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記事 20件
  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第四回 吉本隆明と母性の情報社会(3)【金曜日配信】

    2018-06-08 07:00  
    540pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。前回に引き続き、吉本隆明『共同幻想論』の思想とそこに加えられた批判から、現在の情報化社会の陥ってしまった状況を整理します。 (初出:『小説トリッパー』 2018 春号 2018年 3/25 号 )
    3 吉本隆明と戦後消費社会の「隘路」
     吉本自身が『共同幻想論』における(国民国家的な)共同幻想からの「自立」という問題設定が過去のものになったと述懐するように、二〇世紀末の消費社会の進行と情報環境の変化は、かつて吉本が前提としていた状況を根底から覆していく。
     たとえば、上野千鶴子は六〇年代の状況を加味して『共同幻想論』を再解釈した上で、その「自立」の思想を近代的な核家族主義、さらには当時、上野が標的にしていた戦後日本の中流幻想を支えた「マイルドな家父長制」とも言うべき核家族中心主義に対し批判を加えている。
     上野は吉本の提示した三幻想の区分に高い評価を与え、その上で(二〇世紀的な現実を前に)自己幻想が対幻想を経由することで、共同幻想に対して強い抵抗力を得るとする吉本の主張を支持する。しかし、その一方で上野は、『共同幻想論』における自己幻想の対幻想を経由した共同幻想への(自立を前提とした)接続、という吉本の主張が、彼の述べる「大衆の原像」と実質的に結びついていることを問題視する。
     要するに、個人(自己幻想)はたとえば「この人のために生きる」(対幻想)を得ることで変容し、「天皇陛下/革命のために命を投げ出すべきだ」というイデオロギー(共同幻想)に取り込まれることはない。しかし、当時の日本において吉本が述べる「大衆の原像」として機能したのは、むしろ「妻子のため」に外で「七人の敵」と闘う、といった共同幻想の方だった。上野はこの吉本の理論と実践、文学と政治との間に発生した微細な、しかし決定的な差異に注目する。上野によれば、対幻想として機能するのは性愛関係であって、その延長線上に発生する家族は既に共同幻想を形成しているのだ。

    〈自己幻想とは、「それ以上分割できない」個人、つまり身体という境位に同一化した意識の謂にほかならない。しかし意識は、身体のレベルをこえて同一化の対象を拡張することができる。たとえば「妻子のため」に外で「七人の敵」と闘う男は、家族に自己同一化している。「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬ兵士は、自己同一化の対象をオクニのレベルにまで拡大している。(略)しかし対幻想は違う。他者は「わたくしのようなもの」という類推を拒み、しかも「もうひとりの私」として私と同じ資格を私に要求してくる。(略)対幻想の中では、自己幻想は構造的な変容をとげている。自己幻想から対幻想への過程は、したがって不可逆であり、こうやって一度構造変容した自己幻想は、共同幻想からのとりこみに強い抵抗力を示す。それは共同幻想とはべつのものになっているからである。人は、対幻想と共同幻想というべつべつの世界をふたつながら持つことができる。だが人は、両者間を往復するだけであって、ふたつを調和させているわけではない(3)〉

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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第四回 吉本隆明と母性の情報社会(2)【金曜日配信】

    2018-06-01 07:00  
    540pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。80年代の段階で、すでに共同幻想からグローバルな市場へと傾く時代の大きな変化を予見していたとも言える戦後最大の思想家・吉本隆明。前回に引き続き同氏の代表作『共同幻想論』を主軸に、その思想と情報化社会との接点を探ります。 (初出:『小説トリッパー』 2018 春号 2018年 3/25 号 )
    2 『共同幻想論』を再読する
     吉本隆明の代表作である『共同幻想論』が記されたのは一九六八年のことだった。同書の基本的なコンセプトは、第一に国民国家という制度が相対化し得るものであることを証明すること、つまり反国家論の立論だった。同書で吉本は「古事記」と「遠野物語」というふたつの古典のみを参照することで、古代社会における国家の成立のメカニズムを解き明かす。そこで語られるのは人間社会がその規模の拡大にしたがって国家を形成していくことの必然性だ。これが反国家論であることを、二一世紀の今日に理解するためには、六〇年代後半当時の同書が発表された社会背景への理解が必要だろう。
    「もし“民主制”になんらかの価値があるとすれば、それは崇めなくてもよいからだ」――吉本隆明のこの言葉は、今日において皮肉なかたちで批判力を発揮している。吉本隆明はここで民主制を共同幻想の肥大を制御し得る制度として消極的に支持を与えている。それは吉本の青春期を支配したかつての総力戦の記憶に起因するものだろう。無謀な戦争に国家を駆り立てた「下からの全体主義」と、それを成立させた共同幻想に対し、戦前の民主制は無力であった。あの決定的な敗戦の記憶から出発する吉本が、それを崇めることで――共同幻想となることで――はじめて成立する戦後民主主義とは、第一に戦後の日本人が手に入れた新しい天皇に過ぎず、そして第二にかつて天皇という空虚な中心を用いて駆動した「下からの全体主義」に抗う術を持たない脆弱な制度に過ぎなかった。
     前述したように当時吉本隆明が『共同幻想論』を執筆した動機には、近代天皇制批判としての側面が強い。吉本は戦中・戦後の文学者の転向問題から出発し、やがて六〇年代の学生反乱のイデオローグとして熱狂的な支持を受けることになるが、『共同幻想論』はその間に書かれたものだ。したがって吉本が同書を理論的な根拠とした「自立」の思想は、近代天皇制だけではなくマルクス主義や戦後民主主義といった当時支配的だった「進歩的」なイデオロギーをも射程に収めたものとして展開されていった。
     そしてこの「自立」の思想こそ、吉本隆明の思想の最も根底にあるものだ。
     しかし、今日においてこの吉本の掲げた国民国家の代表する共同幻想からの「自立」という主題は、やや古びていると言わざるを得ない。なぜならば今日においては国家という共同幻想は長期的には相対化されつつあるからだ。今日において私達の生は二〇世紀的なローカルな国家という共同幻想(物語)よりも、グローバルな市場(ゲーム)により強く規定されるようになりつつある。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第四回 吉本隆明と母性の情報社会(1)【金曜日配信】

    2018-05-18 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。今回からは、「戦後最大の思想家」吉本隆明の代表作「共同幻想論」と、FacebookやLINE、TwitterといったSNSに象徴される現在の情報化社会との接点を探ります。 (初出:『小説トリッパー』 2018 春号 2018年 3/25 号 )
    1  なぜいま「吉本隆明」か
     さて、連載二回分を費やした猪子寿之と彼の率いるチームラボの作品批評を通して、グローバル/情報社会下におけるボーダレス化のイメージについて考えてきた。猪子の試みは、ボーダレス化の二重の敗北――多文化主義(政治的アプローチ)とカリフォルニアン・イデオロギー(経済的アプローチ)――を経た上での文化的アプローチ(デジタルアート)だと位置づけることができる。では、ここで猪子が示した「境界のない世界」が私たちのこの世界に仮に現出するとしたらいかなるかたちを取るのだろうか。続く第四回ではその可能性について考えてみたい。
     ジョン・ハンケがゲームで、猪子寿之がアートで、それぞれ人類社会の来るべきビジョンとして提示する「境界のない世界」は、ある部分で決定的に異なっていながらも確実に根底にあるものを共有している。ここではハンケと猪子、二人の仕事とその問題意識を参照した上で、ある思想家の仕事を再読したい。そしてそうすることで、彼らの考える「境界のない世界」がいかに社会に実現し得るのか、し得ないのか、し得るとしたらその条件は何かについて検証することができる。私はそう考えている。なぜならばその人物は「結果的に」だが八〇年代の時点で、いや、捉え方によってはまだマルクス主義が健在だった六〇年代の時点で、既に今日の情報社会のかたちを予見し、そして不幸にもその行き詰まりをもその後の思想的展開で体現していたからだ。  吉本隆明――中心的な読者であった団塊世代が社会の表舞台から退場するとともに、今や忘れ去られようとしている「戦後最大の思想家」である。  七〇年代以降、吉本隆明は過去の思想家と位置づけられていたが、二一世紀の今日こそ再読されるべきである。それが本連載での私の立場だ。もちろん、本書は吉本隆明を聖典として崇める立場を取らない。むしろ批判的な立場からその継承を試みる。そもそも吉本の文章は読解不能な悪文で、論理構成も破綻しているものが多い。吉本の今日における読解には論理的で明快な「現代語訳」と、複数のテキストを組み合わせて理論的な記述不足を類推して補う作業が必要だろう。  だが吉本の欠陥や誤りを指摘することとその天才性に敬意を払うことは矛盾しない。あくまで重要なのは一九六〇年代にあたかも今日の情報社会を予見するようなテキストが書かれていたという事実であり、さらには一九八〇年代に吉本が展開した消費社会論(『ハイ・イメージ論』)の着想(とその行き詰まり)から、私たちは大きなものを持ち帰ることができるという事実だ。その圧倒的な天才性とそれゆえの決定的な誤りから私たちが学ぶべきものとは何か。今回はその再読の指針を示すことになるのだが、その前に私の考える吉本の天才性を卑近な例で示しておこう。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第三回 チームラボと「秩序なきピース」(後編)(2)【金曜日配信】

    2018-05-11 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。人間と人間、人間と事物、事物と事物の境界線を消失させようとしているチームラボ。その試みは、究極的には人類が直面している最後の境界線、時間的な境界の無化へとつながっていきます。 (初出:『小説トリッパー』 冬号 2017年 12/30 号)
     人間と人間、人間と事物、事物と事物の境界線の消失――これらが達成されたときに起こることは何か。それは私たちが媒介なく直接世界に触れることができる、ということだ。
     それは平面というものが本質的に人間にとって媒介的なものであるからだ。
     パースペクティブにせよ、超主観空間にせよ、それは空間を平面に置き換えることで、複雑で莫大な情報量を持つ世界を整理し、人間の(言語的な)理性に把握しやすく加工するための論理だ。私たちにとっては、それがどれほどインタラクティブな構造を持っていようとも、平面に整理されたものは一度抽象化され、整理され、言語的なものに接近したものにすぎないのだ。
     しかし前述の通り、猪子がデジタルアートを用いてこれら「境界」を突破することは、人間の身体的な(非言語的な)知を発動させることに等しい。そのためには私たちはまず、世界に媒介なく直接触れる必要がある。
     だからこそ、カラスはモニターの中から飛び立つ必要があったのだ。そしてその「離陸」は徐々に、そして慎重に進められたものだ。
     たとえば、〈カラス〉の発展形である〈追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして衝突して咲いていく- Light in Space〉は、この「離陸」までの試行錯誤の過程としてとらえられる。
     同作ではモニターの分割が採用されない代わりに、密室の中に投影された作品(映像)の側が移動し、鑑賞者たちの視点に徐々に合っていく。これによって、鑑賞者は自分を包み込む風景そのものが動いているような錯覚に陥る。もし、仮に鑑賞者が歩きまわったとしても、それに合わせて作品の側が変化し、鑑賞者は世界の側に追いつかれ、そして強い没入感を味わうことができる。ここにはもし仮に複数の鑑賞者がいた場合、彼らが一箇所に集まって鑑賞することではじめてこの強い没入感を共有できる(逆にバラバラに動いていると、作品の側が誰の視点に合わせていいか分からず、この機能は働かない)という、実に猪子らしい他者観に基づいた仕組みが備えられているのだが、ここではそれは本題ではない。映像そのものはオーソドックスなパースペクティブで描写されたアニメーションにすぎない本作は、この時期のチームラボが超主観空間による新しい平面の獲得から、そこで得られた世界そのものの実空間の演出へと離脱するための助走として位置づけられるだろう。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第三回 チームラボと「秩序なきピース」(後編)(1)【金曜日配信】

    2018-04-20 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。今回も引き続き、人間と事物との境界をアートで消失させようと試みるチームラボ代表・猪子寿之さん作品とその意義を分析します。徐々に平面から立体へと進化していくことにはどのような意味があるのでしょうか。 (初出:『小説トリッパー』 冬号 2017年 12/30 号)
    11 「棚田」としてのアート
     前回の復習からはじめよう。グローバル化への対応としての多文化主義と、情報化を牽引する思想としてのカリフォルニアン・イデオロギー――二〇世紀末の「政治」的アプローチと、二一世紀初頭の「経済」的アプローチ――がともにつまずきを見せたのが、ブレグジットとトランプが体現する世界的なアレルギー反応だった。これはグローバル/情報化に対するアレルギー反応としての国民国家への回帰、すなわち「境界のない世界」の進行に対しての「境界を引き直す」ことでのアレルギー反応であり、いま私たちが手にしている武器では立ち向かえないことを証明してしまったことを示す。
     こうした政治的/経済的敗北を超えて、文化的なアプローチでこの「境界のない世界」の進行を擁護すること――それが前回取り上げた猪子寿之率いるアーティスト集団チームラボの掲げる使命だ。猪子にとって、融解させるべき境界線は三つある。まず一つ目は人間と人間を隔てる境界線であり、二つ目は人間と事物、人間と世界との間の境界線だ。その情報技術をコンセプチュアルに応用した作品群は、人間の(非言語的な)身体性にアプローチして、これまでとは異なる方法で人間と世界とを接続する。あるいは、その応用で二〇世紀的な人文知が説く他者像を更新する。現在において他者とは、ときに理不尽で、不愉快で、理解不可能な対象であるがその苦痛を甘受して歓待せよ、と説かれるものであるが、猪子はその他者を情報技術とアートの介入によってむしろ(身体的な知のレベルで)心地よいものに変換させることを試みるのだ。
     猪子はこうした試みを棚田に喩える。

    〈それこそ、棚田の水田なんて、他者が一生懸命田んぼをつくってくれてるから、自分のところに水が来るわけじゃん。まあ、この棚田は例として分かりやすいだけで、基本的には社会が高度で複雑化するまでは、全てがそうだったはずなんだよ。隣人の行為のおかげで自分が存在することは、かつてはもっと見えやすかったはずだと思う。(1)〉

     つまりここで猪子は、近代という制度のもたらした「個」という概念が現代の息苦しい他者像を形成していると指摘しているのだ。棚田から都市へ移行する中で、彼らの作品は私たちが失ったものを部分的にでも回復するための機能を備えているとも言えるだろう。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第二回 チームラボと「秩序なきピース」(前編)(9)【金曜日配信】

    2018-01-12 07:00  
    540pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。従来イメージされている「知性」とは異なる「身体的な知」へのアプローチを試みる猪子寿之さん率いるチームラボの作品群。「世界」と「人」の境界を無化しようとする猪子さんの取り組みを宇野常寛が解説します。(初出:『小説トリッパー』 秋号 2017年 9/30 号)
    9 身体的な知をめぐって
     ハンケのそれが人間の意識に、理性に、言語化された知性にアプローチするものなら、猪子のそれは無意識に、感性に、非言語的な知性にアプローチする。たとえば猪子が故郷である徳島に対して行ったアプローチは、川と森から生まれた地誌に対してのものであり、徳島という城下町の文字化された歴史に対してのものではない。
     この差異は猪子の考える「人間」観に由来している。

    〈言葉の領域とか論理的な領域というのは、知的領域の中で最も低水準なものにもかかわらず、みんなそれを最も高度だと言い、それ以外のことを低俗だと扱っている事自体がまったくおかしいと思う。
     たとえば、人間がつまずいて転びかけた時に、何かものがあればつかんで転ばないようにするし、受け身もとる。それって、すごい量の情報を人間は過去の経験とか含めて処理していて、コンピューターには全然真似ができない。知的レベルははるかに高度だと思うけど。〉(14)

     人間のもっとも高度な知性は非言語領域にこそ存在し、情報技術の発展の意義は非言語的な領域の知性にアプローチし得ることにこそ意義があると、猪子は考えるのだ。
     この非言語的な知性を「身体的な知」と呼ぶ。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第二回 チームラボと「秩序なきピース」(前編)(8)【金曜日配信】

    2018-01-05 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。「PLANETS vol.9」での企画構想中に、「都市をまるごとアートにする」ことを思いついたというチームラボ代表・猪子寿之さん。それぞれ異なるかたちで人間と自然、人間と歴史、人間と世界とを接続しようとしている猪子さんジョン・ハンケの思想を宇野常寛が分析します。(初出:『小説トリッパー』 秋号 2017年 9/30 号)
    8 都市と自然への視線――ジョン・ハンケと猪子寿之
      そして、人間と事物、人間と世界との間の境界線を無化する猪子とチームラボのプロジェクトはいま、その対象を自然から歴史へと拡大させつつある。具体的には「デジタイズドネイチャー」で培われたノウハウはいま、都市空間へと拡張しつつあるのだ。その端緒となったのが、私が出版する批評誌〈PLANETS〉の企画だという。二〇一五年に発行した同誌第九号では「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」と題して、来るべき二〇二〇年の東京五輪――このタイミングで開催する大義もなければ、満足な都市計画もないまま「なんとなく」誘致して消去法で選ばれてしまっただけのあの空疎な東京五輪の「対案」を、競技中継からパラリンピックの再定義、都市計画にいたるまで網羅的に一冊にまとめた。そしてこのとき開会式の演出プランと競技中継を担当したのが猪子だった。
     猪子率いるチームラボは、東京の都市空間そのものをインタラクティブなデジタルアートの展示場とし、街頭の市民の鑑賞がメイン会場の開会式の演出に関与するという壮大な開会式のプランを提出した。街頭に展示されたデジタルアートに市民が近づく/触れると、開会式の会場でのインスタレーションと連動し変化をもたらす。そうすることで、一般市民にとっては映像の中の「他人の物語」でしかないオリンピックを「自分の物語」に変化させる、というのがそのコンセプトだ。そして、猪子は同誌の企画を構想中に「都市をまるごとアートにすることを思いついた」のだという。

    〈この企画を考えていたときに、「競技場のあるなしはあまり重要じゃなくて、デジタイズドすれば東京そのものがオープニング会場になるんじゃないか」と思ったんだよね。デジタル化することで全く新しい体感の都市にできるじゃないか、街をまるごと街のままアートにできるんじゃないかと思ったのね。〉(13)

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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第二回 チームラボと「秩序なきピース」(前編)(7)【金曜日配信】

    2017-12-22 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。「超主観空間」をコンセプトとして掲げるチームラボの作品が、いかにして人間と世界との境界線を乗り越えていったのか。代表である猪子寿之さんの発言を振り返りながら、人間を自由にしようとするそのコンセプトを宇野常寛が分析します。(初出:『小説トリッパー』 秋号 2017年 9/30 号)
    7 人間と世界との境界線を無化する
     人間と世界、具体的には自身以外の事物との間の境界線を融解させること、それは「超主観空間」をコンセプトとして掲げるチームラボにとっては、その極めて直接的な追求に他ならない。人間と世界、人間と事物、鑑賞者と作品、つまり虚実の境界線を融解させること――チームラボはその初期から日本の伝統的な絵画を情報技術でアップデートすることによって、鑑賞者自身がその絵画の登場人物と同一化しているような錯覚を与える(横スクロール画面におけるマリオへの感情移入)作品を反復しているが、二〇一六年前後からはその延長線上に立体物、あるいは空間を用いた作品を立て続けに発表している。
     たとえば二〇一五年の〈Floating Flower Garden; 花と我と同根、庭と我と一体〉は、本物の生花で埋め尽くされた空間として鑑賞者の前に登場する。しかし鑑賞者が近づくとモーターで制御された花たちは上昇を始め、鑑賞者の移動に合わせて半球状のドームが生まれていく。あるいは、同年のチームラボの代表作の一つ〈クリスタルユニバース/Crystal Universe〉は、無数のLED電球の配置された空間において鑑賞者がスマートフォン上のアプリケーションを操作することで、様々な光の彫刻を再現するインタラクティブな作品だが、鑑賞者は自在に変化するこの光の彫刻を操作するだけではなく、その彫刻の中に侵入することができる。
     これらの作品はいずれも、猪子の唱える超主観空間を平面から立体に、二次元から三次元に、目で見るものから手で触れられるものにアップデートしたものだ。そして、猪子たちがつくりあげたデジタル日本画が鑑賞者の没入を誘うように、これらの立体作品もまた私たちを没入させる。もちろんこの没入は物理的に作品の内部に侵入できる、という形式にとどまらない。もっと、本質的なものだ。ここで猪子が試みているのは、モノ(事物)の中に直接入り込むという通常は成立しない体験を鑑賞者に与えることだ。絵の中に入り込み、その登場人物のひとりになりきって作品を内部から鑑賞することを可能にするのがチームラボの平面作品なら、事物の中に入り込むことを可能にするのが、チームラボの立体作品なのだ。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第二回 チームラボと「秩序なきピース」(前編)(6)【金曜日配信】

    2017-12-15 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。鑑賞者の体験そのものをデザインし、作品への没入体験を与える方向へと舵を切った猪子寿之さん率いるチームラボ。彼らがいかにして人と人、人と物、物と物の境界線を乗り越えていったか、宇野常寛が考察します。(初出:『小説トリッパー』 秋号 2017年 9/30 号)
     たとえば「戦後最大の思想家」丸山眞男は、「無責任の体系」という言葉で日本社会における主体の問題を論じている。
     先の大戦において、日本における全体主義はその指導者の不在に特徴があった。形式上の指導者である昭和天皇に実権は存在せず、最高意思決定は当時の軍閥の中核にいたグループの「空気」であった。その「空気」というボトムアップで形成される合意のシステムにおいては、誰も自分が決定者であるという自覚は存在しない。周囲の人間の顔色をうかがい、忖度し、明確な線引きがなされないままなし崩し的に意思決定が行われることになる。丸山はこの「空気」の支配を「無責任の体系」という造語で表現した。
     このとき重要な役割を果たすのが、実質的には意思決定に関与できない天皇の存在だ。「無責任の体系」によって、決定者が誰か曖昧なまま合意形成される日本社会において形式的な決定者として、責任者として機能するのがこの天皇という存在なのだ。実際には特定の人間関係の「空気」によって、決定者も責任者も不明なままの合意形成によって発生した意思は、擬似的に天皇の「お言葉」として発令される。そう、当時の日本にとって天皇とは、特定のコミュニティの「空気」を擬人化したキャラクターだったのだ。そしてこの天皇というキャラクターによって整備された「無責任の体系」に引きずられるかたちで、当時の日本はその責任の所在を曖昧化したまま、戦争への道を歩んでいったのだ。
     こうして考えたとき、なぜ戦後の日本人がその児童文化で、乗り物としてのアニメのロボットという奇形を産まざるを得なかったのかも明白になるだろう。
     この国の人々にとって社会参加とは、自らの意思を表明してその責任を引き受けることではない。そうではなく、周囲の人間の顔色をうかがい、「空気を読み」、その責任の所在を曖昧化したままボトムアップの合意形成を行うことであり、そして、そのとき自分たちの「空気」は天皇という想像上の巨大な存在の意思であるという設定が与えられる。そうすることで、日本人は主体であることの責任を回避したまま、社会を形成してきた。
     しかし、戦後のロボットアニメとは、そんな日本人を――マッカーサーに「十二歳の少年」と揶揄された日本人を――ファンタジーの中で大人にさせる役割を負っていた。そして当時の作家たちはアニメーションの中で、少年が仮初の身体=キャラクターと同一化するという回路を編み出した。自分が直接力を行使してその責任を引き受けるのではなく、社会が、父が与えた仮初の身体を戸惑いながら行使する。前述のロボットアニメたちが反復して、少年主人公たちがその強大すぎる力に戸惑うというエピソードを描いているのは、それがこの国の人々がファンタジーの中で、鋼鉄の、仮初の身体を手に入れてはじめて主体であることを可能にしたものであるからに他ならない。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第二回 チームラボと「秩序なきピース」(前編)(5)【金曜日配信】

    2017-12-08 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。一貫して「境界のない世界」を擁護してきた猪子寿之さん率いるチームラボの作品コンセプトに、宇野常寛はある時期まで批判的な目を向けていました。しかし、鑑賞者の身体そのものを没入させる作品を目の当たりにし、その考えを改めることになります。(初出:『小説トリッパー』 秋号 2017年 9/30 号)
    4 マリオはどこにいるのか?
     では、ここから先は猪子寿之とチームラボが、この「境界のない世界」をいかにその作品において実現してきたかを論じていこう。人間と事物(鑑賞者と作品)、事物と事物(作品と作品)、人間と人間(鑑賞者と鑑賞者)の境界線を、いかにして消去させてきたかについて考えてみようと思う。
     ただし、その前にクリアしておかなければならない問題がある。
     私と猪子は十年来の友人関係にあるが、それとは別個の問題として、私は数年前までこうした猪子のコンセプトに極めて懐疑的、もっと言ってしまえば批判的ですらあった。
     それはチームラボによる一連の作品群の背景にある、猪子の日本的な空間認識=超主観空間に対する解釈にある。猪子が「超主観空間」について、国産コンピューターゲームのスクロール画面を例に説明していることは既に述べた。猪子の説明に従うのなら大和絵から〈スーパーマリオブラザーズ〉まで、「超主観空間」を用いた日本的な平面表現の本質は全体に焦点が合わさり中心を持たない脱中心性(横スクロール画面)と、鑑賞者/プレイヤーの感情移入装置となるインターフェイス(マリオという操作可能なキャラクター)によって構成されていることになる。私たちが〈スーパーマリオブラザーズ〉の世界に没入するためには、マリオが走り、飛びはねる世界を俯瞰して見ていられることと、マリオというその世界の中に存在するプレイヤーの分身が必要なのだ。私たちは自身の世界における位置を俯瞰して把握することはできない。しかし、私たちは自分が操作するマリオの位置とその世界の全体像を俯瞰的な位置から把握することができる。そう、私たちがこのゲームに没入するためには、横スクロール画面の描画だけでは不十分で、マリオという分身がその画面中に存在しなければならないのだ。マリオがいてはじめて、超主観空間は成立する。マリオの存在が、鑑賞者と絵画、プレイヤーとゲーム画面との境界線を消失させるためには必要なはずなのだ。
     だが、私の知る限りチームラボの作品に鑑賞者の分身が出現したことは一度もない。そう、チームラボの作品には「マリオがいない」のだ。
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