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工芸品や茶のプロデュースを通して、日本の伝統的な文化や技術を現代にアップデートする取り組みをしている丸若裕俊さんの連載『ボーダレス&タイムレスーー日本的なものたちの手触りについて』。今回は、丸若さんが茶師の松尾俊一さんとともに作る茶と、タイムレスという概念を象徴する日本茶の可能性について話し合いました。(構成 高橋ミレイ)

茶には五感を刺激するパワーがある

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宇野
 丸若さんは現在、茶畑からのものづくり、つまり茶のプロデュースに注力されていますが、どのようなきっかけで茶に関心を持たれたのでしょうか?

丸若 もともと本質的なものを伝えたいということがあったんです。前回お話したように、工芸が日常を日本文化でハックする手段として、ある程度適しているのは間違いありません。僕はそれを、表層的なものに留めず、たとえ難しくても文化の本質を探求したいという気持ちで形にしてきました。実はそういう意味で茶は、僕の伝えたいものをより細かく伝え、隅々まで行き渡らせて共有するツールになりうると感じています。しかも最終的には茶を飲むツールを通して工芸の存在も肯定することにつながり、同時に工芸の魅力を最大化することで、茶の価値もそれに準じてアップグレードできるという相乗効果も生みます。

宇野 これまでやってきた工芸のアップデートの延長線上に、茶を見つけたということですね。それも、より適した回路として。

丸若 自動販売機やカフェだけでなく、オフィスや自宅でも飲む場面が多い茶は、世の中にタッチポイントが無数にあることが、工芸との大きな差です。茶の可能性は本当に高いと感じています。工芸はやっぱり質が良くなればなるほどタッチポイントがすごく少ないんですよ。オンラインで売っていくことも大変難しい。個体差もあるし。手触りとか重みのような触覚も情報として重要なので。

宇野 なるほど、工芸よりも茶のほうが現代の都市生活によりたくさんの場面から深く浸透することができる、と考えたわけですね。たしかに茶はちょっと特殊な文化ですよね。食事とも全然違う、我々の働き方や余暇の形、都市文化といったものに密接に結びついている、とても身近で、そしてソーシャルなものだと思うんですよ。

丸若 茶は再現性をきっちり担保してあげればそれ自体がすごく雄弁に語ってくれるし、一人歩きしてくれるものだと思うんです。特に日本人は味に対しては全世界の中でもうるさい民族だと思うんですよ。そこらへんのお兄ちゃんが美味しい、不味いと言っているわけじゃないですか。海外なんて行ったら、基本的に不味いわけで、そこをいちいち論じないと思うんですよ。

だから、美味しい、不味いといった話からはじめられたらいいなと考えたんです。茶は本来は飲んでいて単純に美味しいと言いやすい。けれど、その「美味しい」「不味い」を通じて、僕の中で工芸を通じては伝えきれなかったところまで伝えられるフォーマットとして、茶というものはスゴく優れているなと感じているんです。

多くの場合、工芸というかプロダクトの良さを共有するには前提となる知識や経験則が必要ですが、茶はそういった前提を共有していなくとも、味覚を通して受け取れるので共有しやすいんですよね。

宇野 丸若さんは必然的に「茶」に出会ったのかもしれないですね。

丸若 そして、茶も工芸も同じ悩みがあります。どちらも同じようにおかしい状態になっている。工芸が、雑貨になる、あるいはアートになることで本質を見失っているように、茶はペットボトルで飲まれることが主流になり過ぎた為、茶の本質的な楽しみから離れてしまいがちです。

宇野 だからこそ、丸若さんが工芸にしたように茶もその本質を継承するためにこそアップデートされるべきだ、ということですね。

丸若 あとは僕自身、茶を手がけることで気持ちが前向きになった面も大きいんです。工芸は売れるものを作ろうと努力するほど、廃棄物を生み出してしまうというジレンマがあります。工芸の人たちの一部は残念ながら「自然を愛している」と言う一方で、廃棄物を作っているんですよ。特に焼き物はタチが悪くて、一度焼いてしまったら、今の技術では絶対に土に還せません。1000〜2000年経てば小さくはなるけど、自然には戻らない。人間の手によって作られたキティちゃんのマグカップが1000年後も残るんですよ。

宇野 もともと焼き物は大量生産するものではなく、壊れたものを補填しながら使っていくことによって、二次創作的な深みを与えていく文化だったはずですよね。ところが現代は物を作る技術が高度になりすぎているので、物を作っているうちは工芸が本来的に持っている精神を貫徹できないという、身も蓋もない壁にぶち当たるわけですよね。変な話だけど、壊れない、欠けないお茶碗はもうその時点で「工芸」の本質を失っている。

そうなるともうハードをつくるのは諦めて、工芸の精神をどう活かすか、つまりソフトのほうの継承を考えるしかない。そんな中、工芸の内包していた精神をより直接的に今日の形に発展させることができるジャンルとして、茶と出会ったんですね。

丸若 そんなことを考えていたときに同世代の茶師の松尾俊一と出会ったっていうのが自分の転機なんです。 だから工芸をやめたってわけじゃなくって。 工芸の精度を上げたかった。 焼き物が大量生産のモデルになってしまうと、産業としては僕が関われる余白は小さいんです。職人の一家や数人の工房で作り続ける分にはいいけれど、無理に僕やその周りの人たちを養える経済規模にするためには、どうしても大量に廃棄物を生み出すしかなくなります。

でも、茶はちゃんとしたものを作れば作るほど、物質的にも経済的にも良い循環が生まれてサステイナブルになっていきます。そういうこともあって、茶に出会ったとき、めちゃくちゃ興奮したんです。

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▲茶師・松尾俊一さん

宇野 茶はハードでもあり、ソフトでもある。モノでもありコトでもある。そこが面白いですね。

丸若 そうです。茶は、飲むことで自分たちのコンセプトを体内に取り入れてもらうことも魅力でした。まさにインストールって感じがしますよね。さらに、茶には中毒性もあって、それも原点回帰の要素の一つです。なぜ仏教と共に茶が輸入されてきたのかと言えば、五感のすべてを中毒にする作用があるからだと思ってます。初期の仏教は音を非常に大事にしているんですね。念仏には脳の状態を良好にする効果があると言われていますが、それと共に、味覚を刺激するものとして茶が選ばれた。それくらいパワーがあるものだと思います。僕は松尾と一緒に、一年近く茶を開発して、いろんな人に茶を飲んでもらったんですが、その時の反応から、茶が人を惹きつける力は半端じゃないなと思ったんです。

「茶が好き」というのは、あえて人に言うほどのことでもないんですが、そういう人は実はたくさんいると思うんです。でも、会話の中で「コーヒーが好きなんだよね」 と言うとポジティブな印象になりますが、「茶が好きなんだよね」と言うと「こいつ、めんどくせっ」と取られかねないイメージが世の中にある気がします。その一因は茶の一部で起きたことにあると思うんですよ。本来なら日本文化の最高峰だったはずの茶が、一部の形骸化された所作によって、閉鎖的なものになってしまった。その一例が、茶の淹れ方がアップデートされてこなかったことだと思います。急須は400年くらい前からあって、当時は最先端で便利なものだったかもしれないけれど、いまだに当時の形から多様化してないんですよね。草鞋だってスニーカーに置き換わっているにもかかわらず。

宇野 たしかに急須はかなりしっかり洗わないとすぐ詰まってしまうので、現代人が使うには不便なんですよね。

丸若 よく考えてみると変なんですよね。お湯を沸かすのはポットを使う。だけれど急須だけはほぼそのまま。時々茶がアップデートされた姿を見かけますが、それらの多くは便利さを追求するためのものなんです。他にもティーバッグも手抜きなイメージが強く、良いイメージがない。だけど、僕はティーバッグってすごく可能性があると気付いています。だからうちのティーバックは茶の美味しさが一番出るようにと、めちゃくちゃ作り直していて、本来のアップデートとはそうあるべきだと思っています。これが自然の行為だと思うし、今の当たり前が本質的でないことというのは良くあることなんです。


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