SNS上で、たまに批判的なコメントやメッセージを読むと、色々と考えさせられる。

 批判をするというのは、実はとても難しいことだと思う。
 
 なぜなら、批判する以上はその内容がきちんと事実に基づいているかどうか、しっかりと確認しなければいけないからだ。

 誤解や勘違い、誤った事実認識に基づいた批判は、的外れな内容として、批判として全く成立しない上に、ネガティブな空気だけは立派に作り出してしまう。
 
 おまけに批判をした相手にネガティブな感情を生じさせてしまう可能性が高く、そうやって
生じてしまったネガティブな波動がやがて自分に跳ね返ってくることも覚悟しなければならない。
 
 では、もし批判ではなくて賛辞を贈った場合はどうか。
 
 ポジティブかネガティブかの違いだけなので、公に自分の考えを発表する以上、批判と同じように事実かどうかは重要なのだけれど、仮に誤解や勘違い、誤った事実認識に基づいた賛辞だったとしても、読んだ人の心を傷つけるケースは稀だろう。

 場合によっては勘違いしたことを笑われてしまうかも知れないけれど、誰かを不幸にするわけではない。
 
 内容がポジティブかネガティブかによって、このように結果は大きく違ってくる。


 
 ツイッターのように多くの人の目に触れるSNSでは、このように内容がポジティブかネガティブかによって、そのメッセージには異なった性質があることを知っておいた方が良いだろう。
 
 SNS上のメッセージは、不特定多数の人の目に触れることが多い。
 
 したがって「そのメッセージに興味がない人」のように、積極的に読もうとしていない人がメッセージを目にする機会が多くなる。
 
 では、例えばそんな「そのメッセージに興味がない人」の目に触れたメッセージが、ポジティブな内容だったらどうなるだろうか。
 
 おそらく目にした人は、そのメッセージを特に気にすることなく、他のメッセージへ気持ちを向けることだろう。
 
 ところが。

 もしそのメッセージがネガティブな内容だった場合はどうだろう。

 目にした人は、そもそも「そのメッセージに興味がない人」だったのにも関わらず、メッセージに含まれるネガティブな言葉によって、嫌な気分になったり心を痛めてしまったりする。

 そう。
 
 発信したメッセージがネガティブだと、全く無関係の人の心すら、暗くしてしまう可能性があるのだ。

 とても不幸なことだ。
 
 このように、ネガティブな気持ちから生まれたメッセージは、相当気をつけて発信しないといけない、大変難しいものなのだ。
 
 
 
 
 ネガティブな波動は、それが引き金となって、多くの人たちのネガティブな気持ちを生み出し、増幅させていく。
 
 しかもその源が、そもそも自分が大好きなアーティストを愛する気持ちだったりした場合はどうだろう。

 これは、言いかえれば「愛」が「不幸」を生み出していることになる。

 とても悲しいことだ。

 大好きなアーティストのライブ会場では、アーティストの愛がファンへ伝わり、その感動から生まれる「愛」が再びアーティストへ返っていき、それを受け取ったアーティストがまたファンへ感謝と喜びを「愛」で返す・・・といった「愛」の連鎖が続く。

 「愛」が「愛」を生み続けるのだ。

 となると、「愛」が「不幸」を生む、というのはとても残念なことだ。


 
 では、その大好きなアーティストは、なぜ「愛」や「感動」を伝えてくれるのに、ネガティブな発信をしないのだろうか。
 
 日々忙しく、こなさなければならない事が山積みで、しかも公の場で責任のある発言をする機会も多いのに、なぜネガティブな発信をしないで自分を表現できるのだろうか。


 
 この疑問への答えは、例としてYOSHIKIとToshlを見つめているとよくわかる。