結婚とは、これほど簡単なものなんだろうか?
……思わずそんな独り言を呟いてしまうほど、お見合い後の流れは極めてスムーズだった。鈴木家――つまり花嫁側の意向で、結納というよくわからない儀式や、結婚式、および披露宴の全てを行わないこととなったのも、結婚手続きのスピード化に拍車を掛けたのだろう。日頃の生活費や遊興費ではなく、貯金通帳における印字代を節約しているような生活を送っていた俺からしても、これは非常にありがたい提案だったね。その旨を伝えてくる父親の横で、麻淋さんが少し寂しそうな表情を浮かべていたように感じたのは、たぶん俺の気のせいなんだろうな。
要するに、当の俺達二人が結婚に際して求められたのは、『市役所に結婚届を提出する』という行動のみであった。そうなればもちろん、俺が働いている『竜策市役所』で手続きを行うのが自然の成り行きというものだろう。ところが、どういう訳かこの案も新婦側にすぐさま却下されてしまった。「恥ずかしいから」というよくわからない理由で、だ。ひどく曖昧な理由のくせして、その拒否姿勢はやけに頑なだったな。おかげで、日頃から『天野は一生結婚できないだろうな』と、冗談50パーセント、本気度500パーセントで罵ってくれる市役所本庁の元同僚達に、我が麗しき新妻を披露する絶好の機会を逃しちまったって訳さ。
ちなみに、この元同僚達を始め、俺を取り巻く人間は全員、今回の話を聞いてひどく驚いた様子だった。もっとも、考えてみれば至極当たり前だけどな。今まで浮いた話もほとんどなかった男に、さらに言えばその境遇に対する負け惜しみのごとく『結婚不要論』を唱えていた男に、突然振って沸いたような結婚話である。これで驚かないとすれば、そいつは地球に巨大隕石が迫っていたって驚かないような、鋼鉄の男なんだろう。
そしてこれも当然だろうが、彼らは皆一様に詳しい事情説明を迫ってきた。……でもな、正直俺にだって詳しく説明することはできないんだよ。そりゃあ、確かに俺は、麻淋さんの求婚に対して即座に了承してしまった。けれど、ではどうして即座に了承したのかは、自分でもよくわからないところなんだ。どちらかと言えば、俺の意思っていうより、第三者の力が働いたとしか思えないね。
例えるならば、俺はジェットコースターに無理矢理乗せられた人間みたいなものだ。気がつけば、周囲の光景がとんでもないスピードで変化していきやがる。普通の人間なら、パニックに陥るか、なんとかここから抜け出そうかと考えるんだろうけどな。あいにく俺は生い立ちや境遇のせいで、なんていうと卑怯かもしれないけど、とにかく自分の人生にはあんまり期待しない性格になってしまっているんだ。
だいたい、世の中にはどうあがいたって無駄だということが、歴然と存在しているものなんだよ。そんなことにジダバタするくらいなら、他のことに力を注いだ方がよっぽど有益ってもんだろ。……そう思わないか? 少なくとも、俺はそういう考えなのさ。
だから、『今すぐ死ね』って物凄く偉い人に言われたらきっと従うだろうし、逆にあと二百年生きろって言われても従うだろうよ。つまり、この見えざる手で操られるような感覚も、他人ほどには苦にはならないって訳さ。ジェットコースターの行き先が谷底なら、それはそれで仕方がないと諦める。ただ、それだけのことだね。
よって、俺が結婚する理由は、ある意味とても簡単に説明できるとも言えよう。
凄い美人が、俺と一緒に暮らしたいと申し込んできたから――。
……どうだ、実に男の欲望に忠実な理由じゃないか。
結局俺達は、竜索市の隣町である『天(あま)霧(きり)市役所』に、婚姻届を提出した。それは、お見合いからわずか十二日後の出来事だった。
四月一日、午前十一時十七分。――俺と麻淋さんは、法律上の夫婦になった。
ご丁寧に、我々の新居までもが新婦側によって用意されていた。しかも、敷金・礼金についてはすでに収めてくれているという。もちろん、俺がそれまで住んでいた1Kの安アパートに二人で住む訳にはいかないから、これも渡りに船の提案だった訳だけどさ。なんだかここまで準備が行き届いていると、向こうが天野家に嫁ぐよりも俺が鈴木家の婿養子になった方が手っ取り早いんじゃないかと思ってしまったね。どうせ、俺には反対する家族なんていない訳だしな。
とにかく、俺達は婚姻届を提出したその足で、さっそく引越しの作業に取り掛かった。用意されていた新居とは、竜策市役所の目と鼻の先にある、七階建てのマンションだった。周囲には大きな緑地公園や大型スーパー、なおかつ商店街まで存在しているという、なかなかの好物件である。参考までに言っておくと、我々の部屋は四階の409号室。十二畳の和室と寝室がある2LDKだ。当然、バスルームとトイレは別れている。この条件で、家賃はなんと五万五千円。幽霊でも出るんじゃないかってくらい安かったね。もっとも、俺は幽霊なんてまったく信じないんだけどさ。
それにしても、麻淋さんの荷物の量には驚かされた。十数着の服と、漫画がメインの書籍類、後は仕事上に必要なパソコン程度という俺に対して、冷蔵庫、掃除機などの家事道具を始め、大型テレビやエアコン、高級そうな桐箪笥、大理石テーブル、電子ピアノ、謎の彫刻、その他中身のわからない段ボール五箱と、彼女の持参品は実に多岐に及んでいたさ。予想通り、かなりの資産家の娘さんみたいだな。
引越し業者に混じって俺がその段ボールを運ぼうとすると、突然、麻淋さんが慌てたような顔で話し掛けてきた。
「あの……その、『マ』っていう段ボール……」
「『マ』?」
首を傾げながら段ボールの側面を見ると、なるほど、確かにペンで大きく『マ』と書かれてある。「ああ、これのことですか」
「その、『マ』っていうのは、麻淋の『マ』、なんですよ」
俺より頭一個分くらい背が低いこともあって、上目遣い気味に言葉を続ける彼女。間近で観察しても、アラが見つかるどころか息を飲み込んでしまうくらいその顔は美しく洗練されていた。
なんだか眩暈すら覚えてしまった俺が、しばらく言葉を失っていると、
「だから、ええと、そうサインされてある箱を、勝手に開けないでくださいね、絶対に」
「……あ、ああ、はい」
「これはその、お願いというか、命令というか、つまり、開けたらかなりやばいんですよ、はい」
大きな瞳を細めながら、たどたどしい口調で述べる新妻に対して、
「うん、わかりました……」
少々引き気味にそう答えることしか、俺にはできなかったさ。
……思えば、初めてちゃんと交わした会話が、こんな意味不明の脅迫じみたやり取りだった訳だから、俺達夫婦は最初の時点から躓きまくっていたとしか言いようがないね。それでも、首肯する俺を見て満足そうに微笑む彼女の、信じられないくらい愛らしい表情を見ていると、到底それ以上追求する気にはなれなかったさ。
そして夕刻頃、ようやく引越しが一段落着いた。例の段ボールは手付かずのままだったが、たぶん明日にでもじっくりと片付けるつもりなんだろう。要は、俺のいない時を見計らってということかね。
まぁいいさ。夫婦とはいえども、ちょっとした秘密くらいはあるもんだし、あっていいもんだとも思うぜ。
――まさか、我が妻にあんな大きな秘密が存在するだなんてことをまだ知る由もない俺は、そんな風に高をくくっていた。
さて、引越し業者も帰ってしまい、リビングには俺と麻淋さんの二人だけが残された格好となった。いよいよ、実質的な夫婦生活の始まりである。そこには当然、甘酸っぱい雰囲気と、初々しい会話が待っていて……