。

「いいえ。これはおじさんだけの問題じゃなかです。うちにも関係あることですたい」

 

 それに……と、うきは続けた。

 

 

「何より、思い通りにならなかったら腕に物言わす、その考えが気に食わんとよ!」

 

 

 矢絣袴の、清楚なうきから想像もできない強い口調に、燃は一瞬きょとんとした後、快活に笑った。

 

「おとなしいのかと思ったら、しっかり熊本女、火の国の女じゃない」

 

 燃は右手を差し出した。

「あいつらのいるところに乗り込みましょう。よろしくね」

 うきはその手を握った。

「はい! どうかお願いします!」

 

「うきちゃんはおとなしそうに見えんばってん、言い出したら聞かんばい……くれぐれも、気をつけてなあ」

 男性が心配そうに見送る中、二人は建物から出た。

 

★ ☆ ★

 

 目の前に、大型のバイクが止めてあった。燃は傍らに立つと、うきに振り向いた。

 

「うきちゃん、バイクは乗ったことある?」

「いいえ……自転車ぐらいなら」

 うきはおずおずとバイクに近づいた。

「大丈夫。私につかまってて。ちょっとその服だと乗りにくいかもしれないけどね」

 

 ひらりと軽い身のこなしで、燃はバイクに跨った。

 キーを挿し、左足のギアをニュートラルにしてから左手のクラッチを握り、エンジンスタートをかける。

 一連の複雑な動作を、うきはぽかんと見守った。

 

「す、すごい……。どこに何があるかちんぷんかんぷんです」

「逃げるが勝ちって言うじゃない? いろいろ乗りこなせるのも泥棒の技術のうちってね。さ、ここに足をかけて、跨って」

 燃に言われて我に返り、うきはバイクの後ろ側に乗ろうとした。

 行灯袴をたくし上げる。

 

「うんしょっ、と」

 

 体を持ち上げ、足を開いて後部座席に跨る。裾がめくれあがり、白い足が一瞬あらわになった。

 

「ちゃんと座ってね。足は置けるところに置いて。危ないから、私に抱きついて」

「こ、こうですか……?」

 

 燃の体に両腕を回す。

 

「んっ……ちょっとくすぐったいわ。もう少し下でお願い」

「ご、ごめんなさいっ!」

 

 言われたとおり、ウエストにしがみつく。

 

「OK。それじゃ、飛ばすわよ。しっかりつかまってなさいね!」

 

 エンジンが威勢のいい音を吹き上げた。

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