文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は日本の特撮の父とも言える円谷英二の軌跡を通じて、映画の歴史における特撮技術の位置付けを明らかにします。
第三章 文化史における円谷英二
一九三九年に入社した東宝技術部特殊技術課で円谷英二に師事するとともに、後の徴兵に際しては、滋賀県八日市飛行場で航空写真工手を務めていた三船敏郎の親友となり、戦後は漫画家として活躍したのに続いて、テレビドラマの製作会社ピー・プロダクションの創始者として『ウルトラマン』と同時期に『マグマ大使』を、さらに一九七〇年代には『スペクトルマン』や『快傑ライオン丸』といった特撮番組を世に送り出したサブカルチャー史の奇才・鷺巣富雄(うしおそうじ)は、円谷の印象的な言葉を紹介している。
なあ、鷺巣くんよ、特撮とアニメは不即不離、いわば生まれながらの兄弟なんだ。アニメと手をつなぎ共同作業で新技術を開拓しなければ完全とは言えんのだよ。[1]
現在は特撮とアニメの繋がりはさほど強くないし、そもそも実写のデジタル化が進んだため、円谷英二以来のアナログな特撮はすでに過去のものとなった。庵野秀明と樋口真嗣の手掛けた二〇一二年のショート・ムービー『巨神兵東京に現わる』はあえてCGを使わずミニチュア撮影に徹することによって、過去の特撮の歴史にオマージュを捧げた象徴的な作品である。
しかし、円谷英二にとって特撮とアニメは「兄弟」であり、ある時期までのサブカルチャー史もこの両輪が形作ってきた。『風の谷のナウシカ』を踏まえた『巨神兵東京に現わる』でいわばアニメを特撮化し、ウルトラシリーズを踏まえた『新世紀エヴァンゲリオン』でいわば特撮をアニメ化した庵野は、実は円谷の理念の隠れた継承者だと言えるだろう(ちなみに、庵野監督の作品の音楽を長年担っている鷺巣詩郎は鷺巣富雄の息子である)。本論もまた微力ながら、この理念を部分的にでも今後のサブカルチャー批評に引き継ぐために書かれている。
では、アニメの双子としての特撮は、いかにして表現上のリアリティを獲得し、日本の社会や文化とどのような関係を結んできたのだろうか。この問いを深めるにあたって、本章では特撮技術の詳しい専門研究に踏み込む代わりに、むしろ円谷英二の軌跡を中心にしながら、特撮という技術を戦前・戦中の文化史のなかに位置づけることを目指したい。それによって、彼の息子世代の作った戦後のウルトラシリーズにも、前章までとは違った角度から光を当てることができるだろう。
1 技術者・円谷英二
映画史における特撮
映画の草創期において、シネマトグラフの発明者であるリュミエール兄弟に次いで、フランスのジョルジュ・メリエスの果たした役割はきわめて大きい。リュミエール兄弟の最初の映画が一八九五年にパリのグラン・カフェで上演された後、ロベール・ウーダン劇場の奇術師であったメリエスはシネマトグラフに大いに興味を示して自らさまざまなトリック映像に挑戦し、一九〇二年には『月世界旅行』で名声を博した。
現実にはあり得ない映像を作り出すメリエスの特撮(SFX)には、手品(マジック)に加えて写真や演劇の表現技術が応用されている。彼は写真技法から「二重焼き」「多重露出」「マスク」等を取り入れ、一九世紀後半に流行した「交霊術」をトリック撮影によって再現する一方、夢幻劇の奇想天外で魔術的なイメージをスクリーン上に出現させた[2](その際にメリエスが変身、幽霊、分身といったポストモダニスト好みのイリュージョンを多用したのも興味深い)。さらに、メリエスの親友にアニメーション映画の創始者エミール・コールがいたことも注目に値するだろう。特撮とアニメーションはその出発点においてすでに「兄弟」であった。
メリエス以降も、ウィリス・オブライエンが特撮を担当した『ロスト・ワールド』(一九二五年)や怪獣映画の金字塔『キング・コング』(一九三三年)を筆頭に、フリッツ・ラング監督の『メトロポリス』(一九二七年)、ジョン・フォード監督の『ハリケーン』(一九三七年)、レイ・ハリーハウゼンの特撮技術が冴える『原子怪獣現わる』(一九五三年)や『アルゴ探検隊の大冒険』(一九六三年)、戦前にはパペトゥーンによるミュージカル・アニメーションを手掛けたジョージ・パル製作の戦後のSF映画『月世界征服』(一九五〇年)等、SFXを用いた記念碑的作品が次々と発表された。円谷英二はこのような欧米の先端的な表現技術を研究して、後の『ゴジラ』やウルトラシリーズの礎を築いた。そのプロセスは、戦前・戦後の日本の漫画やアニメがアメリカのディズニーを学んで自己形成したことと並行している。
SFXの先進地域は欧米であり、日本の特撮はあくまで「後発」であったということは大前提として、しかしそれとともに、日本映画に固有の文脈も無視できない。日本の特撮史は、実は日本映画の「父」と称される牧野省三にまで遡ることができる。
一九〇八年に京都の横田商会に映画製作を依頼されて、北野天満宮で撮影していた牧野は、フィルム交換の際に役者がその場を抜けたのに気づかずフィルムをうっかり回しっぱなしにしたせいで、人間が突然画面上から消失するという映像を偶然に得る(メリエスにもこれと似た偶然の発見がある)。この種の人間消失トリックを生み出す「カットアウト」の発明をきっかけにして、一九一〇年代には尾上松之助を主演とする牧野の一連の忍術映画が、逆回転や二重露出といった効果も用いながら、カメラマンの小林弥六の尽力のもとで撮られた。横田商会が北野天満宮に近い法華堂(後に大将軍に移転)に撮影所を構えて「日活」として出発するなか、日活の牧野映画は「目玉の松ちゃん」と称された松之助のキャラクター性を存分に生かして、多様なトリック映像を生み出した[3]。この意味で、特撮は日本映画の「起源」に根ざしている。