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立憲主義について少し考えてみましょう。
憲法が、国民の理想をうたうものであるという意味の答弁は正しいと思います。しかし、それは立憲主義を否定することとは別次元の話です。権力にあるものが、自らの権力の行使をも縛る憲法の立憲主義の理念を否定することは、最もなしてはいけない事です。
憲法は、「権力者は間違える」ことを前提にした仕組みです。民主主義の社会では本来、権力者は民主的な手続きで選ばれているはずですから、その人たちに任せておけばいいとも一見、思えます。ところが、一時々々の多数派が、必ずしも長い目で見たときに正しい選択をしているとは限りません。
民主主義において正当な手続において多数を形成したというだけで全ての正統性を付与されたかと言えば、そうではありません。異なる意見への寛容、少数意見の尊重など多くの留意点があります。民主主義は、究極的価値観の多元性に基づく制度です。
...立憲主義は、マグナカルタの時代のもので現在では通用しないなどという論には驚きを隠せません。多くの民主主義国家が柱としている理念であり、人類が獲得した知恵だと私は考えています。
近代以降の立憲主義における最も重要な原理が人権主義・人権保障です。 人生の指針となるような究極的な価値観の多元性・権利と負担を公平に分かち合う考え方・・・。それらを保障する人権が保障されて初めて社会的参加の条件が整うのであって民主主義の正統性が与えられるだと考えています。
我が国の司法制度の根幹を作ったとされる佐賀出身の司法卿江藤新平侯は、「全ての法の元は、人権にある。」と言ったそうです。政党政治の黎明期に立憲改進党や立憲民政党など政党名に「立憲」の言葉がついていたことは、これらの政党が民主主義の原理を再確認しながら基盤を築いていったことを表しているのではないかとも思います。 -
SNSの特性・それを生かした「共感の輪の拡大」
インターネットを使った選挙運動の理想的なモデルは何かというテーマで議論した。
現在のタイムラインを見ていると政党や候補者が何をしているのか。同時性・速報性に注目した発信が多い。選挙運動の現場、候補者がいるところ、そこでしか見られない運動をSNSで拡散するというのは、合理的だと思う。
しかし、そればかりの同じことを17日間もやられたら、飽きてしまい、却って反発を受けたり、離反されたりするのではないだろうか。
政党や候補者の多くは、有権者を「囲いこみ」、投票行動につなげたいと思って今回の選挙を戦っているように思 える。...
自分の名前や政党名を書いてもらわなければならないのだから、当たり前といえば当たり前なのだろうが。本当にそれでいいのか?
いわゆる「囲い込み」モデルは、これまでも様々なインターネットビジネスの初期の場面でも見られたが、多くが失敗していると認識している。
それでは何が重要なのか。
インターネットにおける囲い込みモデルに対置するモデルを何と言えばいいのだろうか?オープン型?私は、かつてリナックスというOSの名前を使って説明したことがあったが、「柔軟な構造の出入り自由の共有モデル」などと言っても余計にわけがわからなくなるだろう。う~ん。思わずうなってしまう。
「今日は、これから福岡で野田くによし候補の応援演説。そして神埼市、吉野ヶ里町中央公民館で青木かずのり候補の個人演説会です。」
これをネット以外でお知らせしよう とすれば、膨大な資金的・人的制約があります。有難いことだ。ただフォロワーからすると告知ばかりの一方通行の情報だけでは、いただけない。FBで同じような選挙運動の画面を見せられても退屈なだけだ。
ネットの特性は、双方向性・同時性にもあると思う。インターネット選挙運動の一部が解禁されたと言っても、どれだけその特性を活用できているのだろうか?モバイルに触れる時間さえとれないような過密な選挙スケジュールで候補者本人の生の声は、どう伝えればいいのか。
単純化して表現された「政策」ほど誤解を生みやすい。正しく政策を立案して伝えるには丁寧な説明が必要となる。ゼロサムの二元論では、尽くせない政策がほとんどだからだ。
ただ一方で複雑化・長文化したものそのものへの拒否度も強いのも現実だ。
説明を受ける側には、単純化した図式を歓迎する傾向もある。ワンフレーズポリティックスという言葉もあったが、10秒で話すリーダーよりも5秒で同じことを話すことができれば、それだけで有利だ。
街頭演説カーを走らせるこれまでの選挙モデルにも既に限界が来ているのは明らか。ただし、それらが全てネットに置き換えられるかといえば、それも違う。 ネットそのものにアクセスしSNSを使っている方の人数にもまだ限りがある。囲い込みではなく、オープンな「交流モデル」を模索する毎日だ。
まさに共感・協働というのがSNSの本質だ。今回の選挙でも選挙公報の単なる一部としてSNSをとらえている例が多いと私も感じている。1対無限多数ではなく、N対N。共感し、協働できる人の範囲で深化していくことが大事なのだ。
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山口補選の結果は、民主党の大敗、自民党の大勝で幕を閉じた。
山口補選の結果は、民主党の大敗、自民党の大勝で幕を閉じた。首相自らの言葉として「民主党を殲滅する」との文字が新聞に踊っている。候補者選びにも難航し衆議院選挙後、参議院議員の離党者も出て党勢は回復していない。
反転攻勢のきっかけがつかめないだけでなく、総選挙前の三党合意で明確に示したはずの事まで「反故」にされかねない情勢にある。2月に党綱領の「改定」を行ったが、新しい綱領に一気に多くの理念を書き込めるところまではいかなかった。寧ろ、これまで何年もかけて議論して示してきた「創憲」の文字が消えるなど苦悩は深い。
保守2大政党を目指して松下政経塾を中心に研鑽を積んできた1980年代。地方から日本を変えると地方議会議員のネットワークを築き国政に挑戦した1990年代。新進党解党、民主党結党と政権交代可能な二大政党を目指して邁進した2000年代。政権交代の実現と頓挫、政党の流動化の2010年代。
一党支配を終わらせ、様々なチェック機能を蘇らせたことの成果は小さくない。しかし、それよりも政権交代への期待が大きかっただけに、あのような無様な形で政権から陥落した民主党への怨嗟の声は、いまだにやまない。私自身の未熟・行動力の不足を深く反省して出直す決意を固める。
今回も私の事務所から参議院候補予定者が出た。佐賀県だけでスタッフから県議のバッジをつけたものが5人。(3人が民主党 1人は、町議は民主党だったがその後自民党に。もう一人は、市長選における対立から市議の時に離党。後に自民党に入党。引退。)
広義の事務所スタッフまでいれると国政に歩を進めたものは5人に上る。
「人を育てなさい」松下幸之助塾長の教えを実践してきた。しかし、政治家としての「人」を育てるだけでは、まだ足りない。私を、ある意味で最後まで支えてくれる人材を育てなければならない。
新進党の解体、自自公政権、国会内での質問問題などでの民主党の壊滅的な支持率低下など多くの荒波をくぐってきた。小選挙区で3回勝ち、3回負けた。小泉郵政選挙、安倍復活選挙は、圧殺の選挙でもあった。比例復活の時に党の節目が来た。第二期民主党を創る会を結成した時も比例復活だった。
この1年。スタッフが病気を患い、やむなく辞職せざるを得ない事態が起きた。政治家の事務所はただでさえ零細だ。足元は固まらず、拠点となる佐賀事務所でも苦労をかけ続けている。強固な後援会のサポートがなければ、とうの昔に活動を諦めざるを得ない事態に追い込まれていても不思議ではない。
20代の頃に私が計画した時間よりも5年遅れている。遅れているだけではなく、後退しているようにさえ思える。しかし、焦りは禁物だ。
トンネルの中にいてどんなにあがいても外は見えない。あがけばあがくほど行動のための資源を浪費する。ここは、ぐっと腰を落ち着けて未来と足元を凝視する時だ。まさに胆力と日々の努力が問われている。
2013年4月29日
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