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記事 29件
  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第26回 ゲームにとって快楽とは何か――「快楽」説の検討(学習説の他説との整合性⑥)

    2018-07-17 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ゲームを構成する様々な要素は、快楽の観点からゲームそのものと区別することはできるのか。これまで議論してきた強化学習プロセスをさらに拡張し、社会の中で自己生成し続ける運動の原理としてのゲームのあり方を考えます。
    3.8 ゲームにとって快楽とは何か――「快楽」説の検討(学習説の他説との整合性⑥)
    3.8.1 インタラクティヴな快楽のすべて
    「ゲーム」にとって「快楽」とは何だろうか。この二つの関係を整理しよう。
     コンピュータ・ゲームや、麻雀、将棋、野球といったルールやゴールやインタラクションを備えた仕組みが「快楽」を誘発する場合、多くの人はそれを「ゲームを遊んでいる」状況とみなす。もっとも、「快楽」と結びつかないようなゲーム的な行為もあるが、その点についてはすでに論じた【1】 ので、ここではゲームが快楽と結びついているケースについて検討したい。
    「ゲーム的な形式が、快楽を誘発する」という意味では、試行錯誤を重ねていきながらゲームを遊ぶような学習的プロセスも、パチンコ的な反復的な依存状態も、傍からみれば似たようなプロセスかもしれない。しかし、両者の快楽には隔たりがある。
     前者は、次第に変容していく新しい状況に対して認識を組み替えていくプロセスである。それは人間の創造的な営為でもある。
     一方、依存的なプロセスの場合、新奇性のないものについて「忘却」と「過去の刺激の想起」によって強化学習プロセスが機能することを、どうにか生き延びさせている。
     すなわち、学習的なプロセスは「変化を繰り返すプロセス」であり、依存的なプロセスは変化が繰り返された結果、「同一の行為の反復」に至りつつあるものとして整理できる。 【2】
     試行錯誤の快楽と、慣れ親しんだものを繰り返す快楽とでは、その快楽の性質にも違いがあるだろう【3】 。
     繰り返しになるが、ここで確認しておきたいのは、どちらも「ゲーム的な形式が、快楽を誘発する」という意味では等価でありながら、そこであらわれる快楽の性質が異なっているということだ。
     この「快楽」の性質はどこまでのバリエーションが「ゲーム」に類するものとして認められるのだろうか?
     すでに何度か述べてきたが【4】 、「ゲーム」概念の幅を広くとろうとする場合にはたとえば、「インタラクティヴ」な行為であるかどうかというところに境界線を引かれれることがある【5】 。
     そしてインタラクティヴであることによって線引きをする場合、ほぼセットになるのは、単にインタラクティヴというのみならず、何らかの「快楽」がそのインタラクティヴィティによって成立しているのだという観察だ。
     快楽の経験をつくりだすためではない辞書ソフトや、ワープロソフトはたとえインタラクティヴであっても、それがゲームの一種としてみなされることは極めて少ない【6】 。インタラクティヴであって、快楽を伴わないものは、ほとんどゲームとみなされることはない。
     逆に言えば、「快楽」が伴うインタラクティヴな行為であれば、それはゲームとしてみなされうる【7】 。こうした広い定義の採用は、論者がいい加減なのではなく、論じたい対象の幅を広くとりたいケースにおいてしばしば見られる。
     しかし、Juulが「Classic Game model」について同心円状の図を描いてみせたように、すべての快楽が等しく「ゲーム特有」の経験として受け入れられているわけではない。
     たとえば、ゲームのなかで華麗な映像がカットシーンとして流れた時、映像の素晴らしさを認めたとしても、その映像によってもたらされた快楽を「ゲーム特有」の経験によってもたらされた快楽とは認めないはずだ。
     美しい映像がもたらす快楽、ヒキのあるシナリオがもたらす快楽、あるいはゲームのなかに登場する性的な表現による快楽……それらはいずれも、コンピュータ・ゲームのパッケージを介して発生しうる快楽だ。しかし、そうした快楽はゲームに特有の快楽とはしばしば認められず、ゲームに特有の経験ではないものとして拒否される。一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけて、こうした快楽のどこまでが「ゲーム」たりうるか、ということは何度も議論になってきた。【8】
     美しいカットシーンがゲームではないとか、シナリオ自体はゲームではないという批判は一見すると、わかりやすい。実際問題としては、それらはしばしばゲームとは別のメディアによって表現することも可能だ。実際に、『シェンムー』(一九九九)などは、ゲーム内のカットシーンを集めたものを『シェンムー・ザ・ムービー』(二〇〇一)という映画として公開している【9】 。映像の美しさや、ゲーム内音楽、ゲームシナリオの全てゲーム特有の経験とされてしまうのならば、絵画も音楽も小説もなんだって「ゲーム」との区別がつかなくなってしまう。
     しかし、美しい映像を万華鏡のように操作したり【10】 、音を奏でることとゲームプレイが密接に結びついていたり【11】 、プレイヤーの行動に応じて物語が変化したり【12】 するものはゲーム特有の経験と連続したものとしてみなされる。
     これは、コンピュータ・ゲームに慣れ親しんできた人であれば、そこで論じられていることを実感としては理解しうるだろう。
     ただし、こうした議論というは、ゲームのアーキテクチャによって引き起こされる快楽のうちのいくつかは、「ゲーム特有」のものではないとされ、いくつかのものは「ゲーム特有」のものと連続しているとみなす議論だ。
     いったん話を整理しよう。
     今、問うているのは「ゲーム」と「快楽」の関係だ。
     第一に、広範な対象をゲームとして取り扱おうとする場合には、「快楽を伴うインタラクティヴな仕組み」全般が「ゲーム」としてみなされる。これはアリかナシか、で言えば、アリだ。これが操作的定義として自覚的に用いられるのならば、何の問題もない。
     そして、第二にここまで長々と論じてきたように、狭義の定義を用いるのならば、そこには学習説的な説明がかなり有効である。Juulの「Classic Game Model」による狭義のゲーム概念と広義のゲーム概念をグラデーション状に位置づける議論も、学習説的な説明とかなり近いものだ。駆け引きの快楽や、物語の生成プロセスや、依存的な経験は、強化学習プロセスと連続したものとして位置づけることができる。これらは、全く同じものとは言えないが、確かに強化学習プロセスとの間の連続性を見出すことができるものだ。
     ごく短くまとめるならば、「コンピュータ・ゲームのようなパッケージには様々な快楽を詰め込める。そして、そのなかでも強化学習プロセスの快楽は他の快楽のハブとなりうるような特権的な快楽である」ということだ。
     そこまではいい。
    3.8.2 快楽経験の変換
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第25回 ゲームは依存の仕組みなのだろうか?(学習説の他説との整合性⑤)【毎月第2木曜配信】

    2018-06-14 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ゲームとは切り離すことのできない問題として語られることの多い「依存」。今回は精神医学的な観点からだけではなく、学習プロセスとの関係性から依存メカニズムの検討を行います。
    3.7 ゲームは依存の仕組みなのだろうか?(学習説の他説との整合性⑤)
    3.7.1 同一のものの反復
     我々は、好きなときにゲームをやめることができる。好きなときにはじめられるように。
     それは、ゲームを遊ぶ我々が手にしている、基本的な自由だ。それは、とても重要な自由だ。
     やめることが自由にならないゲーム的な経験もある。たとえば、ブラック企業で課せられる成果主義のレース。学校の体育祭。人間関係や、社会的制度が絡み合ったものは気楽にやめることはできない。やめるという自由を失ったこうした経験は、負のストレスがかかりすぎたときにその調整ができなくなる。これは不幸なことだ。
     やめられないゲームの経験にはもう一つの形態がある。
     それは「依存」とか「障害」と呼ばれるものだ。
     ゲームに関わる依存では、ギャンブル依存、オンラインゲーム依存など、いくつかの深刻な依存が知られている。ゲームの「依存」が存在するという見方については、様々な批判があるが、ゲームの「依存」として操作的に定義された症例が一定数存在することは、否定しがたい【1】。 
     これらの依存症患者は、必ずしも社会制度的にゲームをやめられないわけではない。重度の依存症患者は、自らの理性の力でゲームをやめるという自由を失っている。
     実録漫画『ど根性ガエルの娘』【2】の冒頭では、ギャンブル依存と思しき漫画家(『ど根性ガエル』の作者である吉沢やすみ)の父親が登場する。娘がパチンコ屋の中から父親を探しだし、どうにかしてパチンコを打っている父親をパチンコ台から引き剥がし、漫画の〆切を守るように言う。しかし、父親はパチンコを無理やり止めさせられたことに激怒し、ゴミ箱を投げつけて罵倒する。父親はそうして、娘の必死の説得にも関わらず、原稿を落とす。
     この父がギャンブルをする理由は、社会的に強制されたものではない。こうした形で、強制されているわけでもなく、ゲームをやめるとことから自由ではなくなっている人がいる。
     今回扱うのは、学習と「依存」【3】の関係だ。
     なお、本稿執筆時点(二〇一八年五月)で、国内でもゲームへの依存についての議論がなされている。ただし、本稿の主眼は、精神医学的な「依存」基準の妥当性を問うものではない。精神医学的な「依存」概念についても論じているが、本稿で扱おうとしている「依存」概念に関わる論点とは少し異なる。
     依存というものは、ゲームそのものではないが、物語や、均衡概念と比べても、強化学習のあり方自体にかなり近いものだといえる。本稿が問題にするのは、学習プロセスと依存メカニズムの関係性だ。
     物語との関係性では「反復」を扱い、駆け引きとの関係性では「安定」を扱ったが、依存概念はその双方にまたがっている。
     すなわち、「反復」して、「安定的に同一の報酬を求める」プロセスが依存である。
     この定義だけを用いるのならば、社会的に問題になりにくい依存的なケースもある。たとえば、同じ掃除を毎日のようにしているのが嬉しいという、掃除マニアのような人は、多少ゆきすぎた掃除好きでも「潔癖症」として片付けられる程度のことも多い。アルコールや薬物の依存と比べれば、問題になりにくいと言える【4】。
     学習プロセスと依存の関係の問題は根深い。
     神経生理学的な説明としては、そもそも「依存」とは任意の刺激に対する強化学習の結果として考えられている【5】。つまり、学習プロセスの行き着く先に「依存」がある。
     一方で、精神医学的な「依存」の判断基準では依存は強化学習の問題だけではなく、もっと社会的な側面を含んでいる。それは、社会との間に問題を抱えなければ、病気として処理される必要はないからでもある。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第24回 駆け引き(学習説の他説との整合性④-2)【毎月第2木曜配信】

    2018-05-17 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回のテーマもゲームに欠かせない「駆け引き」です。ルールの更新や不平等の不可視化によって「公平性」を感じさせ、自発的学習を促そうとするそれぞれのゲームの戦略について井上さんが解説します。
    24回 駆け引き(学習説の他説との整合性④-2)
    複数の均衡
     前回、ゲームにおける学習的な自己変容プロセスと、均衡点を目指して行動を最適化していくプロセスの違いについて整理したうえで、両者は協同しうる時期と、背反してしまう時期がありうると述べた。「安定に向かって変化する性質」と、「変化しつづける性質」の相性は、仲の良かったカップルが別れてしまうようなものだ。両者は、結婚して家族にもなれるかもしれないが、離婚することが宿命づけられている。そして、次は、このカップルが別れた後の話に移ろうと書いた。  ただ、均衡やトレードオフの問題について書いた前回の話について、いただいた反応を見たところ、いくつかの補足をしておくべきだろうというお叱りをいただいたので、もう少し込み入った解説をしておきたい。  とくに詳しく論じるべきなのは「均衡が複数ありうる」という点だ。前回「均衡点が移行」という表現をさらっと書いたが、これは、そもそも「均衡点が複数ありうる」「均衡点が推移しうる」というの理解を前提としている。  均衡点が複数ありうる、とはどういうことだろうか。これは、ゲームのプレイヤーが、最適戦略に至るまでの行動がランダムだという意味ではない。  囚人のジレンマゲームの例を思い出そう。
    ・もし両方の犯罪者が自白しなかった場合、二人とも懲役一年。 ・二人ともに自白したら懲役四年。 ・一人だけ自白した場合、自白した犯罪者の懲役が二年、自白しなかった側の犯罪者が懲役一〇年になる。
     という設定で、多くの場合、二人共自白をすることが、最適な均衡だと理解している人が多いと思う。  だが、その理解には、注釈を加える必要がある。  第一に、よく言及される「オウム返し(Tit-for-tat)戦略」が強い戦略だという話だ。政治学者のロバート・アクセルロッド[1]が世界中の研究者に呼びかけて、囚人のジレンマ状況における強いコンピュータ・プログラムを決めるトーナメントを開催し、そこで優秀な成績を収めたのがこの戦略だ。  はじめに黙秘を選び、以後は前回相手が選んだ戦略を模倣するのがオウム返し戦略である。[2] 囚人のジレンマゲームのような個人としての合理的な行動と、集団全体の利益の最大化に齟齬が生まれるような社会的ジレンマ状況 [3]において、オウム返し戦略のような協力行動には協力で、裏切りには裏切りで応えるという互恵的戦略が、ジレンマ解消の手段として有効だというように理解される事が多い。  しかし、残念ながら、オウム返し戦略は、現在では十分に安定的[4]戦略ではないと言われている。オウム返し戦略を潰すための「おとり」戦略を混入させると、オウム返し戦略は優秀な成績を収められないという。すなわち、オウム返し的な互恵的戦略は、限定された条件下において強い戦略であるということだ。[5]  第二に、いろいろと条件をつければ強い戦略たりうる、という意味では、二人がともに協力し、黙秘を貫くという行動も有効な戦略たりうる。何度もゲームを繰り返す場合で、かつゲームプレイヤーの計算コストに制約があり……といった様々な要件をつける [6] とこれが有効な解となる。  むろん、協力的な戦略は、条件によっては機能しない戦略になる。現実の例で言えば、たとえば「共有地の悲劇」というよく知られた話がある。これは一九世紀の産業革命前後のイギリスの農村で、うまく機能していた家畜放牧のための共有地の仕組みが、産業革命以後に機能しなくなってしまう話だ。これは産業革命を通じて共有地を利用する人々のインセンティヴ構造が変化したことによって、人々のふるまいのバランス(均衡点)が変わったことによって、もたらされている。ある条件下においては、共有地の仕組みは安定的な均衡点であっても、その均衡点を支えていた条件を固定しておくことができなければ、均衡点は変わってしまう。  簡単にまとめてしまえば、囚人のジレンマは、参加者の振る舞いのバリエーションに限定を付けたり、プレイヤーの計算能力に限定を付けたりすることによって、最適な解が変わってくるということだ。裏切ることも、協力することも、オウム返し的な互恵的戦略も、状況に応じて、それぞれ強い戦略たりうる。条件を限定することによって均衡点も変わるのである。  ゲーム理論家たちの研究によれば、[7]我々の人類社会は、裏切り/協力/オウム返し戦略のそれぞれの戦略を採用する人々が、一定の割合で混じるような形に発展してくるものだという。多くの社会では、複数の戦略が混合する形でバランスしている。  ゲーム理論的な「駆け引き」の問題のとの関わりで考えたいのは、こうした前提のゲームである。これは三目並べの例で論じたような、最適解をもつ二人ゼロ和完全情報有限確定ゲームとは、異なる「ゲーム」理解である。  三目並べや将棋においては、負けることのない最適解がある。しかし、この前提では、条件によって均衡点が推移し、異なる戦略を採用するプレイヤーが一定の割合で存在する。ここには、複数の均衡点があるだけだ。その都度ごとに相対的に有利な戦略は成立しても、常に負けることのない最適解があるわけではない。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第23回 駆け引き(学習説の他説との整合性④)【毎月第2木曜配信】

    2018-04-11 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は「ゲーム性」において欠かせない要素である「駆け引き」と学習プロセスの関係についてまとめます。
    3.6 駆け引き(学習説の他説との整合性④)(学習説の他説との整合性④)
    3.6.1 「駆け引き」とは何だろうか

    「第三ラウンドが始まった。ディーラーが再びディスカードし、四枚目のコミュニティカードを場に並べてオープンした。ターンと呼ばれる共有カードだ。印はでJ。
    思わず、どきりとした。
    これで、J、10、8、7が揃い、9が来ればストレートである。
    次に来るカードを、ウフコックは何かの手段で読んでいるのだろうか。もしそうではなく、ただ強引にコールし続けているのなら、いかにも素人くさい。それともそれを演じようとしているのだろうか。バロットには何もわからなかった。
    ブラインドベッターのカウボーイが三十ドルのベットをし、ドクターがコール。『レイズ、六十ドル』
    と手のひらに文字が浮かび、バロットは思わず何度も確認してしまった。
    《──三十ドルのコールに、レイズ六十ドルです》
    信じがたい思いで最高賭金の額を置いた。これで二百十ドルが手元から消えた。この調子だとスロットで稼いだ分が、あっという間に消えてなくなるのがわかって怖くなった。」

    これは、冲方丁『マルドゥック・スクランブル』で描かれたポーカーの一節だ。[1] ゲームを扱う物語描写において、その見せ場はしばしば、駆け引きを行う心理戦の描写であることが多い。
    筆者は昔、「ゲーム」の骨格をなす中心的な概念として論じられやすい「ゲーム性」という概念が、どのような文脈で、どのような言葉とともに用いられることが多いのか。これを雑誌『ゲーム批評』のバックナンバーをもとに調べたことがある。とくに言い換え表現として頻繁に使われていた表現は「駆け引き」という要素だった[2] 。当時は、結局この概念がなぜ頻繁に使われるのか、という点についてあまり細かな議論をすることができなかった。ただ、多くの人が中心的な要素だと位置づけるこの要素は、重要な論点のひとつであることは明らかだった。ときには『ゲーム』と題した本の中身がまるまる駆け引きについての議論であるというケースすらある。[3]
    今回は、この「駆け引き」という概念と学習プロセスの関係について述べたいと思う。まずは、駆け引きと、学習プロセスの関係を考えるうえで、押さえておくべく基本的な概念を整理するところからはじめよう。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』特別編 認知的作品 〈いま・ここ〉を切り取ることをめぐって・後編

    2018-03-08 08:30  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は特別編として、「早稲田文学増刊 U30」に掲載された井上明人さんの論考をお届けします。後編では「切り取られることのない〈いま・ここ〉」を提示し、異なる二つの「作品」の成立について考察します。 (初出:「早稲田文学増刊 U30」、早稲田文学会、2010年)
    作品観B:生成するもの切り取られることのない〈いま・ここ〉
     さて、この作品観だけでは、おそらく切り取ることのできないものがある。たとえば、Wikipediaやニコニコ動画のようなCGM(コンシューマー・ジェネレイテッド・メディア)、あるいはUCC(ユーザー・クリエイト・コンテンツ)という形式を考えるとき、その新奇性を発見することができる(注4)。
     CGMは、上記のような作品観とはそぐわない。CGMにおける作品では、見る主体/見られる客体という区分が融解している。読まれる文字/見られる映像の時間は停止していない。Wikipediaのそれぞれの項目は、常に書き換え可能なものとして存在している。常に、不確定なテキストであり続けている。
     もちろん、Wikipediaの任意の項目Xについて評価することは可能である。しかし、それは、項目Xを、語り手にとって手の届かない、過去のある時点のものとして固定させておくことによってはじめて可能になる。現在に限りなく近い項目Xについて語ることはできても、〈現在の項目X〉は語ることができない。それは永遠に、不確定のテキストであるだけでなく、項目Xについて語ろうとする語り手自体が、常に項目Xの書き手の一部として位置付けられる可能性を帯びるからだ。項目Xについて自分のブログで文句を言うのであれば、「それなら、あなたがWikipediaの項目自体を書き換えてしまえばいいではないか」と言われる可能性がつきまとう、ということだ。ここでは、見られる客体=作品という観念を成立させることは、遥かに困難になっている。Wikipediaの記述が馬鹿らしいと感じたならば、あなたはそのテキストを書き換えることができる。
     もっとも、Wikipediaの全体的な信頼性の問題や、Wikipediaというアーキテクチャの善し悪しについて語ることも確かにできるだろう。だが、それは、項目Xを過去のある時点に固定させるという概念操作と、同様のことである。全体的な信頼性や、アーキテクチャの全体という大きなものには、個々人は触れることができない。触れることができないもの=現在の自己の行為にとって関係のないものだから語ることが可能になるのである。
     Wikipediaでは、読み手が、当該対象項目について、一定の知識を持っているということが、読み手と書き手を融解させるシステムとして機能している。ニコニコ動画の場合は、作品を見る主体になる、ということと、作品の内部において語り手となる=読まれる客体となる、という二つのことがさらにシームレスに繫がっている。読み手と書き手が融解するための条件はほとんど、何も無いに等しい。ただ「すげー」「おわっ」「びびった」という何の衒いもない感想を書き記すことで、すぐさま、書き手として機能することができる。そこでは、ほとんど全ての観客が、同時に書き手となる。
     さらに、USTREAMというCGMサービスについて考えてみよう。USTREAMは、ユーザーが自由にリアルタイムの映像をライブ中継できるサービスである。ここでは、ニコニコ動画や、Wikipediaとも違い、一時的な記録がなされていることすら必要ではない。その上、テレビの生中継などとは決定的に異なり、数十人ぐらいの少ない視聴者のいる状況下でのライブ中継が多い。そして、視聴者のほとんどが、ライブ中継を見ているその横で、チャットでコメントを入れていくことができる。一対一のテレビ電話とは異なり、一対多の構造ではあるが、発信者/発信内容と、その受け手は渾然一体とした状況にある。
     さて、では、このようなCGMコンテンツとは、いかなる意味において「作品」なのか。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』特別編 認知的作品 〈いま・ここ〉を切り取ることをめぐって・前編

    2018-02-20 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は特別編として、「早稲田文学増刊 U30」に掲載された井上明人さんの論考をお届けします。ゲームが「作品である」とき、それはどのような事態か。その問いに答えるべく、前編では「切り取られた〈いま・ここ〉」について論じます。 (初出:「早稲田文学増刊 U30」、早稲田文学会、2010年)
    コンピュータ・ゲームのようなメディアが「作品である」というとき、それはどのような事態だろうか。
    コンピュータ・ゲームというメディアは、コントローラーを手にして直接に遊ばなければ作品として楽しむことができない、とふつう考えられている。
    しかし実は、直接手にしなくともゲームが楽しまれる経路は存在する。例えば、ニコニコ動画における「ゲームプレイ実況」と呼ばれる一群の動画が、最近大きな支持を得た。いまや、国内で一四〇〇万アカウントを抱える動画サービス、ニコニコ動画の中でも非常に人気のある動画ジャンルの一つとなっている。
    「ゲームプレイ実況」の動画とは、その名の通りゲームプレイヤーがゲームを遊びつつ、ゲームの展開について実況を交えて解説したり、驚きの声をあげたりする声が吹き込まれている動画だ。『スーパーマリオブラザーズ』シリーズなど、よく知られたゲームについては、概ねこうした実況の動画が存在している。動画の閲覧者は、自分自身がゲームを遊ぶわけでもないのに、二時間も三時間も食い入るように、どこかの誰かがゲームをしている風景を眺める。彼らはみな自らの手でゲームを遊ぶわけではない。ゲームというメディアを「遊ぶ」ことだけに焦点化して考えようとするとき、この事態は説明ができない。
    ゲームとは、百人が遊べば、百様のプロセスが生じる。そこには、無数の展開が生まれ、『スーパーマリオブラザーズ』(以下、『マリオ』)や『テトリス』といった「作品」はそれらの展開を媒介するようなものとして機能しているだけだとも言える。プレイ実況の動画は、ゲームを遊ぶプロセスを一つの物語として見せている。実況動画という形で成立した、ゲームを介した物語を紡ぐ動画を一つの「作品」として数えるとき、ゲームというメディアは、それ自体も「作品」でありながら、それを媒介とした無限の「作品」を可能にするものだ。将棋というゲームがほとんど無限に近いプロセスを持つものだと語る人は多い。将棋は宇宙であるという人もいる。ゲームが無限をたずさえるメディアなのであるとすれば、無限の在り様について語ることは容易ではない。『マリオ』が生み出す一つのプロセスを経験することから、帰納的に『マリオ』のことを語ることはできても、未だ見たことのない『マリオ』の物語は無限に存在する。
    さらには、どこかの誰かが勝手に『マリオ』のプログラムを改造した『改造マリオ』も大人気の動画の一つだ。この動画で遊ばれているマリオは、もはや任天堂がリリースした『マリオ』そのものではない。多くの部分で『マリオ』の要素を借りてはいるが任天堂の『マリオ』には存在しないマップ、存在しない効果音などが様々に埋め込まれている。しかし、これは確かに『マリオ』として楽しまれている動画だ。これが『マリオ』であると認識するとき、『マリオ』であるとは一体どういうことを指しているのだろうか?
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第22回リアル異世界物語と、ゲーム的想像力:九井諒子、橙乃ままれ、なろう小説 後編<番外編>【毎月第2木曜配信】

    2018-01-11 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。これまでゲームについて語ってきた井上さんが、番外編としてゲームに強く影響を受けている近年の小説について、ジャンル別に分類/分析します。
    (2)現代知識チート:現代知識を用いることで最強になる話。
    「そろそろ転生しそうな予感がしている人必読。異世界に持っていきたいこれらの知識」という売り文句で、今年の春に『現代知識チートマニュアル』(山北篤、新紀元社)という本が発刊された。
    ▲『現代知識チートマニュアル』(山北篤、新紀元社)
    ファンタジー異世界に転生してしまった人が参照するためのマニュアル本という体で作られており、原始的な火薬の製法から蒸気機関の作り方まで書かれた分厚い内容である。
    筆者は、リリースされてすぐに「そう!これだよ!こういう本が読みたかった!」(というか、むしろこういう内容を自分で書きたかった!)と感じ、貪るように読み、たいへん勉強になった。
    もちろん、異世界に転生する予定はないのだが、なぜこんな一人ウィキペディアのような本が面白く思えるのか。それは、「現代知識チート」作品群を読みまくっているからに他ならない。
    橙乃ままれが2ちゃんねるに掲載した『魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」』(通称『まおゆう』)のヒットあたりから、なんちゃって中世ファンタジー世界に行って現代知識を駆使して、活躍するというフォーマットの物語が、鬼のように出てきた。これらの作品のなかでは軍オタ的な知識はもちろんのこと経済学、政治学、農学、化学、物理学など多彩な知識が動員されて、中世ファンタジー世界に革命を起こしていく。ある意味で、ナイーヴな開発経済学の夢みたいな小説群ともいえるのだが、割り切って読むことができれば技術科学史教養のための学習漫画の一種のようなものだという気分で、楽しく読める。こういう作品を大量に読んでいた人々にとっては、古代から現代における重要なイノベーションをなるべくコンパクトにまとめた『現代知識チートマニュアル』のような本は「そうそう、こういうまとめが欲しかったんだよね」という内容になっている。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第22回リアル異世界物語と、ゲーム的想像力:九井諒子、橙乃ままれ、なろう小説 前編<番外編>

    2017-12-13 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。これまでゲームについて語ってきた井上さんが、番外編としてゲームに強く影響を受けている近年の小説について、ジャンル別に分類/分析します。
    学習論における物語とゲームの話が終わったところで、小休止をはさみたい。というか、はさませてほしい。
    そういうわけで(?)、今回は唐突だが番外編として、「異世界転生もの」とか「なろう小説」と呼ばれるあたりの作品について一度まとめて語っておきたい。
    今までの話と何の関係があるのかと戸惑う読者もおられるだろうが、ただ、小休止的な回なので、そこらへんは今回、ちょっとゆるいのだが、関係はある。最近のこの手の物語というのが、ほとんどが「ゲーム」っぽい世界設定(ないし、ゲームそのもの)をベースにしているからだ。10年前であれば、ノベルゲームに見られる一群の特殊なリアリティ水準を指して東浩紀が「ゲーム的リアリズム」と呼んだものが、現在ではノベルゲームではなく、「小説家になろう」に投稿される異世界転生もののなかで展開されているからである。そして、この領域において卓越した作品が、この10年ぐらいの間に数多く登場している。
    筆者が対象としたいのは厳密には異世界転生そのものを扱った物語というよりは、橙乃ままれ作品や九井諒子作品などを含めた異世界のリアリティ水準を問うものだ。なので「異世界転生もの」「なろう小説」というより少し対象を広げて、勝手に「リアル異世界物語」とこれらの物語群のことを名付けたい。その基準は次のとおりである。
    i.異世界について描いた物語であり、かつ ii.我々の現代世界において起こりうる問題が異世界においてどのように生じうるか、を中心的なテーマとして扱った作品群を扱いたい。
    ただ、これだけだと『銀河英雄伝説』などの少し古い作品も入ってきてしまうので、とくにここ10年ぐらいで登場した作品群の特徴として
    iii.勇者や魔王のいる世界を前提として描いているもの
    という三つの前提を挙げたい。
    今回は、これらの基準を満たしたここ10年ぐらいに登場した重要な作品だと筆者が考えるものを紹介していく、という内容にしたい。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第21回:ゲームから物語へ(2)【毎月第2木曜配信】

    2017-11-09 10:00  
    540pt

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。前回に引き続き、テーマは「ゲーム/物語」の区分です。今回はブルーナーの裁判についての議論と比較しながら、「物語の階層性」という概念を通じて、ゲームと物語の関係を解き明かします。
    ■第21回:ゲームから物語へ(2)
    3.5.7. 解釈システムの階層性
    物語化の階層性
     心理学者のブルーナーは、物語を生成させるプロセスの一つとして裁判における物語生成に着目している[1]。  裁判においては、被告と原告のあいだに異なる物語があり、双方の物語をたたかわせる。複数の物語間の衝突があり、その衝突は裁判官が正統な物語を決定することによって収束するという手順をもっている。  そして、複数の物語が、調整されるプロセスにおいて、法廷では「過去」の先例への一致が基準とされる。法大全や六法全書に掲載されている判例集との整合性をチェックし、先例との対応を考えていくことでいかにも順当な物語が選び取られる[2]。  以上のブルーナーの指摘は、ゲームと物語の関係を考えるうえでも示唆に富んでいる。「裁判」の仕組みは社会的なプロセスだが、裁判のような複数の物語がたたかわされ、調整されるプロセスというものを、一個人の認知のはたらきの過程として相似形で考えてみることにしよう。  我々は、日々数多くの「物語になりうるもの」と出会いながら生きている。 我々の日々の経験のうちのいくつかは印象深いものとして記憶され自伝的な記憶となり、いくつかの要素はそのようなものとしては記憶されない。はじめて恋人ができた日の記憶や、親族の死の記憶などは多くの人にとって記憶に残る類のものだろうが、今日の昼食が今後の人生の記憶に残るかどうかといえばよほど美味しいものにでも出会ったりしない限りはなかなか記憶に残りつづけることはないだろう。  ゲームを遊ぶなかで出会うほとんどのことは、繰り返しつづける要素の一部だ。今日の昼食とか、昨日のトイレの記憶に近い。何度も繰り返しているゲームのなかで、敵がどのような戦略を採ったか、自分がそのとき何をしたかということはそこまで詳細な記憶はないだろう。たとえ、FPSのような銃撃戦のオンライン対戦ゲームのなかで敵キャラクターを殺害していようが、味方キャラクターが殺されていようが、こまかな記憶を保持しておくのは難しい。『ジョジョの奇妙な冒険』に主人公が宿敵ディオに対して、いままで何人を殺してきたのか?という問いを発し、それに対しディオが「おまえは今まで食ったパンの枚数をおぼえているのか?」と答えるという有名なシーンがあるが、ゲームの行為というのは、まさにこのような側面がある。  しかし、プロのゲームプレイヤーたちの日常というのはそうではない。  ある朝起きたら、昨日の自分のゲームプレイの結果がニュースとして報道されるということがありうる。裁判においては、裁判官によって複数の物語のうちの一つが正統な物語として選び出されることになるが、プロのゲームプレイヤーたちの日々はジャーナリストや観客たちによって任意のシーンが重要な物語として語られることになる。たとえば、高名なチェスプレイヤーのカスパロフであれば一九九七年五月に行われたIBMのAI(ディープブルー)との対戦が「歴史的事件」として報道された[3]。  彼らの日常、彼らの試合のすべてが特別な物語、意味のある物語とみなされるわけではない。  無数のゲームを戦うなかで、任意の瞬間が、特別な「物語」として選び取られることになる。
    ▲物語化のプロセスの階層性■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。
     
  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第20回 ゲームから物語へ(1)【毎月第2木曜配信】

    2017-10-12 07:00  
    540pt

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。多くの人にとっては「ゲーム」は終わりを迎えるものです。しかし、羽生善治氏や梅原大吾氏などのゲームを生業とするプロプレイヤーは異なる感覚を持っているようです。「ゲーム/物語」の区分から、井上さんが概念の整理を試みます。
    ■第20回:ゲームから物語へ(1)
    3-5-6.ゲームであり、物語である
    *続くもの、繰り返すもの  たとえば、『スーパーマリオブラザーズ』を遊ぶとき、我々はゲーム機を立ち上げて一通り遊んだらゲーム機の電源を切る。そうすれば、ゲームの世界はそこで一端終わってしまう。多くのアナログゲームの経験も似たようなものだ。親戚の子供と一緒に正月に『ババ抜き』を遊ぶとき、数ゲームほど遊んだら『ババ抜き』というゲームはそれでいったんおしまいだ。半年後まで親戚の子どもが、そのババ抜きの結果について考え続け、その続きを挑んでくるということは、ほとんどないといっていいだろう。このようなとき、ゲームとは「終わり」を明確に持つものだ。 しかし、そうではないケースもある。「ゲーム」が日常のなかに埋め込んで生きている人々もいる。プロ棋士、プロボクサー、プロゲーマーなどと呼ばれる人々がそれにあたる。ゲームプレイというのは彼/彼女らの日常のなかにがっちりと組み込まれ、それは一回ごとのゲームを終えても、ある意味では続いているものだ。 たとえば、羽生善治はゲームというものについて一般人とは異なる視点をもっている。羽生本人のテクストから引用しよう[1]。

     私はよく、タイトル戦などの重要な対局で、相手の得意な戦型で戦うことがあります。それはその人の得意な戦型を打ち破って優位に立とうということよりも、どんなに研究しても、最後は実戦でその戦型のスペシャリストの人と対戦しないことには、その戦型が本当の意味で自分の身につかないと思っているからなのです。 基本的な部分は、棋譜を見たり本を読んだり、練習将棋をすることである程度は把握できますが、そこからもう一歩前進しようと思ったら、その形のスペシャリストと実戦で実際に指してみるのが最も効果的だと思います。 相手の土俵で戦うことになるわけですから、確かにそのときの勝負の面においては損をする部分もありますが、長い目で見ればそれほど損ではないのではないかと私は思っています。 仮にその一局は負けたとしても、その形を着実にマスターできたならば、自分にとってかなり大きなプラスになります。だから長期的な視野に立てば、それは間違ったやり方ではないと思うのです。 しかも、タイトル戦であれば特に持ち時間が長いので、それまでまったく理解できていなかった形でも、時間を使いながら何とか理解していくことができるのです。

     この羽生の発言は、我々のゲームプレイに対する一般的なイメージと比べるとかなり特殊だ。名人戦や、竜王戦、棋王戦といったタイトル戦は将棋マンガであれば、物語のヤマ場に置かれ「絶対負けられない戦い」として描写され、勝利にかける棋士同士の強烈な執念が描かれるような対象になるべきもののはずだ。 しかしあの羽生善治が、それは違うと書いている。そして、興味深いことに、これは羽生善治という人の特殊性を表しているかというとそういうことでもないということだ。「ゲーム」を生業とするプロフェッショナルで似たような発言をしている人物を探すことはそう難しくない。たとえば、日本のプロゲーマーとして最も有名な梅原大吾も似たようなことを書いている。
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