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【新連載】上妻世海 作ること、生きること — 分断していく世界の中で 第1回 創造性についての覚書 — イメージ思考と抽象的思考
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【新連載】上妻世海 作ること、生きること — 分断していく世界の中で 第1回 創造性についての覚書 — イメージ思考と抽象的思考

2019-07-02 07:00
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    ※7/2配信の下記記事に誤りがありましたため、修正して再配信いたします。著者・読者の皆様にご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。

    昨年秋、初の論考集『制作へ』で読書界に鮮烈なインパクトを与えた気鋭の文筆家/キュレーターの上妻世海さんによる、待望の新連載がはじまります。現代美術や人類学・哲学における最先端の思索と実践を下敷きに、制作という営みの根源に迫った前著の刊行から9ヵ月。「書くこと」への徹底的な自己内省と、現代における最も外部化されたメタ認知たる脳神経科学との烈しい交錯が、さらなる探求の扉をこじ開けます。
    上妻さんの過去記事はこちら
    【対談】上妻世海×宇野常寛 『遅いインターネット計画』から『制作』へ( 前編| 中編 | 後編
    われわれにとって唯一なわれわれの世界とは、そこに万物が存在しかつ万物の変化し流転しつつあるこの空間即時間的な世界である。生物は死んだ瞬間からその身体が解体をはじめるであろう。生物がもし生きたものとしてこの世界に存在しようとするならば、この解体に抗してその身体を維持し、その身体を維持するためにはその身体を絶えず建設して行かねばならぬ。そこに生物とはみずから作るものであり、生長するものであるといわれるとともに、それがまた生きているということにもなるのである。
    -- 今西錦司『生物の世界』


    「制作」の始原としての「書くこと」をめぐって

     これから本連載にて、僕は様々なテーマについて書いていくことになる。
     僕はその時々に惹きつけられたことについて書く。身体の内側から書きたいと思うだけでなく、外側から誘惑されることよって書かされる。僕は思考を、内部にではなく、外部に記す。
     持って生まれた脳神経系という内部記憶装置にだけでなく、紀元前3000年頃に発明された「書き言葉」を用いて、外部記憶装置(紙やハードディスク)に安定させる。

     なぜだろう。そもそも、なぜ、僕は書きたいのか。
     それは、一方で、思考が流れであり、他方で、僕の集中力と記憶力が脆弱だからだ。もちろん、その脆弱性は柔軟性と言い換えることもできて、そのおかげで、例えば、後ろからからイノシシが突進してきても、無意識が音を通じて反応し、僕は差し迫る危険にいち早く意識を向ける/向かわされることができるし、記憶はテキストファイルとしてフォルダに保存されるのではなく、常に脳内で様々な可能性へと組み替えられる。記憶のあり方は固定的なものではなく、常にぐにゃくにゃと形を変えながら、可能性を模索する実験室である。

     例えば僕が友人と同じ経験をしたとしても、二人が全く異なる記憶を持っていることがある。両者の記憶の差異はその体験を共有する時、つまりお喋りを通じて明らかになる。僕が「あの時、すごく面白かったよな」と言っても、「え、そんなことあったっけ」なんて返答があることはザラである。
     これは記録と記憶の差異であり、文化としての記録と脳神経系としての記憶の違いとも言える。前者が相対的に安定しているとすれば(例えば、文字は紀元前388-389年に書かれたプラトンの著作を読むことを可能にしている)、後者は相対的に不安定である。そして、思考はこの不安定な記憶を基盤としていて、ある意味、それによって創造の余白があるとも言えるのだ。思考は、意識が設定したテーマを超え出て連想される。

     まさに今、僕が書いていることは、当初打ち合わせしたこととは完全に異なることである。人類における「制作」の始原性について書き始めていると、「なぜ書くのか」という問いが僕を捕らえ始めた。そうすると、次に僕はイメージと抽象的思考について考えさせられていて、昔読んだ本の内容が思い出され、会うたびにエピソードを少しずつ変える知り合いのことが思い返された。
     僕の注意はテーマを超え、書くことすらも通り過ぎる。その虚言癖のある知り合いのイメージが、昨日食べた焼き魚を、焼き魚が学生時代の友人との楽しかった記憶を想起させ、それがなぜか先月見た映画のワンシーンを顕にする。僕は、意識のどこかではこのエッセイについて考えなければならないと思っているのに、映画のワンシーンが次に連鎖したオムライスのイメージによって、僕は身体的に食欲を刺激される。

    イメージ、この傍若無人なるもの

     僕がイメージという言葉を用いるとき、それは深層心理学で用いられている定義、つまり、情動を伴った「私」への現れのことを指している(*1)。イメージは「私」への現れであり、だからこそ表現を通じて共有されなければ、その齟齬も確認しえない。
     もちろん、ここで言う表現には、先ほどのようにエピソードを話し合うという方法もあれば、小説や絵画、映画のような手段も存在する。芸術作品の多くは「私」への現れの複雑さを、多様さを、芳醇さを僕たちに教えてくれる。それを単に齟齬などと呼ぶのはおこがましいほどである。
     しかし、もしかしたら、このイメージの定義はイメージを画像や網膜像として考える一般的な定義とは異なるかもしれない。心理学者の河合俊雄も、僕たちがイメージについて考える際には、どの定義で用いられているか考えるよう促している。彼が言うには、実験心理学はイメージを「『外界の模像』または『知覚対象のない場合に生じる視覚像』のようなものとして考え、あくまで外的現実との関連において考えようとする」(*2)。
     要するに、そこでは、イメージは単なる視覚的像として考えられており、外側に正しさ、基準があり、あくまで内側のイメージはそれとの関連で正しい/間違っていると判断されるということだ。もちろん、その定義は私と対象を分ける客観性を軸に添えており、そういう意味で再現性のある科学、少なくとも知覚心理学のいくつかの発見に寄与したに違いない。


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