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記事 26件
  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第23回 駆け引き(学習説の他説との整合性④)【毎月第2木曜配信】

    2018-04-11 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は「ゲーム性」において欠かせない要素である「駆け引き」と学習プロセスの関係についてまとめます。
    3.6 駆け引き(学習説の他説との整合性④)(学習説の他説との整合性④)
    3.6.1 「駆け引き」とは何だろうか

    「第三ラウンドが始まった。ディーラーが再びディスカードし、四枚目のコミュニティカードを場に並べてオープンした。ターンと呼ばれる共有カードだ。印はでJ。
    思わず、どきりとした。
    これで、J、10、8、7が揃い、9が来ればストレートである。
    次に来るカードを、ウフコックは何かの手段で読んでいるのだろうか。もしそうではなく、ただ強引にコールし続けているのなら、いかにも素人くさい。それともそれを演じようとしているのだろうか。バロットには何もわからなかった。
    ブラインドベッターのカウボーイが三十ドルのベットをし、ドクターがコール。『レイズ、六十ドル』
    と手のひらに文字が浮かび、バロットは思わず何度も確認してしまった。
    《──三十ドルのコールに、レイズ六十ドルです》
    信じがたい思いで最高賭金の額を置いた。これで二百十ドルが手元から消えた。この調子だとスロットで稼いだ分が、あっという間に消えてなくなるのがわかって怖くなった。」

    これは、冲方丁『マルドゥック・スクランブル』で描かれたポーカーの一節だ。[1] ゲームを扱う物語描写において、その見せ場はしばしば、駆け引きを行う心理戦の描写であることが多い。
    筆者は昔、「ゲーム」の骨格をなす中心的な概念として論じられやすい「ゲーム性」という概念が、どのような文脈で、どのような言葉とともに用いられることが多いのか。これを雑誌『ゲーム批評』のバックナンバーをもとに調べたことがある。とくに言い換え表現として頻繁に使われていた表現は「駆け引き」という要素だった[2] 。当時は、結局この概念がなぜ頻繁に使われるのか、という点についてあまり細かな議論をすることができなかった。ただ、多くの人が中心的な要素だと位置づけるこの要素は、重要な論点のひとつであることは明らかだった。ときには『ゲーム』と題した本の中身がまるまる駆け引きについての議論であるというケースすらある。[3]
    今回は、この「駆け引き」という概念と学習プロセスの関係について述べたいと思う。まずは、駆け引きと、学習プロセスの関係を考えるうえで、押さえておくべく基本的な概念を整理するところからはじめよう。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』特別編 認知的作品 〈いま・ここ〉を切り取ることをめぐって・後編

    2018-03-08 08:30  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は特別編として、「早稲田文学増刊 U30」に掲載された井上明人さんの論考をお届けします。後編では「切り取られることのない〈いま・ここ〉」を提示し、異なる二つの「作品」の成立について考察します。 (初出:「早稲田文学増刊 U30」、早稲田文学会、2010年)
    作品観B:生成するもの切り取られることのない〈いま・ここ〉
     さて、この作品観だけでは、おそらく切り取ることのできないものがある。たとえば、Wikipediaやニコニコ動画のようなCGM(コンシューマー・ジェネレイテッド・メディア)、あるいはUCC(ユーザー・クリエイト・コンテンツ)という形式を考えるとき、その新奇性を発見することができる(注4)。
     CGMは、上記のような作品観とはそぐわない。CGMにおける作品では、見る主体/見られる客体という区分が融解している。読まれる文字/見られる映像の時間は停止していない。Wikipediaのそれぞれの項目は、常に書き換え可能なものとして存在している。常に、不確定なテキストであり続けている。
     もちろん、Wikipediaの任意の項目Xについて評価することは可能である。しかし、それは、項目Xを、語り手にとって手の届かない、過去のある時点のものとして固定させておくことによってはじめて可能になる。現在に限りなく近い項目Xについて語ることはできても、〈現在の項目X〉は語ることができない。それは永遠に、不確定のテキストであるだけでなく、項目Xについて語ろうとする語り手自体が、常に項目Xの書き手の一部として位置付けられる可能性を帯びるからだ。項目Xについて自分のブログで文句を言うのであれば、「それなら、あなたがWikipediaの項目自体を書き換えてしまえばいいではないか」と言われる可能性がつきまとう、ということだ。ここでは、見られる客体=作品という観念を成立させることは、遥かに困難になっている。Wikipediaの記述が馬鹿らしいと感じたならば、あなたはそのテキストを書き換えることができる。
     もっとも、Wikipediaの全体的な信頼性の問題や、Wikipediaというアーキテクチャの善し悪しについて語ることも確かにできるだろう。だが、それは、項目Xを過去のある時点に固定させるという概念操作と、同様のことである。全体的な信頼性や、アーキテクチャの全体という大きなものには、個々人は触れることができない。触れることができないもの=現在の自己の行為にとって関係のないものだから語ることが可能になるのである。
     Wikipediaでは、読み手が、当該対象項目について、一定の知識を持っているということが、読み手と書き手を融解させるシステムとして機能している。ニコニコ動画の場合は、作品を見る主体になる、ということと、作品の内部において語り手となる=読まれる客体となる、という二つのことがさらにシームレスに繫がっている。読み手と書き手が融解するための条件はほとんど、何も無いに等しい。ただ「すげー」「おわっ」「びびった」という何の衒いもない感想を書き記すことで、すぐさま、書き手として機能することができる。そこでは、ほとんど全ての観客が、同時に書き手となる。
     さらに、USTREAMというCGMサービスについて考えてみよう。USTREAMは、ユーザーが自由にリアルタイムの映像をライブ中継できるサービスである。ここでは、ニコニコ動画や、Wikipediaとも違い、一時的な記録がなされていることすら必要ではない。その上、テレビの生中継などとは決定的に異なり、数十人ぐらいの少ない視聴者のいる状況下でのライブ中継が多い。そして、視聴者のほとんどが、ライブ中継を見ているその横で、チャットでコメントを入れていくことができる。一対一のテレビ電話とは異なり、一対多の構造ではあるが、発信者/発信内容と、その受け手は渾然一体とした状況にある。
     さて、では、このようなCGMコンテンツとは、いかなる意味において「作品」なのか。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』特別編 認知的作品 〈いま・ここ〉を切り取ることをめぐって・前編

    2018-02-20 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は特別編として、「早稲田文学増刊 U30」に掲載された井上明人さんの論考をお届けします。ゲームが「作品である」とき、それはどのような事態か。その問いに答えるべく、前編では「切り取られた〈いま・ここ〉」について論じます。 (初出:「早稲田文学増刊 U30」、早稲田文学会、2010年)
    コンピュータ・ゲームのようなメディアが「作品である」というとき、それはどのような事態だろうか。
    コンピュータ・ゲームというメディアは、コントローラーを手にして直接に遊ばなければ作品として楽しむことができない、とふつう考えられている。
    しかし実は、直接手にしなくともゲームが楽しまれる経路は存在する。例えば、ニコニコ動画における「ゲームプレイ実況」と呼ばれる一群の動画が、最近大きな支持を得た。いまや、国内で一四〇〇万アカウントを抱える動画サービス、ニコニコ動画の中でも非常に人気のある動画ジャンルの一つとなっている。
    「ゲームプレイ実況」の動画とは、その名の通りゲームプレイヤーがゲームを遊びつつ、ゲームの展開について実況を交えて解説したり、驚きの声をあげたりする声が吹き込まれている動画だ。『スーパーマリオブラザーズ』シリーズなど、よく知られたゲームについては、概ねこうした実況の動画が存在している。動画の閲覧者は、自分自身がゲームを遊ぶわけでもないのに、二時間も三時間も食い入るように、どこかの誰かがゲームをしている風景を眺める。彼らはみな自らの手でゲームを遊ぶわけではない。ゲームというメディアを「遊ぶ」ことだけに焦点化して考えようとするとき、この事態は説明ができない。
    ゲームとは、百人が遊べば、百様のプロセスが生じる。そこには、無数の展開が生まれ、『スーパーマリオブラザーズ』(以下、『マリオ』)や『テトリス』といった「作品」はそれらの展開を媒介するようなものとして機能しているだけだとも言える。プレイ実況の動画は、ゲームを遊ぶプロセスを一つの物語として見せている。実況動画という形で成立した、ゲームを介した物語を紡ぐ動画を一つの「作品」として数えるとき、ゲームというメディアは、それ自体も「作品」でありながら、それを媒介とした無限の「作品」を可能にするものだ。将棋というゲームがほとんど無限に近いプロセスを持つものだと語る人は多い。将棋は宇宙であるという人もいる。ゲームが無限をたずさえるメディアなのであるとすれば、無限の在り様について語ることは容易ではない。『マリオ』が生み出す一つのプロセスを経験することから、帰納的に『マリオ』のことを語ることはできても、未だ見たことのない『マリオ』の物語は無限に存在する。
    さらには、どこかの誰かが勝手に『マリオ』のプログラムを改造した『改造マリオ』も大人気の動画の一つだ。この動画で遊ばれているマリオは、もはや任天堂がリリースした『マリオ』そのものではない。多くの部分で『マリオ』の要素を借りてはいるが任天堂の『マリオ』には存在しないマップ、存在しない効果音などが様々に埋め込まれている。しかし、これは確かに『マリオ』として楽しまれている動画だ。これが『マリオ』であると認識するとき、『マリオ』であるとは一体どういうことを指しているのだろうか?
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第22回リアル異世界物語と、ゲーム的想像力:九井諒子、橙乃ままれ、なろう小説 後編<番外編>【毎月第2木曜配信】

    2018-01-11 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。これまでゲームについて語ってきた井上さんが、番外編としてゲームに強く影響を受けている近年の小説について、ジャンル別に分類/分析します。
    (2)現代知識チート:現代知識を用いることで最強になる話。
    「そろそろ転生しそうな予感がしている人必読。異世界に持っていきたいこれらの知識」という売り文句で、今年の春に『現代知識チートマニュアル』(山北篤、新紀元社)という本が発刊された。
    ▲『現代知識チートマニュアル』(山北篤、新紀元社)
    ファンタジー異世界に転生してしまった人が参照するためのマニュアル本という体で作られており、原始的な火薬の製法から蒸気機関の作り方まで書かれた分厚い内容である。
    筆者は、リリースされてすぐに「そう!これだよ!こういう本が読みたかった!」(というか、むしろこういう内容を自分で書きたかった!)と感じ、貪るように読み、たいへん勉強になった。
    もちろん、異世界に転生する予定はないのだが、なぜこんな一人ウィキペディアのような本が面白く思えるのか。それは、「現代知識チート」作品群を読みまくっているからに他ならない。
    橙乃ままれが2ちゃんねるに掲載した『魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」』(通称『まおゆう』)のヒットあたりから、なんちゃって中世ファンタジー世界に行って現代知識を駆使して、活躍するというフォーマットの物語が、鬼のように出てきた。これらの作品のなかでは軍オタ的な知識はもちろんのこと経済学、政治学、農学、化学、物理学など多彩な知識が動員されて、中世ファンタジー世界に革命を起こしていく。ある意味で、ナイーヴな開発経済学の夢みたいな小説群ともいえるのだが、割り切って読むことができれば技術科学史教養のための学習漫画の一種のようなものだという気分で、楽しく読める。こういう作品を大量に読んでいた人々にとっては、古代から現代における重要なイノベーションをなるべくコンパクトにまとめた『現代知識チートマニュアル』のような本は「そうそう、こういうまとめが欲しかったんだよね」という内容になっている。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第22回リアル異世界物語と、ゲーム的想像力:九井諒子、橙乃ままれ、なろう小説 前編<番外編>

    2017-12-13 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。これまでゲームについて語ってきた井上さんが、番外編としてゲームに強く影響を受けている近年の小説について、ジャンル別に分類/分析します。
    学習論における物語とゲームの話が終わったところで、小休止をはさみたい。というか、はさませてほしい。
    そういうわけで(?)、今回は唐突だが番外編として、「異世界転生もの」とか「なろう小説」と呼ばれるあたりの作品について一度まとめて語っておきたい。
    今までの話と何の関係があるのかと戸惑う読者もおられるだろうが、ただ、小休止的な回なので、そこらへんは今回、ちょっとゆるいのだが、関係はある。最近のこの手の物語というのが、ほとんどが「ゲーム」っぽい世界設定(ないし、ゲームそのもの)をベースにしているからだ。10年前であれば、ノベルゲームに見られる一群の特殊なリアリティ水準を指して東浩紀が「ゲーム的リアリズム」と呼んだものが、現在ではノベルゲームではなく、「小説家になろう」に投稿される異世界転生もののなかで展開されているからである。そして、この領域において卓越した作品が、この10年ぐらいの間に数多く登場している。
    筆者が対象としたいのは厳密には異世界転生そのものを扱った物語というよりは、橙乃ままれ作品や九井諒子作品などを含めた異世界のリアリティ水準を問うものだ。なので「異世界転生もの」「なろう小説」というより少し対象を広げて、勝手に「リアル異世界物語」とこれらの物語群のことを名付けたい。その基準は次のとおりである。
    i.異世界について描いた物語であり、かつ ii.我々の現代世界において起こりうる問題が異世界においてどのように生じうるか、を中心的なテーマとして扱った作品群を扱いたい。
    ただ、これだけだと『銀河英雄伝説』などの少し古い作品も入ってきてしまうので、とくにここ10年ぐらいで登場した作品群の特徴として
    iii.勇者や魔王のいる世界を前提として描いているもの
    という三つの前提を挙げたい。
    今回は、これらの基準を満たしたここ10年ぐらいに登場した重要な作品だと筆者が考えるものを紹介していく、という内容にしたい。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第21回:ゲームから物語へ(2)【毎月第2木曜配信】

    2017-11-09 10:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。前回に引き続き、テーマは「ゲーム/物語」の区分です。今回はブルーナーの裁判についての議論と比較しながら、「物語の階層性」という概念を通じて、ゲームと物語の関係を解き明かします。
    ■第21回:ゲームから物語へ(2)
    3.5.7. 解釈システムの階層性
    物語化の階層性
     心理学者のブルーナーは、物語を生成させるプロセスの一つとして裁判における物語生成に着目している[1]。  裁判においては、被告と原告のあいだに異なる物語があり、双方の物語をたたかわせる。複数の物語間の衝突があり、その衝突は裁判官が正統な物語を決定することによって収束するという手順をもっている。  そして、複数の物語が、調整されるプロセスにおいて、法廷では「過去」の先例への一致が基準とされる。法大全や六法全書に掲載されている判例集との整合性をチェックし、先例との対応を考えていくことでいかにも順当な物語が選び取られる[2]。  以上のブルーナーの指摘は、ゲームと物語の関係を考えるうえでも示唆に富んでいる。「裁判」の仕組みは社会的なプロセスだが、裁判のような複数の物語がたたかわされ、調整されるプロセスというものを、一個人の認知のはたらきの過程として相似形で考えてみることにしよう。  我々は、日々数多くの「物語になりうるもの」と出会いながら生きている。 我々の日々の経験のうちのいくつかは印象深いものとして記憶され自伝的な記憶となり、いくつかの要素はそのようなものとしては記憶されない。はじめて恋人ができた日の記憶や、親族の死の記憶などは多くの人にとって記憶に残る類のものだろうが、今日の昼食が今後の人生の記憶に残るかどうかといえばよほど美味しいものにでも出会ったりしない限りはなかなか記憶に残りつづけることはないだろう。  ゲームを遊ぶなかで出会うほとんどのことは、繰り返しつづける要素の一部だ。今日の昼食とか、昨日のトイレの記憶に近い。何度も繰り返しているゲームのなかで、敵がどのような戦略を採ったか、自分がそのとき何をしたかということはそこまで詳細な記憶はないだろう。たとえ、FPSのような銃撃戦のオンライン対戦ゲームのなかで敵キャラクターを殺害していようが、味方キャラクターが殺されていようが、こまかな記憶を保持しておくのは難しい。『ジョジョの奇妙な冒険』に主人公が宿敵ディオに対して、いままで何人を殺してきたのか?という問いを発し、それに対しディオが「おまえは今まで食ったパンの枚数をおぼえているのか?」と答えるという有名なシーンがあるが、ゲームの行為というのは、まさにこのような側面がある。  しかし、プロのゲームプレイヤーたちの日常というのはそうではない。  ある朝起きたら、昨日の自分のゲームプレイの結果がニュースとして報道されるということがありうる。裁判においては、裁判官によって複数の物語のうちの一つが正統な物語として選び出されることになるが、プロのゲームプレイヤーたちの日々はジャーナリストや観客たちによって任意のシーンが重要な物語として語られることになる。たとえば、高名なチェスプレイヤーのカスパロフであれば一九九七年五月に行われたIBMのAI(ディープブルー)との対戦が「歴史的事件」として報道された[3]。  彼らの日常、彼らの試合のすべてが特別な物語、意味のある物語とみなされるわけではない。  無数のゲームを戦うなかで、任意の瞬間が、特別な「物語」として選び取られることになる。
    ▲物語化のプロセスの階層性■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。
     
  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第20回 ゲームから物語へ(1)【毎月第2木曜配信】

    2017-10-12 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。多くの人にとっては「ゲーム」は終わりを迎えるものです。しかし、羽生善治氏や梅原大吾氏などのゲームを生業とするプロプレイヤーは異なる感覚を持っているようです。「ゲーム/物語」の区分から、井上さんが概念の整理を試みます。
    ■第20回:ゲームから物語へ(1)
    3-5-6.ゲームであり、物語である
    *続くもの、繰り返すもの  たとえば、『スーパーマリオブラザーズ』を遊ぶとき、我々はゲーム機を立ち上げて一通り遊んだらゲーム機の電源を切る。そうすれば、ゲームの世界はそこで一端終わってしまう。多くのアナログゲームの経験も似たようなものだ。親戚の子供と一緒に正月に『ババ抜き』を遊ぶとき、数ゲームほど遊んだら『ババ抜き』というゲームはそれでいったんおしまいだ。半年後まで親戚の子どもが、そのババ抜きの結果について考え続け、その続きを挑んでくるということは、ほとんどないといっていいだろう。このようなとき、ゲームとは「終わり」を明確に持つものだ。 しかし、そうではないケースもある。「ゲーム」が日常のなかに埋め込んで生きている人々もいる。プロ棋士、プロボクサー、プロゲーマーなどと呼ばれる人々がそれにあたる。ゲームプレイというのは彼/彼女らの日常のなかにがっちりと組み込まれ、それは一回ごとのゲームを終えても、ある意味では続いているものだ。 たとえば、羽生善治はゲームというものについて一般人とは異なる視点をもっている。羽生本人のテクストから引用しよう[1]。

     私はよく、タイトル戦などの重要な対局で、相手の得意な戦型で戦うことがあります。それはその人の得意な戦型を打ち破って優位に立とうということよりも、どんなに研究しても、最後は実戦でその戦型のスペシャリストの人と対戦しないことには、その戦型が本当の意味で自分の身につかないと思っているからなのです。 基本的な部分は、棋譜を見たり本を読んだり、練習将棋をすることである程度は把握できますが、そこからもう一歩前進しようと思ったら、その形のスペシャリストと実戦で実際に指してみるのが最も効果的だと思います。 相手の土俵で戦うことになるわけですから、確かにそのときの勝負の面においては損をする部分もありますが、長い目で見ればそれほど損ではないのではないかと私は思っています。 仮にその一局は負けたとしても、その形を着実にマスターできたならば、自分にとってかなり大きなプラスになります。だから長期的な視野に立てば、それは間違ったやり方ではないと思うのです。 しかも、タイトル戦であれば特に持ち時間が長いので、それまでまったく理解できていなかった形でも、時間を使いながら何とか理解していくことができるのです。

     この羽生の発言は、我々のゲームプレイに対する一般的なイメージと比べるとかなり特殊だ。名人戦や、竜王戦、棋王戦といったタイトル戦は将棋マンガであれば、物語のヤマ場に置かれ「絶対負けられない戦い」として描写され、勝利にかける棋士同士の強烈な執念が描かれるような対象になるべきもののはずだ。 しかしあの羽生善治が、それは違うと書いている。そして、興味深いことに、これは羽生善治という人の特殊性を表しているかというとそういうことでもないということだ。「ゲーム」を生業とするプロフェッショナルで似たような発言をしている人物を探すことはそう難しくない。たとえば、日本のプロゲーマーとして最も有名な梅原大吾も似たようなことを書いている。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第19回 我々はどこまでいい加減なプレイヤーたりうるか?―DQ11における「死」について【毎月第2木曜配信】

    2017-09-14 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。「キノコで巨大化」「人の家のタンスを開ける」など、「メカニクス」と「表象」がしばしば乖離するゲームの世界。今回は番外編として、『ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて』の話題を中心に、「いい加減なプレイヤー」をめぐる問について考えます。

    (今回は、番外編としてDQ11の話をメインにさせていただきます)
     3DS版『ドラゴンクエストXI』(以下DQ11)をクリアーした。クリアー後のアレはもちろんのこと、時渡りの迷宮も最後まで終えた。  そういうわけで、いまDQ11について書かなければ、たぶん次に書く機会というのはないだろうと思うのでDQ11の話をメインに書かせていただく。とくに「ゲームとは何か」に関わる論点として、今作は「死」や「ゲームオーバー」の問題を扱っているが、けっこうざっくりとした表現の仕方だなという感想を抱いた。このざっくりとした表現をどのようにとらえるのかというのは、「ゲームというメディアにおける表象」とどのような態度で向き合うべきか、を考えたときいくつかの重要な問いを含んでいるように思うので、その問題について書きたいと思う。[1]  今回、「死」や「ゲームオーバー」の表現について2つの点で今までとは異なった試みをしている。単にストーリーのみを取り出してみた場合、なるほど、これを「よかった」という感想を抱く人が一定数いるのはわかるようなものだ。他方、逆の評価をした人も当然いたはずのものだ。たとえば『MOON』(1997,ASCII)を褒める人であれば、今回のDQ11についてどのような評価をするか、悩ましい表現があった。
     ゲームというメディアのなかでこのようなストーリーテリングをすることについて、いくつかの重要な前提を確認したうえで、この問題をどう評価するのかを述べたい。  いくつかの前提というのは、第一にゲームにおける「喩え」とどのように接するかということ。第二に我々が複合的なリアリティがつなぎ合わされたメディアとどう接するかということだ。  結論から言えば、この二つの問題にどのように扱うかによって、同じ作品に対して、まったく逆の感想を抱くことが可能だ。  これらの前提について確認していくことからはじめよう。  なお、以下のテキストは後半から当然のようにネタバレを含むのでご了承いただきたい。
    *メカニクスと表象:「喩え」の設計
     ゲームデザインにおける重要なポイントという話をする場合、難易度調整(チューニング、バランシング)、レベルデザイン(マップ・デザイン)、メカニクスデザインなどといった要素がトップクラスのものとして挙げられること。これらに並んで重要なものの一つが、ゲームデザインにおける「喩え」をどのように設計するかということだろう。  ゲームを設計する側にまわらないと気付きにくいことだが、多くのゲームはさまざまなポイントの集合でできあがっている。ポイントA:30、ポイントB:50、ポイントC:32を割りふって…といったようなポイントの集合としてゲームはみなすことはできる。シューティング・ゲームであればポイントABCはそれぞれ機体の「連射速度」「攻撃力」「機体速度」かもしれないし、ギャルゲーであればキャラごとの「好感度」「友好度」「体力」かもしれないし、レースゲームであればマシンごとの「カーブ性能」「最高速度」「加速度」かもしれない。ゲームデザインというのはこれらの「ポイント」のどのように名前を付けていくか、という作業でもある。  この問題について極めて意識的な発言を繰り返しているのは宮本茂だろう。発言を引用する。[2]

     遊びには、ゴルフタイプの「ボールをゴールの穴に入れるという、みんなが納得できるルールの遊び」と、野球タイプの「誰かがつくったルールの遊び」があるのです。だから、ゴルフタイプのゲームの場合はルールが明確なため、つくるのが比較的ラクです。それに比べて野球タイプは非常に難しい。『ピクミン』は野球タイプだったため、ルールづくりには非常に悩まされました。  最初は、「一定数以上のピクミンを集めればクリアー」というルールだったのです。でも、この「一定数」って誰が決めたの?ということになりますよね。そこで思いついたのが、「特定の数以上でないと運べない荷物を回収する」というルール。小さいものからだんだんと運びはじめるので、プレイしていくと「大きなものは重たい」という共通の認識ができるのです。そのため、たくさんのピクミンが必要になるゲーム展開となり、結果的に、ピクミンを集めるゲームとなったのです。 『ピクミン』のような野球タイプのゲームは、自然な形で目的を達成させるルールをつくることが重要です。


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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第18回 物語からゲームへ【毎月第2木曜配信】

    2017-08-10 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。前回に論じた2つのゲーム的形式をふまえ、今回はゲームと物語の関係について捉え直します。

    3−5.物語認知とゲーム(学習説の他説との整合性③)
    3-5-1.二次的フレームとしての「物語」
     前回の議論で、ゲームというものが日常の内側にあるものか、外側に在るものかについて論じ、日常(一次的現実)の内側にもゲーム的な体験の一種(二次的フレーム)は充分に成立しうるという結論を得た。そして、また我々が「ゲームを遊ぶ」とき、我々の日常の感覚と、それにもう一つの感覚が重ね合わされた、重層化された経験を生きることであるということを確認してきた。一つの時間を、感覚が重ね合わせられた状態として経験する、というのは珍しい経験ではない。
     これらの話を前提として、次の論点に進みたいと思う。ここまで「二次的フレーム」という述語をあくまで「ゲーム」に関わる認知の形成として扱ってきた。しかし、世界のありようを理解するフレームは「ゲーム」的なものだけではない。その代表的なものの一つは「物語」だ。そして、この「物語」と「ゲーム」は少し難しい関係にある。
     今回はこの「物語」と「ゲーム」の関係について考えたいと思う。
     「物語」について「ゲーム」を論じる文脈のなかで語るということは、しばしばある種の問題について語ることと同義とみなされる。
     たとえば、ゲームと物語はしばしば対立関係にあるものとして語られる。ゲームというメディアが持つインタラクティヴな性質と、表現メディアとしての物語がもつ固定された性質との対立というものが重要な対立であるとみなされることは、コンピュータ・ゲームについて議論する文脈では、たびたびとりあげられる[1]。この対立関係には「ludonarrative dissonance」[2]という用語まである。
     たとえば、RPGの物語上で「強い」とされているキャラクターが仲間に加わったときに、レベル上げをしすぎていた場合そのキャラが「強い」という物語上の設定を受け入れるのに違和感が出てしまったり、物語上の強力なボスの手前でゆったりと宝箱を物色していたりするときの違和感といったものは、ゲームメディアのインタラクティヴな性質と固定された表現としての「物語」の対立の一例になるだろう。
     「物語」は、現実理解のフレームの一つとして極めて強力なものだが、このような事情から、ゲームとは対立構造にあるものとしてしばしば語られてきた。
     しかし、今回はこの対立について扱わない。この問題は重要な論点の一つではあるが今回論じようとしている文脈では不可避の論点ではないからだ。こうした対立は「ゲームと物語の本質的な対立」というよりは、「ゲームのもっている性質の一つと、物語のもっている性質の一つの対立」という部分的な問題にとどまる[3]。
     どういうことか。
     ここまで「ルール」の話[4]でも、「非日常」の話[5]でも、繰り返してきた話だがある対象に対してプレイヤーが抱く主観的な認識の問題と、対象そのものをここでも分けて論じることにしたい[6]。その前提に立ったうえで、整理するならば、「ゲームと物語の対立」というのは、プログラムの束としてのゲームと、テクストや音声として固定化された物語の対立という部分的な問題にすぎないといえる。映画/マンガ/小説/ゲームシナリオといった形で表現された「物語」は確かに固定され、閉じたものとしての性質を持つが、それは表現メディアとしての性質であって、我々が日常において経験する物語的な認識プロセスとか、物語の経験全体が閉じているわけではない。家族や友人と、今日あった出来事について話し合うときに、そこで語られる物語は決して閉じているわけではない。そのようなときに語られ/生成される物語は、固定されているどころが、インタラクションを通じて生成されるものだ[7]。我々の日常は、小説を読むようにして流れているわけではない。そして、今回扱おうとしているのは、このような現実理解の枠組みとしての「物語」の現れ方である。
    結論を先取りしていえば、世界を理解する仕方としての「物語的な理解」と、「ゲーム的な理解」といったものは、対立するどころか相互になだらかにつながっている。
     それは本連載の当初、イラクにおけるアメリカ軍の「誤射」の映像を、リークした事件についての複数の感覚の現れについて理解するうえでも重要な議論だ。イラクの人々のドキュメンタリー映像を見て、ノンフィクションの記事を読み、同時に中東の戦場へと赴くゲームをプレイするとき(1)「戦争が人々の生活を残酷に破壊してしまった」(2)「これなら誤射をしてしまいかねない」というふたつの感覚はパラレルに成立する可能性がある、ということを論点としてとりあげたが、この問題の理解にも関わるものだ。
     我々の日常の中にも、非日常のなかにもゲーム的な状況も、物語的な状況も埋め込まれているし、埋め込まれうる。そして、このように「ゲーム」が日常のものに混ぜ込まれうる、という前提は「ゲーム」観について、いくつかの新しい事態をよび起こすことになる。 「物語」と「ゲーム」概念の差分について確認をしながら、それがいったいどういう意味なのかを示していきたい。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第17回 二次的フレームの形成【毎月第2木曜配信】

    2017-07-13 07:00  
    540pt


    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、ゲーム好きが一度はハマる「やりこみ」、この本来の遊びの範疇を逸脱する奇妙な欲望を手掛かりに、「フレームからの逸脱」と「一時的現実に対する複数の合理性」という2つのゲーム的形式を論じます。


    3-4-4.二次的フレームの形成
     前々回、気ままにポケモンを遊んでいるこどもに強制でポケモンを遊ばせたところ、ポケモンに飽きてしまったという話を紹介したが、その逆のような話をしたい。
     何かのゲームにハマりまくった結果、誰にも強制されていないはずなのに、苦行のようなゲームプレイをしてしまったということはないだろうか。ある程度、一つのゲームをずっと遊んでいると普通のゲームプレイではあきたらなくなってくるということは、ゲームが好きな人であれば多くの人が体験として知っていることだろう。
     こういったゲームをやりこむという行為で有名なものの一つに、かつてファミ通で実施されていた企画である「やりこみ大賞」というものがあった。とてつもなく暇人でなければ達成できないのではないか、という驚異的で変態的なゲームの遊び方がしばしば投稿された。とりわけ、多くの人に衝撃を与えたやりこみに『ロマンシングサ・ガ3』(ロマサガ3)の「セレクトボタンを押さずにクリア」というものがあった。『ロマンシングサ・ガ3』では、セレクトボタンはいわゆるメニューボタンであり、これを押せないということは(1)ノーセーブクリア、(2)初期装備のままクリア(3)陣形・キャラ配置・技の入換え不可(4)ステータス確認不可ということを意味している。
     これは同じゲームをある程度やりこんだ人にとっては大きな衝撃を生んだようで、あらたな「やりこみ」を導いた。次の引用は、ファミ通のやりこみ大賞を見て、自分でもやりこみをはじめたという人が書いたテキストだ。[1]

    当時中学生だった私は「セレクトボタンを押さずにクリア」を始めてみたとき、感動に身を震えさせました。
    想像を絶する内容のやりこみが大賞に選ばれて「これ以上のやりこみはもう生まれないだろうなあ」と素直に思いました。
    まだまだ小さな視野でしかロマサガ3を触れなかった私には別次元の存在を見せ付けられた心境でした。
    無理とか不可能とかいうレベルではなく、賛美するしかないような威圧感のあるやりこみ。
    それが私にとっての「セレクトボタンを押さずにクリア」です。
    それから8年の歳月の間このやりこみの影を追うようにロマサガ3と付き合っていました。
    ロマサガ3のやりこみの見るたびに必ず「セレクトボタンを押さずにクリア」をものさしにしている自分が居ました。
    それは"崇拝"という言葉がもっとも近い表現でしょう。
    しかし自分がロマサガ3のやりこみ人としてネットで活動し始めてから、徐々にその信仰は薄らいでいきます。
    自身の達成したやりこみも「セレクトボタンを押さずにクリア」をものさしにして自虐していることに気づいたとき、ひどい嫌悪感に陥りました。
    崇拝なんて奇麗事ではなく、自身が達成できない領域にあるものに対して嫉妬していただけだったのではないか。
    その事実に気づいたとき、無性に悔しくなり、決心します。
    私も「セレクトボタンを押さずにクリア」を達成しよう
    いつまでも影を追いたくなんかない。
    自分のやりこみに自信を持てない人間なんかやりこみなんて語ることすらおこがましい。
    過去の自分に決別する意味でもやらなければならないと感じました。
    こうして2004年1月のある日、私は1年ぶりにロマサガ3とSFCを押入れから取り出したのです。
    それから数ヶ月の間は空いた時間に少しずつロマサガ3のデータを集めながらテストプレイを行う日々が始まりました。
    最初は不可能だと思っていた「セレクトボタンを押さずにクリア」も徐々にその形を現してきました。
    8年前に容赦なくたたきつけられたハードルがようやく私にもしっかりと見え始めてきたのです。
    そして4月のある日、一つの攻略ルートを叩き出しました。
    この攻略ルートこそ私が三ヶ月の歳月をかけて完成させた「セレクトボタンを押さずにクリア」です。
    あとはその攻略ルートをベースにテストプレイやリハーサルプレイを重ねついに5月7日に「セレクトボタンを押さずにクリア」を達成しました。

     ゲームをやりこむということは多くの人が経験しがちな体験であるが、この人固有の『ロマンシングサ・ガ3』への情熱は他人とは異なる特殊なものである。この特殊で、強い情熱は「気ままに遊ぶ」というありかただとは言い難い。
     筆者にとっても『ロマンシングサ・ガ3』は合計で一五〇時間以上は遊んだ記憶があるが、おそらく筆者が把握しているゲームと、この人にとって見えているそれは半分以上違うゲームだ。
     実際に、この人が引用部のあとに詳細に述べている『ロマンシングサ・ガ3』の攻略についての話は、筆者が記憶しているそれとはだいぶ違っている。正直なところ、何を言っているのか、細かいところはよくわからない。先に挙げた基準でいえば「意味的独立の共有可能性」を満たしているといえるのかどうかが怪しい。この人が使っているゲーム内の攻略を指し示す用語も体感レベルではよくわからないし、楽しみどころも、苦しみどころも、体験を共有しているとは言い難い。
     もちろん、それは同じ『ロマンシングサ・ガ3』であっても、「セレクトボタンを押さずにクリア」を押さずにクリアをしているという新たなルールを課したことで、ルール上も別のゲームに変質してしまっているから、ということができる。しかし、ここまで激しいやりこみにならなくとも、この一歩手前、二歩手前ぐらいのレベルまである特定のゲームをやりこむとこれに近い状況がでてくることはある。これといって特殊なルールの縛りをつけると決めたわけでなくとも、その人固有のこだわりのようなものがボンヤリとかたちをとってきて、同じゲームを遊んでいるはずが、少しずつ違った体験を構成しているということはよくある。
     たとえば、筆者の友人のS氏にとっては『スーパーマリオブラザーズ』は「いかに手際よく無限1UPをするか」というところがゲームの醍醐味だという。おそらくそういった形で遊んでいる人はほかにもいるのだろうが、筆者はそういう遊び方はしていなかったので、S氏の話す『スーパーマリオブラザーズ』の話は同じゲームの話をしているとは思えないときがあった。

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