以下は、とつげき東北が2000年~記述していた文章です。



不自然な言葉、儀式化されたコミュニケーション 

 霞むように遠い昔の断片的な記憶の中にも、特権的に保持され続ける印象的な場面がいくつかあるものだ。私にとってそれは例えば、幼稚園の2階の廊 下に理不尽に放置された積み木を、同園児が踏みつけて転び泣き出してしまった際に、彼に対して「くやしかったらボクを叩いていいから」と言ってみたことが そうである。あるいは、小学1年生の頃、祖父が亡くなった数日後に、母親に向かって「さっきな、畑でおじいちゃんが見えて、おじいちゃんって呼びかけたら 消えた」と言ったこともそうである。これらが今でも鮮明に思い起こされるのは、自分が取り立てて慈悲深かったからでも、稀有な神秘的体験をしたからでもな い。「この場面では、こういうことを言うと、良いのではないか」といったような確信じみた気持ちを幼心に感じながら、特に自分が望みもせず、体験してもい ない単なる「嘘」を吐いたからなのである。
 自分にとってそれらは、明らかに「自然には出ない」はずの言葉だった。何かわざわざしかるべきものを用意してきて、これをこの場面で投げ出すと褒められ るのではないか、気を引けるのではないかというつながりを、薄々感じながら行動したまでのことだったのである。自分の「自然な」感情とは途方もなく程遠い 言葉を並べる行為に対する、今思えば一種の猜疑心のようなものが、おぼろげながら自分の中に生じているのを、不思議な冷静さとともに感じたものだった。

 幼い子供の取るに足りない嘘だけに限らず、私たちは生活の中で、この種の「不自然な」言葉の体験を繰り返し生きることになる。
 とかく不気味に感じられた学級会での討論や、道徳の時間の生徒の返答を思い出すと良い。「別に、部落差別は自分と関係ないからどうでもいい」という一番ありそうな意見は決まって語られず、その代わりに「本人の努力と関係ないのに、生まれで人を判断するのはよくないと思います」などという誰のものでもない意見が、妙な感動につつまれながら語られ、まるで部落差別が、はなから誰の得にもならなかったかのように処理される様子は何だったのか。
 同様に、会社の採用面接や事故被害者遺 族へのインタビューもまた、私たちが生きる上での現実とは著しく乖離した「暗黙に用意された返答」を口にするための儀式と化している。「御社が業界で着実 な実力を伸ばしてきた」ことや、「自分がステップアップできる」ことが平均的な大学生の「御社を志望した動機」とやらを表すはずがない。およそ志望動機に「正解」があると仮定できるならば、「あまり、ありません」がそれだろう。「夫が死んで、少し悲しいけれど、どちらかというとほっとしました」と感じる妻がこの世に存在しないことになっているのは、いかなる理由からか。

 さて、酷く不自然な言葉が執拗に繰り返されるうちに、私たちはいつのまにかそれを「自然な」やりとりであるかのように錯覚しはじめる。ドラマや映 画の登場人物の話しぶりは奇妙と言う他ないが、見慣れてくるうちに、自分の日常のそれとは一致しないまでも、「こういうものだ」と納得してしまう。「不自 然」が「自然」に置き換わるわけである。
 もしも、仮に今すぐ自分がドラマに出演するとしたならば、どうだろうか。誰に頼まれるでもなくこの「ドラマらしい」話しぶりを演じてしまうことになるだ ろう、という諦念めいたものを私たちは感じるのではなかったか。なぜそうでなければならないかが問われる以前に、そうであることを理由にそうしてしまうと いう行為の苦々しい愚鈍さを噛み締めながらも、かといって必ずしも不自然を暴いたり拒絶したりすることにさしたる意義を見出すことができないまま、万一問 いただしたりするような機会があっても「みんなそうしているだろう」という返答しかこないのではないかと疑心を抱えつつ、「不自然」を気軽な形で受諾する自分の姿というものが目に浮かぶのではないか。
 必ずしも年齢に相応しい能力を身につけているとは呼びがたい「大人」と呼ばれる人々が、幼い子供の発言や行為のあまりの突拍子もなさにしばしば驚かされる事実は、べつだん子供の奔放さや純真さを意味しているのではなく、むしろ私たちの常識的ないし日常的な「自然な」発言・動作といったものが、いかにある種の偏りへと向けられ、意味づけられた「不自然な」ものであるかを示している。事実、子供はとりたてて純朴ではなく、私が6歳の頃にしてみせたとおり、純真さと対極の各種の社会的適応を、人は物心がつく頃には既に開始しているのである。

 かつて女性が哲学をすることは「なかった」ように、語る主体は、語りたがる主体であり、語ることが許される主体に他ならない。語ることを禁じられ た主体こそが真実を持っていて、それだからこそ禁止されている、という事態がある。表層に顕在化する意見とその反対意見のいずれかが、ではなくて、沈黙し ている意見こそが真実ということが実際にある。
 郵政民営化など別にどっちでもよい、という民意を代弁する政治家はどこにいるか。郵政民営化は「すべきか、すべきでないか」で判断しなければならないように感じ始める瞬間を、私たちは見逃してはならない。
 あらかじめ用意されたある種の空間、ある種の関係、ある種の文脈において、特定の「語り方」が要請されることがある。主張や意味づけまでも規定されるこ とがある。だからこそ、不自然な言葉、それも時として無様な言葉が、平然とまかり通ることになる。不自然であることが即座に悪であることと照応するかどう かは置いておくにしても、私たちはひとまず、そうしたものから自由であってよろしかろう。

制度としての名言 

「不自然さ」と無縁ではいられない言葉たちが、ドラマや映画において典型的に体現されるならば、一種の演劇めいた「セリフ」にこそ、不自然さが内在 すると考えてみてもよい。日常生活の上で体感可能な「セリフ」とは、すなわち「名言」である。誰しも幾度となく聞いたはずだ。あんたのためを思って言って るのよ、ライオンはウサギを追うときも全力なんだよ、といったような、あからさまに不自然で陳腐な言葉を。
 ここでは名言とは、
・執拗なまでに繰り返される定型的な言葉
・何がしか感動的なもの、心を動かすものとして機能するとされる言葉
・理由なくその真理性が成立するかのごとく流通している言葉
の要素を満たす言葉であるとしよう。

 名言の中には、真実を含むものと、真実を隠すものとが存在している。また、一つの名言が各種の状況によって本当だったり嘘だったりすることもある。最近では「ことわざ」など流行らないが、昔の名言はことわざという形でいわば名言目録に収められていたのであったが、それぞれ相矛盾する事実を表すものが数多くあったことを思い出すと良い。
 しかしながら、名言の大半が真実を隠すものであることは確認しておきたい。あえて真 実を含むものと隠すものとの量的差異が生ずる理由を述べるならば、真実は真実であるというだけで支持されるために、通常は名言という形で厚化粧を施して流 通させる必要がない、ということが挙げられよう。ニュートンの運動方程式F=maは「真実」であったがゆえに名言にならなかったように。
 名言は次のような効果を持つ。

・論証したり実証したりできないが納得させたい場合に、「皆が言っていること=妥当なこと」としてその主張を受け入れさせる効果
・名言を放つことによって、(主として道徳的な)感動や尊敬を誘う効果
・名言の話し手と聞き手との間に「教える者-教えられる者」という相対的関係を作り、指導力や権力関係を演出する効果
・事実を隠すために、ひとつの予定調和の世界を信じさせる効果

 援助交際をやめさせたい場合に、「親からもらった体を大切にしなければならない」といった名言が使われる状況を考えてみる。「体を大切にしなければならない」には、当然ながら何の根拠もないし、援助交際が「悪い」という理屈などおよそまっとうなリベラリストが使うものではないが、この名言はそうした理屈を 飛び超えて作用する。それは、援助交際の主役たる者たちが既にこうした言葉のコミュニケーション、つまり「名言のやりとり=セリフのやりとり=演劇的コ ミュニケーション」をすることによる受益を、「自然な」ものとして体得しているからに他ならない。不完全な形ではあれ、6歳にして私がそれを半ば身につけ ていたように。
 わが子を援助交際から引き離そうと名言を放つ親は、何がしかの意味で道徳的ないし感動的な光に包まれ続けることとなろう。そして重要なことだが、名言 は、仮にその内容がまったくのでたらめであったとしても、実際に「心に染みる」あるいは「心を入れ替える」者がいて、秩序を維持することに貢献することが 少なくないという事実があることだ。
 名言、それを用いた演劇的なコミュニケーションは、秩序を維持するための一種の「制度的なもの」として機能する。

「制度的なもの」を前にして、4種類の人間がいると、いささか乱暴に分類してみよう。

  制度の正しさ 信じる 信じない
制度への順応      
できる(秩序を保つ)  
できない(秩序を乱す)  

表1:タイプ分類

ブスをいじめることについて (そのカテゴリの割合が高い主張の例)

良い子型 実際にいじめない。そうすることが正しいと思っている(人を殺してはいけません)
落ちこぼれ型 時に罪悪感を覚えつつも、その場の雰囲気でいじめたり、影口を言ったりする(地球環境を考え、エアコンの温度を高く設定しましょう)
冷静型 実際にはいじめないが、そうすることが利益につながると考えているからである(国民の1票が世の中を動かします。選挙に参加しましょう)
カオス型 いじめるし、反省もしない(人間はみな平等です。男女を平等に扱いましょう)

※Aが多い制度とは、必然的に、それによって各種の利益を享受できる人が多い制度である。
表2:タイプ別の例示

 以下、表の分類に沿って話を進める。
 演劇的コミュニケーションが成立する関係は、AとBとCとの間での関係である。AとBはそれが劇であることを認識せずに登場人物になりきり、時として感 動を覚えながら、制度を受け容れてゆくことになろう。Cはそれを醒めた目で見ながら、AとBのやり取りに参加したりしなかったりするだろう。一方で、Dだ けは演劇に参加できない。
 学校教育や社会教育が目的とするものは、不良を更正させるがごとくにBをAにすることであり、あわよくばDをAまたはCにすることである。例えばDであっても、「全ての制度を信じない」わけではなく、ある特定の名言が通用しないだけの可能性もあるために、あの手この手の名言を用いて説得し従順にしようとする。道徳的名言が、感動や連帯、それを信じることそのものの価値だけでなく「人間的な成長」といった別の餌を用意しているように。

 平成13年6月に起きた付属池田小学校乱入殺傷事件を思い出そう。宅間守元死刑囚(死刑執行時の姓は吉田だが、ここでは宅間と記す)が、当該事件名にもなっている付属池田小学校(優秀なエリート校である)に侵入し、児童8名を殺害、他にも教員を含め十数名に傷害を負わせた事件である。事件の内容も去ることながら、動機が「むしゃくしゃしていた」「エリートを 殺したかった」並の「自分勝手な」ものだった上、裁判長や傍聴席の遺族に暴言を吐いたり、「殺して後悔は全くない」「反省していない」と表明するなど、各 種の意味で衝撃的な事件であった。平成16年の9月に死刑が執行されるまで、謝罪の言葉は一切なかった。このような振舞いは、およそ通常演じられる「べ き」演劇ではない。だが、ひとまず感傷的な物言いは避けよう。彼をかばったり擁護したりするつもりは全くないが、かといって私は彼を非難できるほど立派な人間でもない。
 彼はいわば、Dタイプの人間だったのである。彼の心境の全てをここに書くことは適切ではないが、彼は最初に、彼の実存における矛盾、すなわち貧富や能力の差の前に放り出される「人はみな平等です」といった特定の名言への反発から葛藤したのではあるまいか(煩悶するということはすなわち、Bであるということである。「自殺卑怯だからしてはならない」という言葉が抑圧する対象は、B以外ではあり得ない)。そして、反復される名言と現実との膨大な乖離=矛盾を目にするうちに、あるときふと、この制度的な「社会の欺瞞」を看取する。
 社会には欺瞞と呼ぶべきものがいくらでもあり、むしろない方が珍しいのだという――Cタイプが持つ――得心が前もって彼に用意されていなかったことが、彼をBからDへと突き落とすことになる。世界あるいは世間が自分に対して行う全ての制度的な振る舞い、Aになることを強要する振る舞いに対して、吐気にも似た嫌悪感を持っただろう。自分には受け入れ難い「嘘」を、周囲が平然と受け容れてしまう無様さを見てというだけではない。世の中にはAとBしかいないのだと無邪気に信ずる「先生」や「親」あるいはそれを報ずる「マスコミ」が、子供だましの名言でAになるようそそのかすとき、Dはしばしば侮辱されたように感じ、孤立し、悪意をもってそれらと対立するに至るのである。
 これは人間本質的な制度への反動であって、「異常」でも「病気」でもない(もちろんフーコーが示したとおり、こうした挙動を「異常」「病気」に仕立て上げるための制度が、監獄と精神病院なのだが)。

 マスコミは件の事件の際の宅間氏の挑発を「そのような発言が出ることは、信じられない」といった素振りで扱った。世の中にはAとBしかいないはず だという態度を改めて繰り返すことで、全体としての名言=制度の基盤が揺らぐことを防ごうとしたのである。人々に必要とされることになるだろう名言めいた もの、流行を偽造して流布することがマスコミの主要な「財源」となるからであるが、しかしここではマスコミについて細かくは触れないでおこう。
 いずれにしても言えることは、宅間氏が被害者を挑発してみせた気持ちを「理解できない」 教育者や親がいるとすれば――遺族は、憤りのせいでそのようなことは考えられないのだと想定して除外するとしても――、愚昧と言うほかないということであ る。事件をめぐって繰り返された多数の「名言」がたった一つとして真実を語らなかっただろうことと独立に、宅間氏は「自分と同じ気持ちの人がやっと見つ かった」といったファンレターをいくつも手にし、獄中で結婚した。
 世の中にDはいないこととして事態が進行しているにもかかわらず、劣悪な殺人鬼に届くファンレターという皮肉な形で、疎外され隠蔽されているDの存在が 浮かび上がる。これに対して、制度側がとった策は気が遠くなるほど無防備で、相変わらずの「信じられない」の一点張りだったように記憶している。「犯人」 の思考や感情を分析できずに、「再犯防止」などといったことが、一体いかにして可能なのだろうか。

 私たちの多くに今必要なことは、BがDに転落することを防ぐための新しい方法論を打ち立てることでもなければ、BやDをAにするための新しい名言を産み出すことでもない。そのような「社会的 に必要なこと」を実践してみせることは、このつまらない名言=「制度」に加担し溺れることを意味する。かといって制度性の欺瞞を告発し、根底から壊そうと 奮闘するのも滑稽である。強力な既存の制度に反発して脱-偏差値や脱-資本主義を唱える者たちが常に、予想通りの、様式美的なまでの凋落ぶりを演じるさま を振り返ると良い。そうではなく、演劇=名言という「制度的な」やりとりが存在することをよく把握し、その中において、いかにその基盤をずらして遊ぶこと ができるか、が問われなければならない。
 何度も何度も言われる「皆が言っている同じギャグ」に私たちが辟易とさせられるのと等しいセンスをもって、無情なまでに反復される退屈な「名言」の数々 と向き合わなければならない。恐らくは、そのように立ち向かわなければ、何がしかの悲劇は必然的な過程を経て繰り返されることとなろう。