本誌・編集長の宇野常寛による新連載『観光しない京都』が始まります。世界有数の観光地である京都。しかし、この街を内側からも外側からも見つめてきた宇野常寛は「観光しない」ほうが京都は楽しいと提案します。本連載と一緒に、あなたなりの京都の過ごし方を探しに行く旅を始めてみませんか?
はじめに――「観光しない」ほうが京都は楽しい
そうだ京都、行こう――これは鉄道会社の有名な広告のコピーです。
京都は1200年以上の歴史を持つ、世界有数の観光地です。
毎年5000万人前後のもの観光客が国内外から訪れ、特に近年は海外からこの街を訪れる人が増えています。
京都は長い間この国の歴史と文化の中心だった街で、そしてここ数百年は大きな戦争の被害に遭うこともなくその蓄積が数多く現存しています。こうした蓄積を背景に、京都は21世紀の現在も文化と学術の都であり続けています。長い時間をかけて継承されてきた伝統的な工芸や芸能、そして食ーーこれらの文化は大切に守られている一方で、現代的な感性と出会うことで少しずつ、ゆっくりと更新されてもいます。
こうした京都という街の魅力がいま、世界中の観光客の心をとらえてつつあります。しかし――
しかし、京都には観光に行くべきではない―――それがこの本の結論です。
そして、観光しないほうが京都の旅は楽しい。これがこの本の提案です。
僕はかつて七年ほど、京都に住んでいました。そしてここ数年は仕事で年の1/3は京都に隔週で出張しています。こうして半分外側から、そして半分は内側から京都を眺めていて、気づいたことがあります。
それは京都にやって来た観光客たちの、それも結構な割合の人が楽しそうな顔をしていないことです。どちらかと言えば、疲れた顔をしている人がとても多い。
いったい、なぜこんなことになるのでしょうか。
僕の考えでは理由はふたつあります。
まずひとつは、京都が「深すぎる」ことです。
清水寺、南禅寺、平安神宮、銀閣、金閣、そして嵐山……京都に来たら一度は見たいと大抵の人が考えるであろう、誰もが知っているような定番の観光地をめぐるだけでも、しっかり見ようと思うととても1日や2日では不可能です。これに三大祭などの伝統行事や、桜や紅葉の名所を加え、そして「せっかく来たのだから」と膨大な数の魅力的なレストランを選んで予約すると、数日間の滞在でもあまり余裕のないスケジュールになってしまいます。京都は見るべきもの、体験すべきもの、食べるべきものがあまりに多い、「深すぎる」街なのです。
そしてもうひとつは、観光という文化自体の問題です。
みなさんの中にも、絵葉書と同じ景色を肉眼で確認して移動中にWikipediaを引いてその背景を調べる――そんな旅に「何か違うな」と思った経験がある人も多いと思います。もちろん、こうした旅にも面白さがあるでしょう。ただ、僕はそうした体験は旅に出なくても得られるものだと考えています。こうした観光旅行は時間とお金をかけた読書のようなものです。それは、実際に足を運んだという「きっかけ」と「アリバイ」にすぎなくて、たぶん本当は部屋の中にひここもっていてもできることなのだと思います。こうした旅になってしまったとき、僕は自分がまるで写真をFacebookやInstagramにアップロードするために行動しているような、違和感を覚えます。
しかし旅の醍醐味は決して絵葉書と同じ景色を確認することではない。僕はそう考えています。
旅をすることで、僕たちは普段とは違う土地の、違う街で食事をして、寝起きして、そしてものを考える。普段とは違う日常を過ごす。そうすることで、普段は気がつかなかったことに気づく。それが旅の醍醐味だと思います。
自分が少し硬いベッドのほうがよく眠れること。普段は食べないものが意外と美味しいと感じること。歴史も文化も構造もまったく違う街を歩くことで、目に写り、耳に入るものごとから受ける様々な刺激。こうしたものを旅から戻ってきたときに、旅に出る前の自分と少しだけ、それも自分でも気づかないうちに変わってしまう。それが僕の考える旅の面白さです。
どうせ旅に出たのならば身体を日常生活の場所から切り離して移動することではじめて得られるものを体験したい。僕はそう考えています。
しかし観光という文化はこの旅の経験をときに大きく損ないます。
それは僕たちを特別な場所に実際に足を運ぶという目的に縛ってしまいます。
その結果、目当ての史跡名勝やレストランを訪ねること自体が目的となり、意識がその目的に集中してしまいます。そして、過程から受け取ることができる雑音の数々が結果的にあまり心に残らなくなってしまいます。
そして僕の考えではいま京都を訪ねてくる観光客のうちかなりの割合の人が、まるで位置情報ゲームのように限らてた時間内に目当ての場所を訪ね歩く(観光)という目的にしばられてしまっていて、この京都という街の与えてくれる豊かさをまったく受け取れていないように思えるのです。
僕はそんなゲームのような旅をしている観光客たちの、何かに急かされていて、そして少し疲れた顔を見るたびにもったいないな、と思います。