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☆号外特集①☆【対談】福嶋亮大×張イクマン 〈都市〉はナショナリズムを超克しうるかーー「辺境の思想」から考える(前編)
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☆号外特集①☆【対談】福嶋亮大×張イクマン 〈都市〉はナショナリズムを超克しうるかーー「辺境の思想」から考える(前編)

2018-12-26 21:30

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    新著『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』の刊行を記念し、文芸批評家・福嶋亮大さんの登場記事を3夜連続で特別再配信します!
    第1夜は、張イクマンさんとの共著『辺境の思想 日本と香港から考える』をめぐる対談の前編。

    日本と香港は歴史上、西欧や中国の「辺境」にあり、それは文化的・経済的な強みでもありました。東日本大震災(2011年)と雨傘運動(2014年)以降の、「二つの辺境」の思想状況を考えます。
    新著でもウルトラマンシリーズの成立において沖縄という〈辺境〉の思想が重要な役割を果たしたことが掘り下げられていますが、その問題意識とも通底するアクチュアルな対話です。 (構成:佐藤賢二)

    書誌情報
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    『辺境の思想 日本と香港から考える』Amazon
    頼れる確かなものが失われた中心なき世界。自由と民主が揺らぐカオスな時代。未来への道は辺境にある―。日本と香港。2つの辺境で交わされた往復書簡の記録。


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    福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』
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    【特別対談】上原正三×福嶋亮大
    『ウルトラマンの原風景をめぐって――沖縄・怪獣・戦後メディア』

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    政治なき時代のカギは「国ではなく都市単位」の視点

    宇野 今回は『辺境の思想 日本と香港から考える』が無事に刊行されたことを記念して、著者のお二人にお話を聞きたいと思います。これは東京に住んでいる福嶋さんと、香港に住んでいる張さんの往復書簡という形で、2016年の後半から2018年の1月ごろまでの連載をまとめたものです。
    この1年余りでは日本は、安倍政権で森友・加計問題や公文書のずさんな管理が注目を集め、安定政権であることが唯一のアドバンテージだったとすらいえる安倍政権がスキャンダルに振り回されながらも、選挙ではそれを上回る野党の自爆によって安倍政権が盤石になっていきました。一方、香港では、2014年に起きた「雨傘運動」以降の若者を中心とした民主化運動が、北京の中央政府による締めつけで衰退に追い込まれてゆく1年余りであり、そういう状況の中で、お二人は往復書簡を交わしていたわけですね。

    福嶋 日本に関して言えば、森友・加計問題を典型として、昭和的なオポチュニズム(無原則の日和見主義)が再び前景化している。要は、山本七平や丸山眞男の批判した「空気の支配」と「無責任の体系」の問題ですが、それが高じて公文書の改竄なんていうとんでもない次元にまで行ってしまう。しかも、それを批判しようとしても、責任の所在があいまいなので暖簾に腕押しにしかならない。平成はもう終わりつつあるというのに、政治の週刊誌化も含めて、今はむしろ昭和の悪いところばかりを拡大したような政治状況が日本を覆っているわけですね。平成は日本の政治風土を何も更新できなかった。
    ただ、だからといって日本国内だけで政治的な問題を考えていても、もう未来はないし、論壇的な世間話にしかならないと思うんです。それで日本と香港、つまり国民国家と都市を比較するという新しい枠組みを立てて、世界との別の繋がり方を模索しようと考えたわけです。それが僕の出発点でした。張さんはどういう感じで臨まれたでしょうか。

     私としては、やはり香港の方が、日本よりも強く政治が終わっている感じがしますね。日本は思想的に平成がまだ終わってないし、戦後昭和的な雰囲気がまだ強く残っている。これに対し、香港は何より、まだ団塊世代の政治感覚が残っているんだけど、それと30代以下の若者の思想が決定的に違っていて、世代の断裂がはっきりしている形です。私なりには、そう見えているんですね。

    福嶋 世代的分断は今の香港を考える鍵ですね。日本人は1970年代以降に金儲けにしか興味のない経済動物、つまり「エコノミックアニマル」と揶揄されたわけですが、かつての香港人もそれに近いところがあった。イギリスの植民地支配のもとで政治参加が閉ざされていたためです。しかし、張さん以下の世代は急速に政治化したように見える。香港はもはや一枚岩ではない。

    宇野 そのように、異なる地域を対比して見えてくる視点が本書の特徴ですね。『辺境の思想』というタイトルが秀逸で「辺境とは何か?」ということが、この本で言いたいことの6割くらいを占めていると思います。日本人は夜郎自大なので、自分たちを辺境とは思ってないんですよ。ただ、歴史的に考えると、アジアの中でも、西洋から見ても端っこの辺境以外の何者でもない、近代日本は、いかにして自分たちが辺境であることを忘却するかというゲームをやってきた。
    ところが、逆に辺境であることを思い出すことでしか、今の日本の社会的文化的な行き詰まりに対する抜け道を探すことはできないんじゃないか? というのが、この本における福嶋さんと張さんの基本的なスタンスだと思うわけです。
    日本が辺境であるとはどういう意味か、究極的にひとことで言えば「国民国家未満」ということです。中国本土のような古代神話の時代から国そのものの枠組みが続いてるわけでもなければ、近代ヨーロッパの国民国家ともまったく違う、日本はどちらでもない存在なんですね。結果的に言ってしまえば、その枠組みを外したときに初めて、日本でものを考えることが可能になっている。

    福嶋 歴史的に言えば、日本は常に「子供」の立場にあった。前近代であれば中国、近代以降であれば欧米というように、外部の大きな「父」を参照しながら我流に加工するのが基本的なプログラムだった。建築家の磯崎新氏の言い方を借りれば「和様化」(ジャパナイゼーション)ですね。しかし、今はそういう外部の超越的なモデルが弱体化してしまった時代だと思います。その結果、日本はこれまでの和様化のプログラムがうまくいかなくなり、外部への通路が閉ざされ、ガラパゴス的な状況に陥っている。千年単位で見れば、この「父の不在」が日本史の新しい局面を示すものであることが分かります。日本人は前例の少ない状況に置かれているのです。この困難から脱するために、隣の都市を参照しようというのが僕の基本的なスタンスです。

    宇野 たぶん、いま国家の単位でものを考えているとトランプ的に、あるいはブレグジット的にグローバル化に対するアレルギーの受け皿になるしかない。そもそもばらばらのものを物語的に一つに統合している国民国家は定義的に閉じていてグローバル化と相性が良くないわけです。「グローバル化で国境がなくなる」と言ってるけど、そんなのは嘘で、グローバル化の実態とは情報化された大都市の経済的なネットワークですよ。
    国境を単位とする領域的な国民国家というのは古い形の線引きで、それに対して、たとえば上海とドバイとパリの住人が直に結びつくような都市のネットワークが対抗しているのが、グローバル化の実態だと思います。だから、国家という枠組みにとらわれている限り、思想的にグローバル化を正面から受けとめることはできない、その可能性はむしろ日本や香港のような国家未満の辺境にあるというのがこの本の基本的なスタンスで、その視点から日本と香港の政治状況や文化状況を参照していると感じました。

    中二病的なナショナリズム・政治化を超えて

    福嶋 おっしゃるように、日本の知識人は基本的に国民国家の単位で考えている。たいていの日本論も国民性の比較によって作られているわけで、現に日中比較論や日韓比較論はたくさんある。しかし、そこには都市の比較という観点がほとんど存在していないのです。
    たとえば、日本は「雑種文化」だという加藤周一の有名な定義がある。加藤氏はフランスとの比較でそう言っています。しかし、それを言うのなら、香港は日本以上に雑種的な都市です。なおかつ、日本はサブカルチャーが栄えていて「クールジャパン」などとナショナリスティックなお国自慢をしているけれども、それだって別に日本の固有性ではない。香港もそれは同じだからです。香港は武侠小説や推理小説が強いし、張愛玲や李碧華のような女性作家も目立つ。しかも、香港文学は映画とのメディアミックスも盛んにやっている。これらは日本の大衆消費文化とよく似ています。「怪力乱神を語らず」という中国の儒教的な建前からすればサブカルチャーでしかないものを、香港はたくさん生み出してきた。こういう辺境の都市と比較すれば、従来の日本特殊論を解除することができる。
    加藤的なモデルは、最近の内田樹氏の議論にも受け継がれています。つまり、中心的な文明と辺境の日本を比較するという、いつもの分かりやすいモデルです。しかし、そのような認識の座標ではグローバル化には対応できないし、香港のようなすぐ隣にある「似て非なる存在」も見逃してしまう。香港を介して日本論の座標を組み替える――こういうアングルの提示はこれまでほぼ誰もやっていないと思います。

     福嶋さんが言った通り、この本の狙いは認識のフレームです。日本の近代認識のフレームは、明治から平成までずっと国民国家、どうしてもナショナリズムのフレームで物事を考えている。この本で書いたように、私なりのナショナリズムの定義は、自分たちこそが世界の中心であるとか、自分の尊厳をかけて他人からの承認を得られるよう努力するとか、辺境発の中二病的なものです。そういう中二病的なナショナリズムを発病して成功した文明を持つ国家は、最初はイギリス、そしてフランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、西洋以外では近代の日本ですね。「自分たちこそが偉くて、尊敬に値する」ことを証明するために、物語を語る。ですから、ネイションは民族や文化伝統の発明に熱心で、国民文学と歴史のような近代の物語を重視するわけです。
    逆に、香港の近代認識のフレームは都市です。思えば、香港は日本と同じく、19世紀中旬から西洋文化をいち早く取り入れて、約150年の近代社会史を織り成しましたが、香港の認識のフレームは日本・ネイションとは違ったかたちで、基本、都市ベースです。宇野さんが言ったように、都市は基本的にネットワークです。物語よりもお金と情報に依存します。文化の伝統より、その多様性を優先します。日本も香港も同じく辺境同士なのに、異なった道で、西洋近代化の歴史を歩んできました。
    香港という成功例においては、そういう「自分が世界の中心」という発想はなかったんですね。自分が常にアジアにおいても西洋からも辺境にいることを自覚して、異なる発見の狭間で物事を考えて、いつもコンテクストに依存して、文化を自由に選べて、自由に動いていくのが得意なんです。日本が平成時代に入って、この10〜20年間、世界中がいわゆるグローバリゼーションに進んでいる状況で、私は香港の方が日本より活躍していると感じるようになったんですね。
    東アジアにある辺境同士の日本と香港は、もともと比較できる文化心性はいくらでもありそうです。しかし、香港は日本への文化関心が高いが、日本から香港への視線はほとんど感じられません。たぶん、ネイションと都市という二つの近代心性の異なる影響のせいです。
    やはり、この本に書いた中でも一番面白いのは、日本が都市化しているのに対して、香港はなぜナショナリズム化しているのかですね。実際に今の状況はこの本で書いた通りに進んでいます。

    福嶋 そうですね。日本でも九〇年代までは香港への関心は高かった。しかし、中国返還以降はその関心は落ちてしまった。香港論は今や特殊な地域研究になっていて、専門家しか興味がないのです。しかし、香港にはむしろ普遍的な問題がある。ナショナリズムとグローバリズム、国家と都市がこれほど先鋭に切り結んでいる場所は他にはない。香港は今の世界の縮図であり、特異点でもある。僕はそういう視座から香港を観察しています。
    それに、これまで香港の人々の言葉そのものを紹介する機会は非常に少なかった。日本人の識者が香港の現状を咀嚼して、透明度の高いルポルタージュにするという選択も悪くないですが、今ならインターネットもあるので、現地の肉声をそのまま活字にするのも難しくない。たんなる地域研究を超えたところで、異国の声を直に日本人にぶつけることができるわけです。当然バイアスがかかるし、感情的な混乱も生じるけれども、それでいい。多分、日本の出版史において、これだけの文字量の言葉を香港人が日本人に向けて喋ったのは初めてでしょう。こういうゴツゴツとした出版形態はもっと試せばよいと思います。今は何でもかんでも透明にしすぎで、かえって日本の知的環境は貧しくなっている。

    宇野 僕は読んでて非常に複雑な気分になりました。この本では何度か僕の『母性のディストピア』にも言及してもらって非常にありがたかったんですが、あの中で僕は、この先まさにグローバル化・情報化の時代に適応した主体とは何か? かつての富野由悠季的にいえば「ニュータイプ」とは何か、それは親子関係のモデルではなく兄弟のモデルで考えなければならない、といったことを述べました。あれは非常に文化論的な話というか抽象的な次元でしたが、それを「国家から都市へ」というアナロジーで語るという考え方は、当時の僕にはなかった。個人的にこの感想は聞いていて、たいへん刺激をもらっていたのだけどそこにシリアスな状況に置かれ続けている張さんの応答が加わることで、より問題意識が鮮明になったと思います。
    だからこそこの本で語られているような「辺境の思想」を活かすために、現在起きている香港の過剰な政治化という事態は、果たして幸福なものなのか僕は疑問があるんです。僕は、日本で2011年に起きた東日本大震災以降の日本の政治化は不幸だったと思っています。単純に言うと、20世紀に生まれた僕らは、ずっと「社会化する=政治化する」と思い込んで生きてきている。つまり、「成熟=ある種の市民性を発揮すること」と考えている。しかし、本当にそうなのか疑問なんですよね。日本における震災後の状況は、それを証明してしまったんではないか、
    政治が世の中で一番大きな存在だった時代は、だいたい米ソ冷戦体制がなくなった20〜30年前に終わっていて、今はどう考えても経済の方が大きい。仮にモリカケ問題で安倍政権が倒れても、地球上で70分の1の人口が住んでいる日本という島国の状況しか変わらない。でも、もしFacebookがテンセント(騰訊)を買収したら世界中のネットワークの仕組みが変わってしまう、こちらの方が人類全体の生活や経済活動への影響はずっと大きい。
    僕には震災後の日本の「政治化」はこうした現実からの逃避だったようにすら思えるわけです。モリカケ問題や安保問題のデモもそうだけど、今のTwitterとかで政治的な動きをしている人間が、果たして成熟しているのか、社会にコミットしているといえるのか? 非常に疑問なんですよね。むしろ逆ではないか。より本質的な問題を隠蔽するためにこそ、20世紀的な「政治」をメディアで消費塩ていたのが震災後の日本ではないかと思うわけです。

    福嶋 香港の若者が雨傘運動に際して政治化したことには、日本とは別の必然性もあるでしょうね。

    宇野 もちろん、香港では実際に北京の政府からガンガン抑圧されて、政治的な自由もどんどんなくなって、ゲリマンダー的に政府が選挙制度に干渉することも行われている、そんな香港の政治状況と日本の政治状況を同列に語ることはできない。しかし、この本を読んでいると、明らかに張さんは、中央政府に働きかけてきた従来の民主派と、「香港こそ我々の本土」という香港ナショナリズムを唱える本土派の間で揺れ動いていますね。張さんは正直どちらにもコミットできなくて、選挙による香港の自決権を求める自決派を心情的に支持しているはずですが、自決派というのは、言ってることは一番正しいけれど一番勝ち目のないルートでもある。
    この「雨傘以降」の香港の政治的な「行き詰まり」は僕にはもうひとつの震災後の日本というか、「動員の革命」と呼ばれたインターネットを媒介とした反原発デモから反安保デモの流れが、昭和左翼の縮小再生産的な復権にとどまらず、ちゃんと大衆化した場合の姿に見えるわけです。「柔軟なリベラル派」は、一連の昭和左翼回帰に眉をひそめながらも、心情的には同情的で「なんでもっとうまくやらないのだろう」と思っていたはずで、そうした人々からすると「雨傘」は理想的な「運動」だったはずです。しかし、あれから4年経ってみると、必ずしもそうは言えないのではないか。むしろその先に待っていたのは別の袋小路だったのではないかと僕は思うわけですね。実際に、この本の張さんの書簡からはこうした現実への迷いと焦りが垣間見える。
    張さんはわりと「こうだ」とハッキリ簡潔にものを言う人ですが、香港の政治については、珍しく迷っている感じがしました。

     確かに迷っています。北京の政府との交渉で解決をはかる古い民主派の発想は、やはり団塊世代的な発想で、これに対し本土派はある意味で若者の発想らしいです。今の若者は絶望的に不安定な環境にあって、戦後団塊世代的な発想はもう信じない。その意味では、私は古い民主派に蔓延している発想が時代遅れなのは確かだと思います。だけど、やはり本土派の若者の発想では、まず勝ち目がないないんですね。北京の政府と戦うといっても勝ち目はなく、古い時代に逆戻りもできないので、もちろん迷ってますよ。正解がないから、しばらく待機してもよいかと思います。迷うのも当然でしょう。そういう意味では、新しい発想ではないですね。やはり都市的は発想は、個人を単位にいかにサバイバルするかという発想なので、体系的な発想ではないんですよね。時期を待つのも、都市的な生存戦略です。

    辺境の生きる智恵は「政治を考えない政治」

    福嶋 香港が独立すべきかどうかは、究極的には誰にも分からない問題ですよ。『辺境の思想』を読んでも、その答えなんて得られません。しかし、答えの出ない迷宮的な現実があるということだけは、読者にもよく分かってもらえるでしょう。今の日本のネットは「わかりやすい/わかりにくい」「読みやすい/読みにくい」みたいな小学生レベルの感想ばかりが横行している。しかし、世の中には、答えを出そうとすると麻痺してしまう迷宮的現実というものがある。本来はそのゴツゴツとした現実に触れることこそが、人文書を読むということです。日本の読者には、もう一度その基本を思い出してほしい。
    それとともに、僕はもう少し普遍的な次元でナショナリズムを考えたいのです。そもそも、今は人類の政治的共同体のイメージは国民国家に独占されている。本書の後半で触れましたが、国民国家のモデルは、明治期以降の日本では確かに適合的だった。しかし、ほかの東アジア地域に関して適合的だったかは疑わしいと思います。
    たとえば、香港は非常に小さな都市国家なので、国民国家のスケールをまとうには小さすぎるという面がある。他方で、中国の西部には新疆ウイグル自治区があり、ここでも中国からの独立運動が勃興しています。ただ、香港とは逆に新疆はあまりにも広く、複数の民族が入りまじっている。こういう地域を無理にひとつの国民国家にまとめようとすると、旧ユーゴスラヴィア内戦で起きた民族浄化(特定の民族の絶滅をはかる大虐殺)のような、危険な状況が訪れる可能性が高いわけですね。作家の王力雄もそのことを危惧しています。

     同じ中国大陸から見ての辺境でもかなり違いますね。

    福嶋 そうです。一口に辺境と言っても、一括りにはできません。あるいは東南アジアに目を向けてみても、最近はミャンマー周辺で、多数派の仏教徒から弾圧されたロヒンギャ難民がメディアで大きく取り上げられています。彼らは、近代ヨーロッパが東南アジアに国民国家を人工的に植え付けた後、そこからはみ出してしまった謎の存在ですね。香港は中国本土から隔離されたアジール的な「城」であり、移民や難民が多く集まってできた場所ですが、ロヒンギャ難民はそのネガのような存在です。いうなれば、空間的に保護されなかった香港人のようなものです。
    東アジアは伝統的に多民族・多宗教が混在してきたし、クリフォード・ギアツが『ヌガラ』で描いたように、宗教儀礼によって高度に象徴化された王国もいっぱいあった。あるいは、遊牧民や貿易商人などの国境を超えたネットワークもあった。しかし、そこに半ば強引に近代の国民国家のモデルを植え付けた結果、少し身の丈に合わない衣装を着させられたという側面があるんじゃないかと思うんです。これから東アジアの政治を考えるならば、国民国家とは別の政体を構想することが、未来につながっていくのではないか。柄谷行人氏やアントニオ・ネグリ&マイケル・ハートはそれを「帝国」と言っているけれども、僕としては、その手がかりをむしろ「都市」に見たいということです。

     辺境の思想でまず特徴的なのは、「政治を考えない政治」ですね。従来の政治的な発想というのは、自分らの代表を作って、国を作って、自分が世界の舞台で主役となる振る舞いをするというものでした。それはやはり、近現代ネイションによる民主主義の政治の発想なんですね。日本もそれをやって、成功も失敗もしてきたわけです。香港も日本と同じく、近代以降150年の歴史をやってきましたが、まず香港人自身が政治の主役をやることはあんまりなかったんですね。香港を統治していたイギリスなり、北京の政府なりが、勝手に代表を決めて政治をやってくれたおかげで、香港人はエネルギーをビジネスとか経済とか他の方向に向けてきたわけです。辺境の思想、あるいは都市的な思想は、ある意味で、自分の時間と自分のエネルギーを100%は政治に使うわけではないんですね。95%の時間や力は政治以外の他のやりたいことに向けて、たまに政治をやっている。あるいは、元より生活全体が政治化している感じでしょうか。

    福嶋 宇野さんがさっき言っていた、経済化された主体のイメージですね。

     そうですね、エコノミックアニマル的な、経済的動物みたいな発想ですね。この20年は、それで一番うまくやっているわけです。あるいは1980年代までの冷戦時代、誰が成功していたかを考えると、アメリカとソ連が軍事的に対峙していた中、東アジアでは日本、シンガポール、香港など、だいたい経済中心の都市国家が経済的には勝っていたわけです。1990年代末からは中国の高度経済成長が進んで、中国全体が非政治的な動物になってきました。そうした中、香港で本土派が成長してきた2014年から2018年にかけての3、4年間、なぜか香港が急激に政治化しているわけです。しかし、香港独立志向の強い本土派は排撃されて、14年の雨傘運動の中心人物の1人だった周庭さんみたいな自決派も、ある意味で政治的に壊滅してしまった。そうなるとやはり、真正面から北京の政治に対抗できなくて、別の道を探すしかないんです。辺境の思想の強みは、やはり柔軟性にあるわけです。

    福嶋 本土派のようにいきなり香港独立という強い主張を掲げてしまうと、北京の政府から弾圧されますよね。なので、民主派は時間をかけてじっくりと戦っていくための足場を作っていく必要があると思うんです。ただ、雨傘運動に関して言うと、インターネットの動員の弱さも出たと思います。インターネットを使えば確かに、瞬間的に非常に強い動員力を発揮することはできるけれども、それを持続していくのは非常に難しい。とりわけインターネットは人を結びつける力も強いけれど、同時にバラバラにする力も非常に強くて、その弊害が今の香港の民主派に現れていると思うんです。
    「柔軟性」というのは、悪く言えば結束力がないということでしょう。現に、香港の民主化勢力は、旧来の民主派から自決派や本土派が分裂したりして、まとまりがないですよね。張さんの苦しみはそのあたりにあると思うんです。一度、雨傘運動で目覚めたはずの民主化運動が、結果的にインターネットの中で再びバラバラになっていく、その状況がこの本を作らせていると思うんですが。

     そうですね。ただ、さすがに香港民主派の発想はもう期限切れだと思いますよ。延々と30年ほど続いた、建前だけの民主化運動は、もはや誰も信じてくれない。雨傘運動の最大の成果は民主派を葬送したことです。彼らの偽善性を暴いたのは他ならぬ、若者を主体とする本土派です。雨傘運動は個人に公民的なナショナリズムを催促したわけです。
    ただ、これは小熊英二氏がよく言っている、政治運動や社会運動などのデモの限界で、それは祭りの限界でもあるんですけど、占拠をやっても、だいたい3ヶ月でエネルギー切れになってしまう。香港雨傘運動もちょうど3ヶ月未満で解散しました。やはり香港の特徴というか強みは、ひとつのことにこだわらない。福嶋さんがよく言うような、日本的なマスヒステリーに走らないことじゃないかと思います。雨傘運動は結果的に失敗しましたが、「もう3ヶ月だから帰ろう」というような香港人の現実感はむしろ自慢してもよさそうです。
    香港本土派の未来は暗そうですが、個人・公民的なネイションに、いかに都市の柔軟性を持ち込むかが肝要です。辺境の思想というのは固定された思想じゃなくて、政治活動がだめなら経済活動に走る、経済がだめなら文化活動に走る、文化がだめならネットや社会の組織や海外に出て行くとか、何でもいいんですよ。また次の時期が来るまで実力を養うことが一番大切というか、動き回る都市的な知恵ですね。ネイション的な尊厳、そして自由、民主のような政治価値を追求しても、都市的な個人サバイバル感、商人根性と柔軟性を資源として活用すればよいかと思います。

    福嶋 日本も都市的な機動力というか柔軟性は学んだほうが良い点ですね。それとともに大切なのが、コミュニケーションの環境を都市的に変えるということです。たとえば日本には「東アジア共同体構想」のような、広い意味でのアジア主義的なプロジェクトがあります。しかし、今の日本で中国や韓国と仲良くしようと言うと、必ずそれに対して感情的な反発が出る。それは中国や韓国の側も同じことです。
    だからこそ、国民国家単位のコミュニケーションの環境を変えていく必要がある。たとえば、上海、香港、深セン、シンガポールといった都市を基準にすると、感情的な軋轢は多少マシになるでしょう。つまり「中国を見習え」と言うと反発されやすいけど、「上海を見習え」「深センを見習え」と言うと日本人も多少聞く耳を持つということですね。『辺境の思想』では、それを論壇的なアジア主義ではなく「都市的アジア主義」と呼んでいます。コミュニケーション環境の整備こそが「政治的」だというのが、僕の判断です。

    都市の文化はルーツにこだわらずコピペできる

     面白いのは、ネイションと都市という二分法は必ずしも正しくないんですね。たとえば台湾は一番いま公民的・個人的なナショナリズムを抱えてます。でも、正面からネイション対ネイションの覇権争いに走らず、必要であれば、自分たちは地方でもあり都会でもあるというように、自由自在にあるいはご都合主義的に認識を切り替えるわけです。香港では、2、3年前に香港独立とかを叫んでいたけれど弾圧を受けて、「正面衝突は犠牲が多いから、少し他のことをやろう」というような心情の転換が必要になりましたが、別に政治に絶望したわけでもない。初心を忘れず、時期を待つだけです。「自分は都会っ子だから政治に無関心だ」という、ある意味では後付けの悪知恵みたいな都市的な柔軟性と発想が必要です。そして、連携、アソシエーションも重要です。
    最近の台湾や香港の若い人たちの思想を見ていると、自分たちは個人主義的な都会っ子だけど、「自分の運命は自分で支配する」という信念は揺るがない。彼らには、自分こそが自分の人生の主役なんだ、また自分こそがネイションなんだという意識を強く感じます。表には見えないが、そういう思想はもう定着している。中流階層の家庭に育った若い世代はエリートになることを期待されていますが、彼らが政治に本気になれば、香港の団塊世代・中流階層の空想的な民主化運動はもう空中分解するしかない。都市からネイションに転換しようとする香港は、中国・西洋の両文明に挟まれていることもあって、世界秩序の中心的価値観の変動期を予言したかように、ここ数年、社会運動が多発しているわけです。

    福嶋 本でも書いたけど、ときどき辺境人が「自分こそ文明の中心である」と主張するケースがありますね。現代の香港の知識人で言えば、香港独立派の政治学者である陳雲(陳云根)がそうでしょう。あるいは近代以前の朝鮮でも、中国大陸が異民族王朝(清)になったとき、朝鮮人こそ儒学の正統を継いでいるという「小中華主義」が唱えられた。中国本土で失われた中華文明を、むしろ自分たちが相続しているという風変わりなナショナリズムです。日本でも17世紀に明王朝が滅んだ後、亡命者の朱舜水が水戸学の源流となり、それが尊皇思想に基づくナショナリズムを用意したわけです。

     香港の本土派には「大陸ではなく香港こそが中心」です。台湾でも「国民党こそ本来の中国全土の支配者」と考えてました。

    福嶋 その意味では、香港や台湾のナショナリズムも歴史的なパターンのなかで考えるべきです。辺境のナショナリズムはそれこそ「中二病」的なところがある。それに加えて、僕は今の世界状況を「辺境的なもの」と「内陸的なもの」の対立だと思っています。1950年代に梅棹忠夫が『文明の生態史観』という本で「第一地域」と「第二地域」という分類をしました。第一地域はユーラシア大陸の辺境のことで、具体的にはヨーロッパ側の端にあるイギリスとか、アジア側の端にある日本です。第二地域とは、中国とかロシアとかインドとか内陸の帝国型の地域を指します。梅棹氏は、資本主義に適応したのは第一地域だと述べました。イギリスや日本は内陸の帝国から見れば、小回りのきく辺境だからこそ、資本主義が発達したわけです。このような生態学的な見方はかなり的を射ていると思います。
    僕の考えでは、香港も第一地域に入ります。これに対して中国は第二地域です。しかし、現在は第一地域のヨーロッパと日本は落ちぶれつつあり、代わりに内陸の第二地域が資本主義の強国として台頭している。『辺境の思想』という本は、その第一地域と第二地域の対立を論じた本でもあるんですね。そして、第一地域を支えているインフラが都市だったというのが、我々の読み替えだと思うんです。

     もっと議論を大きくすると、西洋文明自体が非常に辺境的といえると思います。西洋的な権力の分配は、ネットワーク状の非中心化的な発想ですね。三権分立でもいいし、貿易と資本主義もだいたいはネットワーク状のほうが活発なわけです。対して中国文明の在り方は、中央権力が強く、西洋文明とは互いに権力の在り方がわからないんですよね。そうなると、内陸型の文明である中国が政治的・経済的に活発化していくと、香港、台湾、日本のような存在はどうしても目障りになるわけです。そこで、西洋的なネットワーク状の文化が再び活発化するエネルギーをどこに求めるかという問題ですね。
    この本で私が書いている部分は、日本の左翼から見ると非常に右翼的に見えて、右翼から見ると左翼的に見えると思います。なぜかと言うと、あえて一般論的に言うと、左翼も左翼も中央権力が好きなんですね、権力を集中してコントロールすればうまくいくという発想が強い。不安定なネットワーク化あるいはグローバル化が進むと、そういう反動的な発想、権力を集中する発想が活発化する悪循環になってくるわけです。一見して中心的な発想はじつは辺境の力を活発化させる、ある意味ではアメリカでのトランプ現象と同じです。リベラル的なあるいはグローバリズム的な発想が強くなると、逆にトランプ的な現象が強くなって、ナショナリズムも強くなったわけです。

    福嶋 僕はこの本で「国民国家は歴史=物語を必要とするが、都市はむしろ歴史=物語を不要にする」という趣旨のことを書いています。国民国家はナショナルな「物語」によって形成されるが、都市はむしろ起源や来歴を不問にする「複製」によって形成されるということです。都市は必ずしも自らのオリジナリティを主張する必要はない。たとえば、アメリカのポートランドでクラフトビールやクラフトコーヒーが流行し、それが世界中にコピーされて受け入れられるというような現象を考えればよいでしょう。
    ある都市の流行が複製されて、他所の都市に流布していくことによって、もとの都市も力を獲得していく。今や特定の都市にしか存在しないものは少なくなっている。ボリス・グロイスが『アート・パワー』で書いているように、都市の複製がまるで観光客のように別の都市に出歩くという状況が起こっているわけです。日本の知識人は「物語」に強くこだわる反面、どうも都市の持っている複製の力を軽視していたと思います。

     面白いことに、ある意味では日本で都市的な思想が一番強かったのは江戸時代なんですね。與那覇潤さんの『中国化する日本』では、江戸時代は地方の各藩や農村など中間集団の強いムラ的な時代として描いてます。しかし、江戸文学の研究者である田中優子さんも江戸時代をネットワーク社会的に捉えていました。江戸時代は人々が身分と地域で分断されつつ、都市間の物流もさかんで、学者や商人には幕府に支配されない全国的なつながりがありました。しかし、明治時代に入っていきなり都市的な発想から、中央集権的なナショナリズムになった。そのナショナリズムが日本ではいま行き詰まっていて、また江戸時代に逆戻りするというのはアリだと思います。「江戸時代=ムラ社会」というのは半分は正しいですが半分は間違っていて、江戸時代的なネットワーク状の社会という発想も必要だと思います。

    香港ではアンダークラスほど独立に希望を託す

    宇野 先ほど福嶋さんが言いたかったことは、香港は国家と都市の中間的な領域ですが、この先香港は国家であろうとすればする程、政治的に追い詰められていくだけなので、むしろ都市としてのアドバンテージを発揮していくべきなのではないか? ということでしょう。その背景には、2014年の雨傘運動の挫折以降、香港の本土派を中心とする勢力が、香港が独立国であるように振る舞おうとしていることへの危機意識があると思うんです。この点に関しては僕も福嶋さんと同意見なのです。
    張さんが雨傘運動を日本に紹介したときの見解は、香港人はエコノミックアニマルであったがゆえに過剰に政治化せず、つまり「国民」としてではなくあくまで「都市の市民」として、適切な距離を取って日常の中に政治運動を盛り込むことができた、それが雨傘運動の成果である、という説明だったはずですよね。しかし、実際には張さんが支援してた自決派は衰退し、代わりに過剰にナショナリスティックな本土派が台頭していった。僕から見れば、運動に参加した学生の代表格だった周庭もかなりやむを得ないけれど古い意味で政治化してしまっている。自決派のような市民的な主体がなぜ持続し得なかったのか? そこが問題だと思うのですが、どうでしょうか。

     そうです。資源も組織力もない中、若者のエネルギーが本土派に向かっている。香港のこの1年半くらいの状況は、周庭さんみたいな20代前半の人々がある意味ではヒステリー的な政治的動物になっていて、物事がうまく運ばないんですね。さらに民主派から見ると本土派も空中分解してるように見えていて、それは確かです。しかし、従来の民主派的な活動もできない、何もできず宙に浮いているというのが今の香港の状況だと思います。この点は宇野さんの指摘どおりでしょう。そうなると、先ほど福嶋さんが言ったような「都市対ネイション」のような捉え方だけでは物足りないと思います。
    この本でも述べましたが、都市対ネイションという考え方はどちらも辺境的な発想なんですね。どちらも自分が不利な状況をどう打破するかという知恵で、近代以降、香港では都市的な発想、日本はネイションの発想で、それぞれ状況に即して適応した例だというのは本で述べたとおりです。日本も香港も状況が行き詰まって、日本は都市的になり、香港はネイションな発想になったけど、それでも100%西洋的なネイションになったわけではないんですね。日本も香港も、ちょっと都会のフリ、ネイションのフリをしてるだけで、本質的には日本はまだ明治的なネイション、香港は100年前の貿易港のメンタリティが残ってるわけです。

    福嶋 日本と香港のナショナリズムを比較すると、もともと日本は後発近代国家なので、非常にコンプレックスが強かったわけです。日本人は西洋人に比べて劣っているし、醜い、だからこそこの国を愛するというのが明治的なナショナリズムのひとつの型ですね。でも、そのナショナリズムも今やポストモダン化していて、かつてあった屈折や否定性はもうないわけですね。我が国は美しい、ゆえにこの国を愛するというリニアなメッセージに変わりつつあるのが、日本のナショナリズムの現状だと思います。

    宇野 本来、ナショナリズムは近代化の副産物で、国が成熟すれば冷めるものです。

    福嶋 そうですね。一方でナショナリズムとは平等化の装置でもある。ナショナリストは同じ国民である限り、その個体を平等に扱おうとするでしょう。しかし、その場合、香港における平等をどこまで拡張できるのか?
    たとえば、香港のフィリピン人メイドは現代の奴隷みたいなもので、主人に虐待されて死んだりしている。香港の「自由」なるものは、結局奴隷がいないと成立しないようにも思えるわけです。張さんは彼女らにあまり興味はなさそうですが、しかし香港でナショナリズムを掲げるというとき、そういった出稼ぎ外国人労働者などのアンダークラスまで「国民」の範囲に入ってくるのでしょうか。張さんの周辺では、若い大学生で、かつ政治意識が高い人が「公民ナショナリズム」を担っていると思うんですが、それだけでは年長世代を巻き込むことも難しいし、アンダークラスも排除されているわけで、かなり限定された運動になっているのではないか。

     福嶋先生からアンダークラスに冷たいという批判も受けましたが、私自身がアンダークラスだと思っています(笑)、外国人メイドを雇う身分じゃないですし。香港の若い世代で、とくにナショナリズムを標榜する本土派を支持する層の正体は、アンダークラスそのものですね。彼らには、どう努力してもエリートや中流階層に上昇する希望を持てないという雰囲気はあります。

    宇野 張さんのオタク仲間はたしかに香港ではアンダークラスですね。

     社会学では定義上、大学卒は中流階層ですが、私を含む友人たちの大半は、大学卒でも庶民っぽくて、団塊世代が夢見る生活保守主義、核家族でローンを組んで家を買って子供二人を生むような生活スタイルとは違いますね。
    先ほど福嶋さんが述べた、ナショナリズムが平等的だという発想は、団塊世代的な発想だと思います。自分は安定した生活をしつつリベラル的な発想を持っていて、周りのかわいそうな人に目を向ける、というのはまさにいまの本土派のオピニオンにはなじまないんです。日本でも10年前、赤木智弘が底辺ワーキングプアの心情を「希望は、戦争」と書いていましたが、いま本土派の希望も間違いなく独立戦争なんです。もう失くすものはないので、そういった極端なナショナリズムに走るわけです。アメリカで起きたトランプ現象も同じくアンダークラスの運動で、彼らがナショナリズムに走るのを中流階級あるいはインテリ層が理解できなかったのは、団塊世代的な発想だったからですよ。

    福嶋 ナショナリズムと平等の問題を世代論に還元することはできないと思うけど…。ところで、香港の団塊世代でお金のある大人は、今の若者に冷たいのでしょうか?

     必ずしもそうではないと思います。たとえば周庭さんが所属してる政治団体が天安門事件の記念集会で募金を行いましたが、いくら集まったと思いますか? 一夜で日本円にして5千万円集まったそうです。寄付を行っているのはお金のある団塊世代の中流層で、周庭さんを見てかわいいなと思ってお金をたくさん寄付していますね(笑)。

    (後編に続く)

    ▼プロフィール
    福嶋亮大(ふくしま・りょうた)
    1981年、京都市生まれ。文芸評論家。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。立教大学文学部准教授。著書に『復興文化論』(青土社)、『厄介な遺産』(青土社)など

    張イクマン(ちょう・いくまん)
    1977年生まれ。香港中文大学社会学研究科卒、博士(社会学)。現在、同大学社会学科講師。著書に『鉄道への夢が日本人を作った 資本主義・民主主義・ナショナリズム』(朝日新聞出版)、『香港 中国と向き合う自由都市』(岩波書店/倉田徹との共著)など
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