今朝のPLANETSアーカイブスは、宇野常寛が写真家・小野啓さんの写真集『NEW TEXT』に寄稿した文章をお届けします。10代の少年少女たちのポートレイトを撮りためた作品から見える、カメラフレームを通じた切断的な関係性による目論見とは――?(初出:NEW TEXT 小野啓 写真集)
※この記事は2014年1月23日に配信された記事の再配信です。
▲小野啓 『NEW TEXT』
小野啓の写真、とくに本書に収められたようなティーンのポートレイトを目にしたときに感じるどうしようもないみっともなさと、同時に込み上げてくるたまらない愛しさについてここでは考えてみたいと思う。小野が写した少年少女たちの「顔」たちは、みんなどこか不器用で、ナイーブで、しかしその不器用さとナイーブさに自分では気付いていない。一見、自分は図太く、ふてぶてしく生きているよ、という顔をした少年少女の小憎らしい笑顔も、小野のカメラを通すと狭く貧しい世界を我が物顔で歩いている生意気で、そして可愛らしいパフォーマンスに見えてしまう。「応募者すべてを撮影する」というルールを自ら定めている小野の作品群は、思春期の少年少女が不可避に醸し出す不格好さを切り取ることになる。自らのカメラが写してしまうものについて、小野は彼が定めたもうひとつのルール――「笑顔を写さない」から考えても極めて自覚的だと思われる。その結果、僕ら中途半端に歳をとってしまった人間たちは、その不器用さや狭さにかつての(いや、もしかしたら今の)自分の姿を発見して苛立ち、痛みを覚え、そして愛さずにはいられなくなるのだ。
もう10年ほどまえ、地方都市の「風景」の画一化が問題化されたことがあった。中央の大資本がロードサイドの大型店舗というかたちで地方の進出し、その風景を北は北海道から南は九州まで画一化していく――そう、現代は場所から、風景から「意味」が失われはじめた時代だとも言える。
本書に収められた小野の写真たちからは(おそらくは意図的に)匿名的な風景が選ばれている。これらの写真はいずれも「どこでもない場所」であり、同時に「どこにでもある」場所である。理由は明白だ。思春期という時間は風景を見ることを拒絶するからだ(少なくとも小野はそう感じているのだろう)。そこがいかなる歴史を持ち、伝統をもち、自然と対峙してきたかは彼らの世界の狭さによって無意味化されてしまう。
そして「学校」という彼らの生活を規定する舞台装置は、同時にこの社会においてもっとも強く「風景」をキャンセルする装置でもある。(その意味においてはこの時期語られていた地方の風景の画一化とは社会の「教室化」「学校化」とも言える。)