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ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんが、日本的想像力に基づいた新しい人工知能のあり方を論じる『オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき』。遠く離れているように見える学問的な人工知能と私たちが想像する理想的な人工知能。今回は、その橋渡しをして相互補完をしようとする三宅さんの考えについて語ります。

(1)機械論の果て

 サイエンスは常に機能を問い、哲学と宗教は常に存在の在り方を問います。サイエンスはあるところから存在云々の議論に拘泥するのをやめました。物が四大要素からできているとか、世界にエーテルが満ちているとか、そういう存在論をやめて、物事の性質と関係性を定量的・定性的に見出すことに専念することによって成功しました。それはちょうど十九世紀から二十世紀へ向けて起こった自然哲学から自然科学への完全な変化です。たとえば量子力学の黎明期には「物は波動か粒子か?」という議論がありました。この問いには答えがありません。ある場合には、たとえば電子がガイガー管などの実験機器に捕まえられる場合には「粒子」と捉えた方が便利ですし、トンネル効果など物質が物質を透過する現象の場合には「波」と考えます。物質とは、粒子としての性質と、波としての性質を持つ、と捉えるのです。これを「波と粒子の二重性」と言いますが、そこにあるのは解釈のモデルであって物事の本質に対する哲学的な思索ではないのです。そうやって物理学はソリッドな学問になり、まさにそれゆえに成功を続けてきました。
 「自然界を最も単純に説明できるモデルを採用する」というのが自然科学の原理です。これを「オッカムの剃刀の原理」と言います。サイエンスは現象を説明するモデルの中で最も簡単なモデルを採用する、という原理です。
 一方、エンジニアリング(工学)は本来「なんでもあり」の分野ではありますが、サイエンスの影響を受けていて、物や、物と物との関係性の中から人間に有用な機能を見つけ出す、新しい物質を見つけ出す方向に発展しました。人工知能もまた、このようなエンジニアリングの流れの中にあります。
 エンジニアリングは常に機能を追い求めます。「人工知能というエンジニアリングはいかなる知的能力を機械の上に実現できるか」を探求します。人工知能の能は「能う(あたう)」つまり能力の能であり、そこでは機能的(ファンクショナル)なものが志向されます。例えば、自動翻訳、自動運転、自動リコメンドなど、社会で実装される知能とは常に機能的なものです。ところが、そこに欠けているものは、人工知能という存在の根、或いは主体(サブジェクティブ)です。機能ではなく、存在としての人工知能とは何なのだろう?

人工知能の存在論をもとめて

 人工知能は「知能を作る」という大それた、工学としてはいささか突飛な角度から来たために、多くの批判と蔑視を受けてきました。そこで学問としての人工知能は、「きちんとした学問」と認知されるまでには、特に日本においては30年以上の年月を費やしました。ただ、その間に、人工知能が本来的に持っていた「学問らしくない部分」、知能の存在論は削ぎ落とされ、スタイリッシュで、アルゴリズムを基本とする情報処理としての人工知能へと変貌していきました。それは人工知能が誰しもに学問として受け入れてもらうために行われてきた、長い時間に渡る研究者の無意識の作用なのかもしれません。たとえば、自然言語処理という分野は、自然言語の記号的側面から研究します。発話者の人格、立場、状態、生理と言った発話の起源に踏み込むわけではなく、発話された結果、書かれた結果のみを対象とします。背後にある知能の発露の起源である混沌は隠されてしまうのです。
 我々人間は、自分たちがこの世界に根を下ろしているように、人工知能にもまたこの世界に根を下ろしていることを期待してしまいます。しかし通常のエンジニアリングに表れる人工知能は知能の機能的側面であり、存在から見ると一番表層的な部分です。しかし、存在がなければ機能はなく、また機能のない存在というものも考えられません。機能を追い求める人工知能と、さらに存在を奥深く探求しようとする、いわば東洋的な人工知能は、人工知能という分野に横たわる時間に沿った横糸と、時間を超えようとする縦糸なのです(図1)。

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図1 人工知能の二つの軸、時間に沿った機能と時間を超えた構造


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