大人になる。

 素敵なフレーズだ。
 
 でもこのフレーズが素敵だと感じるためには、その大人が魅力的でなければならない。

 魅力的な大人。

 自分が大人であれば、誰もがそうありたいと思うだろう。

 でも、残念ながら魅力的な大人がさほど多くないことを、少なくとも僕は知っている。
 
 小学生だった僕は、たいていの大人が嘘つきで信じるに値しないと気がついていたからだ。
 
 そんな僕も、気がつけばすっかり大人になっていた。
 
 僕が魅力的な大人なのか、そうでないのかはわからないけれど、少なくとも小学生だった頃の僕が信じられなかったような大人にはなっていないと願う。
 
 何しろ、もしそうだったなら、僕はその頃の僕が大嫌いだった大人と同じように、嘘つきだということになるからだ。
 
 嘘つきの大人だけは勘弁だ。
 
 まあ、切実にそう願うのだから、多少損ばかりしていても、僕はきっと嘘つきの大人にはなっていないんだろうと思う。
 
 だって大人になったはずなのに、嘘をつく大人なんて、瞳を見ただけでわかるから。
 
 嘘をつく大人なんて、僕は嫌いだから。
 
 
 
 でも世の中は子どもが思うほどシンプルじゃない。
 
 むしろ嘘をついて、その嘘と真実の狭間で心を痛めながら、でも守るべきもののために心や身体を削りながら必死で生きていくのが大人だし、そういった大人の存在が無数にあるからこそ、社会は保たれて繁栄し、国は豊かになっていくんじゃないか。
 
 たいていの大人はそう思う。
 
 悲しいけれど、それが現実であることは過去が証明している。
 
 でも、過去は必ず正しいのか。
 
 過去に何らかの歪みや過ちを見つけ、それを正そうとし続けてきたのが人間の歴史なんじゃないか。
 
 人間が未来に向かって歩み続ける途中には、歪みが生まれて過ちを犯しながら、それらを悔い、反省して、常に新しい価値観や文化や常識を生み出してきたのではないか。
 
 もしもそんな風に、常に過去の過ちを認めて理解し、その教訓から新たな世界を構築していくことのできる、人間の無限の可能性を信じることができるのなら・・・

 10才の僕が愛した「星の王子さま」に書いてあるように、無知で厚顔で利己的で嘘つきな大人にきちんと「No」を伝えて、知恵があり優しくて他人の気持ちを分かり、嘘をつかない大人に尊敬と期待を寄せつつ「Yes」と伝え、誰もがそうなりたいと憧れて世の中が少しでも良くなっていくように、期待を寄せても良いのではないだろうか。  
  
 

 さて、魅力的な大人とはどんな人だろうか。