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記事 25件
  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第五回 吉本隆明とハイ・イメージのゆくえ(4)【金曜日配信】

    2018-09-14 07:00  
    540pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。戦後中流的な核家族による〈対幻想〉は共同幻想に飲み込まれ、糸井重里的な「モノへの回帰」による〈自己幻想〉の更新も無効化される、「自立」の思想はいかにして可能か。吉本隆明が重視しなかった〈兄弟/姉妹的な対幻想〉にその端緒を探ります。(初出:『小説トリッパー』 2018 夏号 2018年 6/25 号 )
    3  共同幻想からハイ・イメージへ
     戦後社会を支えた「大衆の原像」――戦後中流的な核家族――というかたちでの対幻想への立脚も、そしてそんな戦後社会の黄昏に出現した消費社会下における「モノ」の消費を用いた自己幻想強化も、今日において情報技術に支援されて拡大するボトムアップの共同幻想の前には無力だ。  では、どうするのか。ここでは予告したようにその手がかりを吉本隆明自身が遺した思考に求めていきたい。  糸井重里による「モノ」への回帰は、吉本隆明が、いや戦後日本が思想的に乗り上げた暗礁からの、吉本隆明的なものの批判的継承によって試みられた脱出法の模索だったといえる。  このときの糸井のアプローチは(かつての吉本がコムデギャルソンに身を包んで雑誌に登場したときのように)自己幻想の水準で行われている。  では、同様の批判的継承を対幻想の次元で行うことは可能だろうか。 『共同幻想論』にはふたつの対幻想が登場する。ひとつは夫婦や親子といった核家族的な対幻想であり、時間的な永続と結びついている。もうひとつは兄弟姉妹的な対幻想で、これらは空間的な永続と結びついている。つまり前者は閉ざされた関係性をつくり、子を再生産することで時間的な永続をその幻想の中核にもつ。対して近親姦の禁忌によって開かれた関係性を構築する後者は、子を再生産しないために時間的永続の幻想を持ち得ないが、代わりに空間的な永続を保持する。  そして吉本は同書で、本来「逆立」するはずの後者の対幻想が共同幻想と結びつくメカニズムを――私たちが国家を擬似家族的な共同体として捉えたがってしまうメカニズムを――解き明かしている。吉本によれば古代社会における国家とは、後者の兄弟姉妹的な対幻想が、共同幻想に転化することで氏族社会が拡大したものだ。この時期の吉本の思想的、政治的な実践において、夫婦/親子的な核家族的な対幻想が二〇世紀最大の共同幻想である国家への抵抗の拠点として選択されるのはそのためだ。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第五回 吉本隆明とハイ・イメージのゆくえ(3)【金曜日配信】

    2018-09-07 07:00  
    540pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。情報社会化の進行にともなう人々の共同幻想への依存、その処方箋のひとつに糸井重里の「ほぼ日」があります。「モノからコトへ」の時代に、あえてモノに回帰することで自立を促す。糸井が提案する洗練されたスタイルの意味と射程について考えます。(初出:『小説トリッパー』 2018 夏号 2018年 6/25 号 )
    2  モノからコトへ、そしてもう一度モノへ?
     ではどうするのか。  ここではこの問題を少し違った角度から検討してみよう。  今日における吉本隆明の紹介者として糸井重里の仕事を、とりわけ「ほぼ日刊イトイ新聞」を補助線的に参照したい。  糸井重里にとっての「ほぼ日刊イトイ新聞」(一九九八年開設、以下「ほぼ日」)は言ってみればまだ人々がモノの消費で自己を表現していた時代の黄昏に、インターネットという新しいメディアというかたちで出現したコトの消費の先駆けだった。そのメッセージは一言で言えば「現代の消費社会に対してはこれくらいの距離感と進入角度で接すると自分も気持ちよく、他人にも優しくできる」というものだ。インターネット上の文章という、無料の、それもインターネットに接続されたパソコンさえあればいつでも、どこでもアクセスできる文章を日常の中に置く。当時糸井が提示したインターネットとは、個人が自分でちょうどよい進入角度と距離感を調節できるメディアだった。天才コピーライターの糸井がこの自らのメディアに与えた「ゴキゲンを創造する、中くらいのメディア」とは、要するに消費社会に対する気持ちのいい進入角度とほどよい距離感とを提案するメディア、という意味だと思えばよいだろう。それは言い換えればモノ(消費社会)とうまく距離を取るためのコト(情報社会=インターネット)ということでもある。初期の「ほぼ日」は、この時期のインターネットのウェブサイトの大半がそうであったように「読みもの」主体の「テキストサイト」だった。まさに「ほぼ毎日」更新されるコラムや対談記事は、そのテキストの指示する内容よりも、「語り口」をもってして世界との距離感を表明していた。それは吉本的に述べれば、明らかに「指示表出」よりも「自己表出」に力点が置かれたメディアだった。  しかし今日の、上場後の「ほぼ日」は違う。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第五回 吉本隆明とハイ・イメージのゆくえ(2)【金曜日配信】

    2018-08-24 07:00  
    540pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。吉本隆明は『共同幻想論』で、かの有名なテーゼ「共同幻想は自己幻想に逆立する」を提示しますが、高度化した情報技術は両者の結託と同一化を促します。逆立するはずの自己幻想と対幻想が巧妙に共同幻想に囚われてゆく、戦後日本の欺瞞的な社会構造を暴き出します(初出:『小説トリッパー』 2018 夏号 2018年 6/25 号 )
     ナチズムの記憶がまだ新しく、スターリニズムの脅威がまだ現実のものだった『共同幻想論』の執筆当時の吉本の戦略は、共同幻想からの自己幻想の自立を維持するために、対幻想に立脚することだった、とひとまずはまとめることができるだろう。
     しかし今日において共同幻想は自己幻想を飲み込み、埋没させるものではない。むしろ自己幻想の側が自ら共鳴し、他の自己幻想と同一化し、共同幻想と化す。私たちは自らそう欲望して、共同幻想に同一化する。これまでもそうであったのかもしれない。しかし情報技術の支援がそれをより簡易に、強力にしたことは明らかだ。私たちはソーシャルメディアのアカウントを使い分けることで――分人的アイデンティティのもとに――よりためらいなく、よりリスクなく共同幻想に同化するのだ。
     今日において情報環境的に自己幻想は共同幻想に対する「逆立」の度合いを低下させている、いや、むしろ同化の度合いを高めている。これに対する処方箋はふたつある。それはかつて吉本が主張したように、あくまで自己幻想の、そして対幻想の逆立を保持することでこれから自立すること。もうひとつは共同幻想の発生メカニズムの変化(インターネット的分散化)を逆手に取って、いや正当に用いて私たちがこれに埋没し、思考停止しづらい主体を獲得すること、言い換えればインターネット以降、自然発生的に定着した分人的なアイデンティティを、「信じたいものだけを見る」ための方便ではなく、多様性の確保のために用いることだ。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第五回 吉本隆明とハイ・イメージのゆくえ(1)【金曜日配信】

    2018-08-10 07:00  
    540pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。吉本隆明の『ハイ・イメージ論』で提出された「世界視線」と「普遍視線」の概念は、情報技術の発達により前者が後者に飲み込まれ、共同体に最適化された自己幻想によって、ヘイトスピーチや陰謀論が跋扈します。それはボトムアップから生まれる単一的な共同幻想への依存という、新しい病理の現れでした。(初出:『小説トリッパー』 2018 夏号 2018年 6/25 号 )
    0  ハイ・イメージ化する情報社会
    『ハイ・イメージ論』の冒頭は「映像の終りから」と題された小文からはじまる。「映像の終り」という問題設定は、今日においては同書が執筆された八〇年代とはまったく異なる意味を持って私たちの前に浮上する。吉本の同文に登場する「映像の終り」とは(当時の)コンピューターグラフィックスの与えるイメージから、新しい情報環境の出現を予感しているに過ぎない。しかし、二一世紀の今日において二〇世紀的な「映像」は本当に終わろうとしている。いや、既に「終わって」いる。映像とは二〇世紀の社会を形成した原動力だ。文字メディアよりも、聴覚メディアよりも人々に負担なく、駆動的にメッセージを伝達する表現手法、それが一九世紀末に発明された「映像」だった。この発明は同時期に発達した放送技術と同調することで、二〇世紀の社会の大規模化を支えたものだった。  自動車と映像は一九世紀の末にヨーロッパで生まれ、二〇世紀前半にアメリカの広大な大地とそこに住む多民族をつなぐために、ばらばらのものたちをつなぐために発展したものだ。ただし自動車が内燃機関で動く一トン前後の鋼鉄の塊という強大かつ危険な力を個人が所有し、場合によっては制御するという個人のエンパワーメントによって「ばらばらのもの」をつないでいたのに対し、映像は不特定多数の人々が同じものを見ることによってそれを実現するものだった。前者が自己幻想の水準でのアプローチだったとするのなら、後者のそれは共同幻想を水準としたものだったと言えるだろう。したがってその「映像」の終わりとは、共同幻想の社会におけるかたちの変化に他ならない。具体的には私たちはいま、「映像の世紀」から「ネットワークの世紀」への変貌期を生きている。現代という時代はトップダウン的な映像から、ボトムアップ的なネットワークへ、共同幻想の発生メカニズムの形態を変化させつつある、その途上なのだ。  ここでは、この観点から「映像の終り」という問題提起からはじまる吉本の『ハイ・イメージ論』を読み直してみよう。 『ハイ・イメージ論』の中心的な概念として登場するのが「世界視線」と「普遍視線」だ。世界視線とは、この世界の全体像を俯瞰して捉える神の視点だ。対して普遍視線とは私たちがこの生活空間の中で世界を捉える等身大の視点のことだ。前者は共同幻想の視線であり、そして後者は対幻想、自己幻想の視線であると言い換えることもできるだろうし、前者を「政治」、後者を「文学」の視線と言い換えることもできるだろう。そして前者を「公」の、後者を「私」の視線と言い換えることもできる。そして吉本は現代の(当時の)情報環境の進化はこの両者の関係を決定的に変化させていると指摘する。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第四回 吉本隆明と母性の情報社会(4)【金曜日配信】

    2018-06-22 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。共同幻想と個人幻想の戦前的な短絡を乗り越えるため、対幻想の概念に立脚しながら戦後日本社会を肯定した吉本隆明。しかし、押し寄せるグローバリズムと情報化の波は、吉本の想像を超えた形で、ポピュリズムの暴走へと繋がっていきます。(初出:『小説トリッパー』 2018 春号 2018年 3/25 号 )
     八〇年代の吉本隆明をめぐる諸言説の半ば水掛け論的な混乱は、奇しくも今日のこの国の情報社会の混乱を予見するかのような相似を見せている。  今日のこの国の言論状況を見渡してみればよい。局所的には(当人の主観としては)啓蒙的な(しかし、実質的には陰謀論的な)左右の二〇世紀的なイデオロギーへの回帰があちらこちらで噴出し、そして彼らの一人相撲を嘲笑うかのように全体としては、「大衆の原像」に立脚したポピュリズムが蔓延している。  より具体的に述べるのなら、アカデミズム/ジャーナリズムのレベルでは左右の二〇世紀的なイデオロギー回帰が拡大し、あたかもかつての五五年体制下の保革の対立関係(を装った共犯関係)を再演している。  この共犯関係を下支えするのが、再三指摘するこの国の情報社会を覆い尽くしたソーシャルメディア(とりわけTwitter)上の「下からのポピュリズム」だ。週刊誌/ワイドショーに指定されたターゲットに対し、「正義」の側に立って石を投げる。「~ではない」という否定の言葉でつながり、自分たちは「まとも」な側にいると確認し、安心する。この国の言論空間はマスのレベルではこの「大衆の原像」に依拠した「下からの全体主義」と、専門家のレベルで演じられる左右の対立を装った共犯関係との住み分けが行われている。前者は国民的な大衆娯楽として実質を担当し、後者はその権威付けとして名目を担当する。そう、この国は戦後一貫して左右のみならず、上下のレベルでも棲み分けを――対立関係を装った共犯関係を――行って来たといえる。  左右の表面的な対立を装った実質的な共犯関係という「横の構造」と、この茶番を下支えする「縦の構造」――ジャーナリズム/アカデミズムの政治「ごっこ」と「大衆の原像」としてのメディアポピュリズムとの対立を装った共犯関係――戦後の進歩的な知識人を代表した丸山真男的なものと、「大衆の原像」に立脚して批判した吉本隆明的なものにこそ、もう一つの擬制(対立を装った共犯関係)が存在したのだ。そして、この二つの棲み分け、二つの共犯関係は今日においてもかたちを変えて反復されているのだ。
    4  ハイ・イメージのゆくえ
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第四回 吉本隆明と母性の情報社会(3)【金曜日配信】

    2018-06-08 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。前回に引き続き、吉本隆明『共同幻想論』の思想とそこに加えられた批判から、現在の情報化社会の陥ってしまった状況を整理します。 (初出:『小説トリッパー』 2018 春号 2018年 3/25 号 )
    3 吉本隆明と戦後消費社会の「隘路」
     吉本自身が『共同幻想論』における(国民国家的な)共同幻想からの「自立」という問題設定が過去のものになったと述懐するように、二〇世紀末の消費社会の進行と情報環境の変化は、かつて吉本が前提としていた状況を根底から覆していく。
     たとえば、上野千鶴子は六〇年代の状況を加味して『共同幻想論』を再解釈した上で、その「自立」の思想を近代的な核家族主義、さらには当時、上野が標的にしていた戦後日本の中流幻想を支えた「マイルドな家父長制」とも言うべき核家族中心主義に対し批判を加えている。
     上野は吉本の提示した三幻想の区分に高い評価を与え、その上で(二〇世紀的な現実を前に)自己幻想が対幻想を経由することで、共同幻想に対して強い抵抗力を得るとする吉本の主張を支持する。しかし、その一方で上野は、『共同幻想論』における自己幻想の対幻想を経由した共同幻想への(自立を前提とした)接続、という吉本の主張が、彼の述べる「大衆の原像」と実質的に結びついていることを問題視する。
     要するに、個人(自己幻想)はたとえば「この人のために生きる」(対幻想)を得ることで変容し、「天皇陛下/革命のために命を投げ出すべきだ」というイデオロギー(共同幻想)に取り込まれることはない。しかし、当時の日本において吉本が述べる「大衆の原像」として機能したのは、むしろ「妻子のため」に外で「七人の敵」と闘う、といった共同幻想の方だった。上野はこの吉本の理論と実践、文学と政治との間に発生した微細な、しかし決定的な差異に注目する。上野によれば、対幻想として機能するのは性愛関係であって、その延長線上に発生する家族は既に共同幻想を形成しているのだ。

    〈自己幻想とは、「それ以上分割できない」個人、つまり身体という境位に同一化した意識の謂にほかならない。しかし意識は、身体のレベルをこえて同一化の対象を拡張することができる。たとえば「妻子のため」に外で「七人の敵」と闘う男は、家族に自己同一化している。「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬ兵士は、自己同一化の対象をオクニのレベルにまで拡大している。(略)しかし対幻想は違う。他者は「わたくしのようなもの」という類推を拒み、しかも「もうひとりの私」として私と同じ資格を私に要求してくる。(略)対幻想の中では、自己幻想は構造的な変容をとげている。自己幻想から対幻想への過程は、したがって不可逆であり、こうやって一度構造変容した自己幻想は、共同幻想からのとりこみに強い抵抗力を示す。それは共同幻想とはべつのものになっているからである。人は、対幻想と共同幻想というべつべつの世界をふたつながら持つことができる。だが人は、両者間を往復するだけであって、ふたつを調和させているわけではない(3)〉

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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第四回 吉本隆明と母性の情報社会(2)【金曜日配信】

    2018-06-01 07:00  
    540pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。80年代の段階で、すでに共同幻想からグローバルな市場へと傾く時代の大きな変化を予見していたとも言える戦後最大の思想家・吉本隆明。前回に引き続き同氏の代表作『共同幻想論』を主軸に、その思想と情報化社会との接点を探ります。 (初出:『小説トリッパー』 2018 春号 2018年 3/25 号 )
    2 『共同幻想論』を再読する
     吉本隆明の代表作である『共同幻想論』が記されたのは一九六八年のことだった。同書の基本的なコンセプトは、第一に国民国家という制度が相対化し得るものであることを証明すること、つまり反国家論の立論だった。同書で吉本は「古事記」と「遠野物語」というふたつの古典のみを参照することで、古代社会における国家の成立のメカニズムを解き明かす。そこで語られるのは人間社会がその規模の拡大にしたがって国家を形成していくことの必然性だ。これが反国家論であることを、二一世紀の今日に理解するためには、六〇年代後半当時の同書が発表された社会背景への理解が必要だろう。
    「もし“民主制”になんらかの価値があるとすれば、それは崇めなくてもよいからだ」――吉本隆明のこの言葉は、今日において皮肉なかたちで批判力を発揮している。吉本隆明はここで民主制を共同幻想の肥大を制御し得る制度として消極的に支持を与えている。それは吉本の青春期を支配したかつての総力戦の記憶に起因するものだろう。無謀な戦争に国家を駆り立てた「下からの全体主義」と、それを成立させた共同幻想に対し、戦前の民主制は無力であった。あの決定的な敗戦の記憶から出発する吉本が、それを崇めることで――共同幻想となることで――はじめて成立する戦後民主主義とは、第一に戦後の日本人が手に入れた新しい天皇に過ぎず、そして第二にかつて天皇という空虚な中心を用いて駆動した「下からの全体主義」に抗う術を持たない脆弱な制度に過ぎなかった。
     前述したように当時吉本隆明が『共同幻想論』を執筆した動機には、近代天皇制批判としての側面が強い。吉本は戦中・戦後の文学者の転向問題から出発し、やがて六〇年代の学生反乱のイデオローグとして熱狂的な支持を受けることになるが、『共同幻想論』はその間に書かれたものだ。したがって吉本が同書を理論的な根拠とした「自立」の思想は、近代天皇制だけではなくマルクス主義や戦後民主主義といった当時支配的だった「進歩的」なイデオロギーをも射程に収めたものとして展開されていった。
     そしてこの「自立」の思想こそ、吉本隆明の思想の最も根底にあるものだ。
     しかし、今日においてこの吉本の掲げた国民国家の代表する共同幻想からの「自立」という主題は、やや古びていると言わざるを得ない。なぜならば今日においては国家という共同幻想は長期的には相対化されつつあるからだ。今日において私達の生は二〇世紀的なローカルな国家という共同幻想(物語)よりも、グローバルな市場(ゲーム)により強く規定されるようになりつつある。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第四回 吉本隆明と母性の情報社会(1)【金曜日配信】

    2018-05-18 07:00  
    540pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。今回からは、「戦後最大の思想家」吉本隆明の代表作「共同幻想論」と、FacebookやLINE、TwitterといったSNSに象徴される現在の情報化社会との接点を探ります。 (初出:『小説トリッパー』 2018 春号 2018年 3/25 号 )
    1  なぜいま「吉本隆明」か
     さて、連載二回分を費やした猪子寿之と彼の率いるチームラボの作品批評を通して、グローバル/情報社会下におけるボーダレス化のイメージについて考えてきた。猪子の試みは、ボーダレス化の二重の敗北――多文化主義(政治的アプローチ)とカリフォルニアン・イデオロギー(経済的アプローチ)――を経た上での文化的アプローチ(デジタルアート)だと位置づけることができる。では、ここで猪子が示した「境界のない世界」が私たちのこの世界に仮に現出するとしたらいかなるかたちを取るのだろうか。続く第四回ではその可能性について考えてみたい。
     ジョン・ハンケがゲームで、猪子寿之がアートで、それぞれ人類社会の来るべきビジョンとして提示する「境界のない世界」は、ある部分で決定的に異なっていながらも確実に根底にあるものを共有している。ここではハンケと猪子、二人の仕事とその問題意識を参照した上で、ある思想家の仕事を再読したい。そしてそうすることで、彼らの考える「境界のない世界」がいかに社会に実現し得るのか、し得ないのか、し得るとしたらその条件は何かについて検証することができる。私はそう考えている。なぜならばその人物は「結果的に」だが八〇年代の時点で、いや、捉え方によってはまだマルクス主義が健在だった六〇年代の時点で、既に今日の情報社会のかたちを予見し、そして不幸にもその行き詰まりをもその後の思想的展開で体現していたからだ。  吉本隆明――中心的な読者であった団塊世代が社会の表舞台から退場するとともに、今や忘れ去られようとしている「戦後最大の思想家」である。  七〇年代以降、吉本隆明は過去の思想家と位置づけられていたが、二一世紀の今日こそ再読されるべきである。それが本連載での私の立場だ。もちろん、本書は吉本隆明を聖典として崇める立場を取らない。むしろ批判的な立場からその継承を試みる。そもそも吉本の文章は読解不能な悪文で、論理構成も破綻しているものが多い。吉本の今日における読解には論理的で明快な「現代語訳」と、複数のテキストを組み合わせて理論的な記述不足を類推して補う作業が必要だろう。  だが吉本の欠陥や誤りを指摘することとその天才性に敬意を払うことは矛盾しない。あくまで重要なのは一九六〇年代にあたかも今日の情報社会を予見するようなテキストが書かれていたという事実であり、さらには一九八〇年代に吉本が展開した消費社会論(『ハイ・イメージ論』)の着想(とその行き詰まり)から、私たちは大きなものを持ち帰ることができるという事実だ。その圧倒的な天才性とそれゆえの決定的な誤りから私たちが学ぶべきものとは何か。今回はその再読の指針を示すことになるのだが、その前に私の考える吉本の天才性を卑近な例で示しておこう。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第三回 チームラボと「秩序なきピース」(後編)(2)【金曜日配信】

    2018-05-11 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。人間と人間、人間と事物、事物と事物の境界線を消失させようとしているチームラボ。その試みは、究極的には人類が直面している最後の境界線、時間的な境界の無化へとつながっていきます。 (初出:『小説トリッパー』 冬号 2017年 12/30 号)
     人間と人間、人間と事物、事物と事物の境界線の消失――これらが達成されたときに起こることは何か。それは私たちが媒介なく直接世界に触れることができる、ということだ。
     それは平面というものが本質的に人間にとって媒介的なものであるからだ。
     パースペクティブにせよ、超主観空間にせよ、それは空間を平面に置き換えることで、複雑で莫大な情報量を持つ世界を整理し、人間の(言語的な)理性に把握しやすく加工するための論理だ。私たちにとっては、それがどれほどインタラクティブな構造を持っていようとも、平面に整理されたものは一度抽象化され、整理され、言語的なものに接近したものにすぎないのだ。
     しかし前述の通り、猪子がデジタルアートを用いてこれら「境界」を突破することは、人間の身体的な(非言語的な)知を発動させることに等しい。そのためには私たちはまず、世界に媒介なく直接触れる必要がある。
     だからこそ、カラスはモニターの中から飛び立つ必要があったのだ。そしてその「離陸」は徐々に、そして慎重に進められたものだ。
     たとえば、〈カラス〉の発展形である〈追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして衝突して咲いていく- Light in Space〉は、この「離陸」までの試行錯誤の過程としてとらえられる。
     同作ではモニターの分割が採用されない代わりに、密室の中に投影された作品(映像)の側が移動し、鑑賞者たちの視点に徐々に合っていく。これによって、鑑賞者は自分を包み込む風景そのものが動いているような錯覚に陥る。もし、仮に鑑賞者が歩きまわったとしても、それに合わせて作品の側が変化し、鑑賞者は世界の側に追いつかれ、そして強い没入感を味わうことができる。ここにはもし仮に複数の鑑賞者がいた場合、彼らが一箇所に集まって鑑賞することではじめてこの強い没入感を共有できる(逆にバラバラに動いていると、作品の側が誰の視点に合わせていいか分からず、この機能は働かない)という、実に猪子らしい他者観に基づいた仕組みが備えられているのだが、ここではそれは本題ではない。映像そのものはオーソドックスなパースペクティブで描写されたアニメーションにすぎない本作は、この時期のチームラボが超主観空間による新しい平面の獲得から、そこで得られた世界そのものの実空間の演出へと離脱するための助走として位置づけられるだろう。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第三回 チームラボと「秩序なきピース」(後編)(1)【金曜日配信】

    2018-04-20 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。今回も引き続き、人間と事物との境界をアートで消失させようと試みるチームラボ代表・猪子寿之さん作品とその意義を分析します。徐々に平面から立体へと進化していくことにはどのような意味があるのでしょうか。 (初出:『小説トリッパー』 冬号 2017年 12/30 号)
    11 「棚田」としてのアート
     前回の復習からはじめよう。グローバル化への対応としての多文化主義と、情報化を牽引する思想としてのカリフォルニアン・イデオロギー――二〇世紀末の「政治」的アプローチと、二一世紀初頭の「経済」的アプローチ――がともにつまずきを見せたのが、ブレグジットとトランプが体現する世界的なアレルギー反応だった。これはグローバル/情報化に対するアレルギー反応としての国民国家への回帰、すなわち「境界のない世界」の進行に対しての「境界を引き直す」ことでのアレルギー反応であり、いま私たちが手にしている武器では立ち向かえないことを証明してしまったことを示す。
     こうした政治的/経済的敗北を超えて、文化的なアプローチでこの「境界のない世界」の進行を擁護すること――それが前回取り上げた猪子寿之率いるアーティスト集団チームラボの掲げる使命だ。猪子にとって、融解させるべき境界線は三つある。まず一つ目は人間と人間を隔てる境界線であり、二つ目は人間と事物、人間と世界との間の境界線だ。その情報技術をコンセプチュアルに応用した作品群は、人間の(非言語的な)身体性にアプローチして、これまでとは異なる方法で人間と世界とを接続する。あるいは、その応用で二〇世紀的な人文知が説く他者像を更新する。現在において他者とは、ときに理不尽で、不愉快で、理解不可能な対象であるがその苦痛を甘受して歓待せよ、と説かれるものであるが、猪子はその他者を情報技術とアートの介入によってむしろ(身体的な知のレベルで)心地よいものに変換させることを試みるのだ。
     猪子はこうした試みを棚田に喩える。

    〈それこそ、棚田の水田なんて、他者が一生懸命田んぼをつくってくれてるから、自分のところに水が来るわけじゃん。まあ、この棚田は例として分かりやすいだけで、基本的には社会が高度で複雑化するまでは、全てがそうだったはずなんだよ。隣人の行為のおかげで自分が存在することは、かつてはもっと見えやすかったはずだと思う。(1)〉

     つまりここで猪子は、近代という制度のもたらした「個」という概念が現代の息苦しい他者像を形成していると指摘しているのだ。棚田から都市へ移行する中で、彼らの作品は私たちが失ったものを部分的にでも回復するための機能を備えているとも言えるだろう。
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