今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史ーーぼくらの昨日の世界」の第8回の前編をお届けします。小泉ブームも停滞し、政治的にはつかの間の無風状態が訪れた2003年~2004年。その一方で、平成初頭から断続的に続く凄惨な事件は、人間の理解力の限界を説く『バカの壁』をベストセラーに押し上げ、心理学の隆盛は、人の心を投薬によって操作可能とする「脳と身体の一元化」の風潮をもたらします。
凪の二年間
ちょうどこの連載の折り返し地点にあたる、平成15~16(2003~04)年ほど描きにくい時代もないかもしれません。いま振り返ってもこの時期が、たとえば「激動の時代」と「弛緩した時代」のどちらだったのか、生きてきたはずなのにうまくつかめないのです。
たとえば2003年3月に米英豪などの有志連合が侵攻して開戦したイラク戦争への自衛隊派遣が、ついに同年12月から始まります(撤収は麻生太郎政権下の2009年2月)。憲法上の疑義もあり国民の支持は薄かったのですが、都市部で反戦デモが見られたものの、いまひとつ盛り上がりに欠けました。70年安保以降の新左翼の系譜と完全に切れた、「“デモ”を“ウォーク”、“ビラ”を“フライヤー”などと言い換えたり」「“既成運動用語”を忌避する」世代が街頭に出始めたのは、2015年のSEALDsなどへと続く走りでしたが、原点となった2001年の「9.11テロへの報復反対」の渋谷デモの参加者は300名程度[1]。地上戦が展開中の地域への海外派兵は「いいことだとは思わないけど、まあしかたないかな」――それくらいのゆるい空気が、平均的な世論だったように思います。
「小泉改革への熱狂」が国民に派兵を黙認させたというのも、同時代の体験に照らすとやや無理のある説明です。2003年の9月、小沢一郎氏の自由党を吸収して民主党が勢力を拡大(民由合併)。11月の衆院選では比例区の得票数で自民党に競り勝ち、翌年7月の参院選ではわずか一つの差ながら獲得議席数でも同党を凌駕して、「小泉人気は過去のもの」とさえ言われていました。このとき「衆参両院議員の任期を考えれば、2007年までは国政選挙をする必要がない。……しかし、それは自民党にとってつかの間の、そして最後の安定でしかあるまい」[2]と書いたのは、平成前半の政治改革論から社会民主主義に転じ、後半にはリベラル派の「出ると負け軍師」となってゆく山口二郎氏(政治学)です。
一方でこの小泉ブームの停滞を、「新自由主義への批判の高まり」と捉えることもできません。2003・04年の衆参の選挙では民主党の躍進の裏で、正面から小泉改革を批判した社民・共産両党は大敗。当時の民主党はむしろ、自民党よりも「スマートで大胆な改革」を掲げており、政権に批判的な勢力の呼称が「左翼」から「リベラル」に移行するのもこの時期でした。『パイレーツ・オブ・カリビアン』(ゴア・ヴォービンスキー監督)の第一作と『ONE PIECE』(尾田栄一郎の原作は97年から)の最初の長編映画が公開されたのも、ともに2003年。「仲間どうしで勝手にやるから、国は余計なことをしなくていい」というネオリベラルな気風を、野放図な海賊の冒険譚の背後にみることもできます。
一日のうち、海岸部で海風と陸風が入れ替わるあいだの無風状態を凪と呼びますが、小泉政権中盤にあたる2003~04年とは「平成史の凪」だったのかもしれません。前回論じたように、コラージュ的な原文脈の捨象によって成立した小泉改革のスタートにともない、「戦後」という歴史の重たさが薄らいでゆく平成前半の動向は、すでに極限まで行き着いていた。しかし、過去からの系譜をもはや参照できない「歴史なき時代」には、いったいなにを頼りに「あるべき政治」や「公正な社会」をイメージすればよいのか。その答えが誰にとっても見えていないがゆえに、民意のありかたもふわっとして、いまひとつぼんやりした像しか結ばない。
そうした雰囲気を象徴するのが2003年4月に出て、小説以外(評論やノンフィクション)では平成最大のベストセラーとなった養老孟司さん(解剖学)の『バカの壁』でしょう。新潮新書の創刊ラインナップの一冊でしたが、わずか2年半で400万部を超す記録的ヒットになり、養老氏も初めてだったという「語り下ろしを編集部がまとめる」形式が好評を博したと言われました。以降、有名人や話題の人の「口述筆記」で本を作るのは、ベストセラーを仕掛けるうえで王道の手法になってゆきます。