今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは、清水栄一+下口智裕のコンビが手掛ける『ULTRAMAN』です。戦後日本への批評性を内包した巨大ロボットや巨大怪獣のシリーズ作品が、時代の変化により転換点を迎える中で、本作が試みる「巨大なもの」に対する想像力の回復、その更新の可能性について論じます。
※本記事は「原子爆弾とジョーカーなき世界」(メディアファクトリー)に収録された内容の再録です。
ロボットというものに、ここ数年ほとんど惹かれなくなった。中高時代の僕は遅れてきた80年代ロボットアニメのマニアだった。中学時代は「機動戦士ガンダム」シリーズのプラモデル(いわゆる「ガンプラ」)に小遣いの大半を遣っていたし、高校時代は当時の盛り上がりについて知りたくて、街中の古本屋をめぐって当時のアニメ雑誌(『OUT』や『アニメック』)を買い漁っていた。インターネットがまだ十分に普及していないころ、田舎町で十年以上前のアニメの情報を得るのは、ほんとうに大変だった。やがて『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットをきっかけにした第三次アニメブームがやって来た。ブームの最中に、古のロボットアニメやSFアニメについての本もたくさん復刊された。しかしそのころからゆっくりと、僕は「ロボット」への興味を失っていった。少年少女が機械の身体に「乗り込んで」活躍するというイメージに、あまり面白みを感じなくなっていったのだ。単に歳をとって、僕はもう少年と言える年齢ではなくなってしまったことだけが原因ではないと思う。その一方で、僕はむしろ二十歳を過ぎてから平成「仮面ライダー」シリーズに夢中になって、この十年をほぼ玩具収集に費やしているくらいなのだから。僕はたぶん、この時期から「ロボット」という意匠そのものに興味を失っていったのだと思う。
考えてみれば日本的「ロボット」というのは奇妙な存在だ。アイザック・アシモフの「ロボット三原則」が示すように「ロボット」とは創作物の中に結実した「人工知能の夢」そのものだったはずだ。たとえば『鉄腕アトム』がそうだった。3・11を経た今となっては皮肉なものにしか感じないが、手塚治虫は「原子力」が代表する科学技術の進歩の象徴として人工知能/人工生命としての「ロボット」を用いたのだ。しかし、そのライバル的存在だったと言える横山光輝は『鉄人28号』を少年が「操縦する」ものとして描いた。父親(的存在)の開発した機械の身体を操って、少年が大人社会に混じって活躍する──。リモコンで少年が操縦する「鉄人」は男子の成長願望の受け皿として機能する代わりに、「人工知能の夢」を失ったと言えるだろう。そして、祖父のつくりあげた鋼鉄の身体に少年が「乗り込んで」「操縦する」ロボット──『マジンガーZ』の登場とヒットによって、「日本的ロボット(アニメ)」という表現ジャンルは確立していった。それは巨大な機械の身体を得ることで子どもが子どものまま大人のように機能する=正義を執行する=社会にコミットする装置として、少年たちの支持を得ていった。
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