そこには、人間としての生存や尊厳を侵されることへの怒りが渦巻いている。政治への国民の怒りの根源もここにある。誤りを率直に認め謝罪し、総括することなくして政治の信頼回復は得られない。
民主党は、福島第一原発事故への対応について政権政党としてきちんと総括できてきただろうか。事故調査委員会から人災とも言われる原発事故を今のガバナンスで二度と引き起こさない保証がどこにあるだろうか?
「子どもたちを逃がしてほしい。」と私は訴えたが、放射能汚染から私たちは、国民を守れただろうか?子どもたちを守れているだろうか?
国民の政権への怒りは、人間としての生存や尊厳を侵されたことに対する怒りだ。情報の開示と避難誘導に失敗したことに対する不信だ。
今回の代表選挙は、毎年総理を代えるか代えないかというような、これまで繰り返されたことと同じ論点だけで争われるべきではない。
何故なら、これまでの対応の延長線上では、国民を守られるとは、国民自身が信じていないからだ。
国民は何を怒っているのか理解さえできない政権は、政権を担う資格がない。自らを裁くことは、その任にあるものにはできない。政権与党としての自らの責任を認めることは、自己の否定でもあり、極めて大きな困難を伴う。しかし、その困難から逃げていては、益々、傷を大きくするばかりだ。
私たちは、民主主義国家を守らなければならない。
テロや暴力の恐怖から国民を守らなければならない。
だからこそ、厳しい自己総括と謝罪から逃げてはならない。
解党的な出直しの選挙だと口にする者が、自分の利害や派閥の力学から抜けられないでいて、どうして解党的出直しができるだろうか?
民主主義政治の良心と覚悟が問われている。