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ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」。第2回では、80年代にあだち充と高橋留美子が生んだ「ラブコメ」ブーム。その舞台となった「少年サンデー」の成り立ちを、60年代以降の少年漫画誌の歴史と共に追いかけます。

「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」の誕生

 今回の第2回では、あだち充作品そのものについてではなく、最初のブレイク作『ナイン』と代表作でもある『タッチ』、そして共犯関係にある高橋留美子『うる星やつら』が『少年サンデー』に連載されるまでの少年誌の歴史について振り返る。
 時代を変える作品が出てきたことを理解するには、それまでの歴史や関係性を知っておくことが必要になってくる。そして、今や当たり前になっている週刊少年誌の歴史には、「漫画の神様」と呼ばれていた手塚治虫が大きく関係していた事実がある。
 あだち充と高橋留美子が活躍することになるラブコメ全盛期の〈80年代『少年サンデー』的な特色〉が生まれた経緯はいったいどんなものだったのか。
 少年誌の始まりから見ていくと『少年サンデー』が紆余曲折した上で、ラブコメ方面に向かっていったのがわかる。

 現在のように週刊誌での漫画雑誌が発売されるようになったのは、1959年3月17日に『週刊少年サンデー』と『週刊少年マガジン』が刊行されたことによる。この二誌が週刊誌における少年漫画の歴史の始まりだった。
 1958年の秋頃に小学館では「学習路線以外の雑誌」の検討が開始された。子会社である集英社で、漫画の月刊誌が成功していたことが大きな要因とされている。その動きを知った講談社が翌年の1月に『週刊少年マガジン』創刊準備を始める一方で、小学館の『週刊少年サンデー』は学年誌(『小学○年生』)で付き合いのあったことで手塚治虫に連載執筆の了承を得ていた。続いて寺田ヒロオや藤子不二雄などの「トキワ荘グループ」の連載も獲得して、創刊ラインアップのメンツを揃えていった。
 当時の『少年サンデー』と『少年マガジン』は、連載する漫画家の獲得に奔走していた。藤子不二雄(A=安孫子素雄)の日記によれば、『少年サンデー』から創刊一ヶ月前の1959年2月11日に執筆依頼があったその二日後に『少年マガジン』からも執筆依頼があったが、すでに『少年サンデー』での連載を引き受けたという理由で断ったという。
 ちなみに、その数年前に藤子不二雄は講談社の少女誌『なかよし』で連載をしていたが、仕事を抱えすぎてパンクしてしまい、原稿を落としたことで連載を打ち切られていた。そのことが原因で同社から四年間、一切仕事が来ないという状況にあったが、当時の『なかよし』の編集長だった牧野武朗が『少年マガジン』の初代編集長になり、藤子不二雄に執筆依頼をしに来たという因縁もあった。しかし、運命のいたずらか、彼らは『少年サンデー』での連載を先に引き受けていたために、土下座して牧野からの依頼を断ることになった。その後、編集長が変わってから、藤子不二雄は『少年マガジン』に連載をするようになるのだが、この藤子不二雄の執筆経緯は、両誌の路線の決定的な差、分岐点になってしまったのではないだろうか。それは藤子不二雄を起用できたかどうかが二大少年誌の最初の明暗を分け、雑誌のカラーの確立に大きな要因になっていると考えられるからだ。

 漫画界のトップランナーであった手塚治虫は『少年サンデー』での連載を引き受けていたが、週刊漫画の二誌創刊をとても喜んでいたこともあり、ライバル誌である『少年マガジン』にも何かできることがあればと声をかけていた。
 トキワ荘グループのメンバーでは、石森章太郎だけが初期から『少年マガジン』に執筆していたが、彼が作画していた山田克原作『快傑ハリマオ』の構成を、手塚が密かに引き受けていたことが『実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記』の中で明かされている。
『少年サンデー』は野球の長嶋茂雄が創刊号表紙、創刊号のラインアップは手塚治虫『スリル博士』、横山隆一『宇宙少年トンダー』、寺田ヒロオ『スポーツマン金太郎』、 藤子不二雄『海の王子』、益子かつみ『南蛮小天狗』で価格は30円。発行部数は35万部だった。
『少年マガジン』は相撲の朝汐太郎が創刊号表紙、創刊号のラインアップは忍一平(原作・吉川英治)『左近右近』、山田えいじ『疾風十字星』、高野よしてる『13号発進せよ』、遠藤政治『冒険船長』、伊東章夫(原作・鈴木みちを)『もん吉くん』 で価格は40円。発行部数は20万5000部だった。

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▲少年サンデー(左)と少年マガジン(右)の創刊号

 どちらとも1959年3月17日の水曜日に発売され、店頭に並んだ。部数でいきなり差を付けられた『少年マガジン』は、同年5号から30円に値下げして対抗しようとするが、『少年サンデー』は創刊ラインアップ作品で、読者に都会風で洗練された印象を与えたことも作用して、リードを続けていくことになった。その後も忍者ブームを受けての横山光輝『伊賀の影丸』、赤塚不二夫『おそ松くん』、小沢さとる『サブマリン707』、さらには藤子不二雄『オバケのQ太郎』が大ヒットして60年代中盤までに万全の態勢を作っていくことになる。
 もし、藤子不二雄への執筆依頼が『少年マガジン』の方が先だったのなら、『オバケのQ太郎』は『少年マガジン』で連載されたいたという、「if」の可能性も、もしかしたら存在したのかもしれない。

劇画とスポ根による「マガジン」の成功(60年代)


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