本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。吉本隆明の『ハイ・イメージ論』で提出された「世界視線」と「普遍視線」の概念は、情報技術の発達により前者が後者に飲み込まれ、共同体に最適化された自己幻想によって、ヘイトスピーチや陰謀論が跋扈します。それはボトムアップから生まれる単一的な共同幻想への依存という、新しい病理の現れでした。(初出:『小説トリッパー』 2018 夏号 2018年 6/25 号 )
0 ハイ・イメージ化する情報社会
『ハイ・イメージ論』の冒頭は「映像の終りから」と題された小文からはじまる。「映像の終り」という問題設定は、今日においては同書が執筆された八〇年代とはまったく異なる意味を持って私たちの前に浮上する。吉本の同文に登場する「映像の終り」とは(当時の)コンピューターグラフィックスの与えるイメージから、新しい情報環境の出現を予感しているに過ぎない。しかし、二一世紀の今日において二〇世紀的な「映像」は本当に終わろうとしている。いや、既に「終わって」いる。映像とは二〇世紀の社会を形成した原動力だ。文字メディアよりも、聴覚メディアよりも人々に負担なく、駆動的にメッセージを伝達する表現手法、それが一九世紀末に発明された「映像」だった。この発明は同時期に発達した放送技術と同調することで、二〇世紀の社会の大規模化を支えたものだった。
自動車と映像は一九世紀の末にヨーロッパで生まれ、二〇世紀前半にアメリカの広大な大地とそこに住む多民族をつなぐために、ばらばらのものたちをつなぐために発展したものだ。ただし自動車が内燃機関で動く一トン前後の鋼鉄の塊という強大かつ危険な力を個人が所有し、場合によっては制御するという個人のエンパワーメントによって「ばらばらのもの」をつないでいたのに対し、映像は不特定多数の人々が同じものを見ることによってそれを実現するものだった。前者が自己幻想の水準でのアプローチだったとするのなら、後者のそれは共同幻想を水準としたものだったと言えるだろう。したがってその「映像」の終わりとは、共同幻想の社会におけるかたちの変化に他ならない。具体的には私たちはいま、「映像の世紀」から「ネットワークの世紀」への変貌期を生きている。現代という時代はトップダウン的な映像から、ボトムアップ的なネットワークへ、共同幻想の発生メカニズムの形態を変化させつつある、その途上なのだ。
ここでは、この観点から「映像の終り」という問題提起からはじまる吉本の『ハイ・イメージ論』を読み直してみよう。
『ハイ・イメージ論』の中心的な概念として登場するのが「世界視線」と「普遍視線」だ。世界視線とは、この世界の全体像を俯瞰して捉える神の視点だ。対して普遍視線とは私たちがこの生活空間の中で世界を捉える等身大の視点のことだ。前者は共同幻想の視線であり、そして後者は対幻想、自己幻想の視線であると言い換えることもできるだろうし、前者を「政治」、後者を「文学」の視線と言い換えることもできるだろう。そして前者を「公」の、後者を「私」の視線と言い換えることもできる。そして吉本は現代の(当時の)情報環境の進化はこの両者の関係を決定的に変化させていると指摘する。
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