(この文章は、とつげき東北が2006年に書いたものです)
映画「ダヴィンチ・コード」
何の興味も抱かせないどうでもよい者たちがこぞって登場し、きわめて退屈な運のみの謎解きごっこを繰り返しつつ、戦ったり愛したりするうちにハッピーエンドを迎える駄作。よく眠れる。
映画「ゲド戦記」
(原作未読)
「心に闇を持つ」少年。
人間の欲望によってとにかく悪くなる一方の世の中。
偶然出会う大賢人ゲド。悲しみを背負った少女。
一貫性なく名言的コミュニケーションによって心を打ち解けさせてゆく彼ら「善人」たち。
週間少年ジャンプ漫画的な、思想的低学年向けのこうした要素をふんだんに盛り込むことが、必ずしも直ちにその映画を台無しにするというわけではなく、興行収入への第一歩であることは否定しない。
なるほどあの名作「ラピュタ」にせよ「千と千尋」にせよ、冗長な説教的テーマを持っていないではなかった。美しい映像と緻密な世界観と音楽とによって、「背後」に挿入されたその種の下らない主題が一応包み隠されていたことで――後に宮崎監督の口からもったいぶって語られたとしても――、私たちは安心して老監督の戯言を「なかったこと」として処理し、それらの作品が持っていた輝きを忘れずにいられたわけである。
ところが、「光と闇」「生と死」といった2項対立における、いわば「バランスの大切さ」をテーマとして持つこの「ゲド戦記」が、思わず目を覆わんばかりにそれを前面に打ち出してしまい、結果として「バランス」の悪い相手をみな「悪人」に仕立て上げて権力的に排除してまわる様子は、繊細さとは無縁の何ものかである。実際、主人公たちは、自らの無策によってもたらされるあらゆる苦境を、あたかも名探偵コナンのように運とチャンバラと勢いで乗り越えながら進んで行く。
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