「美しい記憶」で、僕がひとつの大きな結論として書いたのは『30年前から既に、Xは国内アーティストではなく海外アーティストだった』という考えだった。
それは突出したオリジナリティも、作品と活動のスケールも、ずば抜けた音楽への情熱も、すべてを包括した、僕なりの捉え方だった。
ただ、メンバーも僕も、当時はまだそのように理解したり確信していたわけではないため、それなりに様々な苦労をしていた。
その苦労のことを、僕は「すべての始まり」や「夢と夕陽」などあらゆる文章で『誤解や偏見との闘い』と表現してきた。
「美しい記憶」では、社員であり社内プロデューサーであった僕にとって我が家であったはずのSony Musicという会社の不理解や偏見について初めて書いたのだけれど、Xを世に送り出し東京ドーム公演までを共に実現した、Xの所属セクションStaff Room3rdとそのメンバーの存在があったからこそ、Sony Musicの大きな力を活かしながら、無事Xを成功へと導くことができたのだ、という事実も書くことができた。
結局、Staff Room3rdのメンバーもまた、無意識のうちに『Xは国内アーティストではなく海外アーティスト』という認識を共有していたのだろう、と僕は考えている。
アーティストの本質というものを、ファンというのはきちんと察知しているもので、常に既存のアーティストとの比較を元にその評価を下そうとする業界の人間よりも、はるかにアーティストの限りない可能性に、ファンは気づいていたりする。
もちろんそれはスタッフとは違って、ファンがアーティストの魅力を無邪気にそのまま受け入れることができるからこそ、なのではあるけれど。
それにしても、やはりファンというのは素晴らしいと思う。
過去どんなアーティストにもなかった、新しくて限りない可能性を瞬時に察知し、その才能と存在へ強い期待と情熱を注ぎ、何より深い愛をアーティストに送ってくれるからだ。
逆風が吹き荒れる中、必死で未来へ前進しているアーティストにとって、こんなに心強いことはない。
ディレクターとして、Xのプロデュースに命を賭けて臨んでいた当時の僕が、ある社内の先輩ディレクターに喧嘩を売った話は、以前もこのブロマガ記事で書いた。
バーで共に飲んでいた際、その先輩ディレクターが自分の担当アーティストの不平不満を漏らしたことについて、怒りを覚えた僕が、怒りを抑えてその先輩の好きなアーティストを尋ねた、というエピソードだ。
嬉しそうに海外の著名なアーティスト名とその魅力を語り始めた先輩ディレクターに僕は、そんなにそのアーティストが素晴らしいと思うのなら、そのアーティストをプロデュースすればいいじゃないですか、プロデュースしたいと思わないんですか、というキツい質問をしたのだった。