ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は特別編として、「早稲田文学増刊 U30」に掲載された井上明人さんの論考をお届けします。後編では「切り取られることのない〈いま・ここ〉」を提示し、異なる二つの「作品」の成立について考察します。
(初出:「早稲田文学増刊 U30」、早稲田文学会、2010年)
作品観B:生成するもの
切り取られることのない〈いま・ここ〉
さて、この作品観だけでは、おそらく切り取ることのできないものがある。たとえば、Wikipediaやニコニコ動画のようなCGM(コンシューマー・ジェネレイテッド・メディア)、あるいはUCC(ユーザー・クリエイト・コンテンツ)という形式を考えるとき、その新奇性を発見することができる(注4)。
CGMは、上記のような作品観とはそぐわない。CGMにおける作品では、見る主体/見られる客体という区分が融解している。読まれる文字/見られる映像の時間は停止していない。Wikipediaのそれぞれの項目は、常に書き換え可能なものとして存在している。常に、不確定なテキストであり続けている。
もちろん、Wikipediaの任意の項目Xについて評価することは可能である。しかし、それは、項目Xを、語り手にとって手の届かない、過去のある時点のものとして固定させておくことによってはじめて可能になる。現在に限りなく近い項目Xについて語ることはできても、〈現在の項目X〉は語ることができない。それは永遠に、不確定のテキストであるだけでなく、項目Xについて語ろうとする語り手自体が、常に項目Xの書き手の一部として位置付けられる可能性を帯びるからだ。項目Xについて自分のブログで文句を言うのであれば、「それなら、あなたがWikipediaの項目自体を書き換えてしまえばいいではないか」と言われる可能性がつきまとう、ということだ。ここでは、見られる客体=作品という観念を成立させることは、遥かに困難になっている。Wikipediaの記述が馬鹿らしいと感じたならば、あなたはそのテキストを書き換えることができる。
もっとも、Wikipediaの全体的な信頼性の問題や、Wikipediaというアーキテクチャの善し悪しについて語ることも確かにできるだろう。だが、それは、項目Xを過去のある時点に固定させるという概念操作と、同様のことである。全体的な信頼性や、アーキテクチャの全体という大きなものには、個々人は触れることができない。触れることができないもの=現在の自己の行為にとって関係のないものだから語ることが可能になるのである。
Wikipediaでは、読み手が、当該対象項目について、一定の知識を持っているということが、読み手と書き手を融解させるシステムとして機能している。ニコニコ動画の場合は、作品を見る主体になる、ということと、作品の内部において語り手となる=読まれる客体となる、という二つのことがさらにシームレスに繫がっている。読み手と書き手が融解するための条件はほとんど、何も無いに等しい。ただ「すげー」「おわっ」「びびった」という何の衒いもない感想を書き記すことで、すぐさま、書き手として機能することができる。そこでは、ほとんど全ての観客が、同時に書き手となる。
さらに、USTREAMというCGMサービスについて考えてみよう。USTREAMは、ユーザーが自由にリアルタイムの映像をライブ中継できるサービスである。ここでは、ニコニコ動画や、Wikipediaとも違い、一時的な記録がなされていることすら必要ではない。その上、テレビの生中継などとは決定的に異なり、数十人ぐらいの少ない視聴者のいる状況下でのライブ中継が多い。そして、視聴者のほとんどが、ライブ中継を見ているその横で、チャットでコメントを入れていくことができる。一対一のテレビ電話とは異なり、一対多の構造ではあるが、発信者/発信内容と、その受け手は渾然一体とした状況にある。
さて、では、このようなCGMコンテンツとは、いかなる意味において「作品」なのか。