工芸品や茶のプロデュースを通して、日本の伝統的な文化や技術を現代にアップデートする取り組みをしている丸若裕俊さんの連載『ボーダレス&タイムレスーー日本的なものたちの手触りについて』。意識の高い層によるアッパー系の文化が主流を占めた近年ですが、最近はサウナ、シーシャ、純喫茶といったダウナー系のサービスが注目を集めています。2020年代の都市空間でダウナーな快楽を呼び起こすための条件を探ります。
ペットボトルと茶の湯
宇野 今日は喫茶文化が日本の都市圏において、どう変わっていくのかをテーマに議論したいと思います。かつて街の喫茶店がカフェに変わっていったことが、都市のライフスタイルを規定したように、2020年代には茶を中心に日本の喫茶文化が変貌を遂げていくのではないか。
もう少し具体的に言うと、緑茶の大衆化のターニングポイントになったのは、1990年代に伊藤園が始めたペットボトルの「おーい、お茶」ですよね。ペットボトルによって淹れる手間なくコンビニでお茶を買えるようになって、さらにあれが90年代後半には小型化されて持ち運べるようになった。あれは日本の茶の文化を書き換えた出来事でしたが、それと同じレベルの変化がこの先、お茶系飲料に起きることで、日本の喫茶文化にも大きな影響があるのではないか。これまでは「ペットボトルのお茶」と「茶の湯」の中間の領域について議論してきましたが、そのペットボトルのお茶も、30年ほど前に開発されたものでしかない。まずはそこから議論をはじめてみたいと思います。
丸若 考えてみたいのは、なぜ日本では商品を良くしようとしたとき、プロダクト自体にしか考えが向かないのか、ということです。たとえばペットボトルのお茶がコンビニで売れだしたときに、コンビニはどういう背景でその商品を仕入れたか。当時の人々の嗜好やどんなテレビ番組を見ていたか。それらを踏まえた上で、どうすれば次の段階に行けるのか、という風には考えない。漆のお椀であれば「お椀自体がカッコよければ売れるはずだ」となる。
宇野 商品をどうやって売るのかにはフォーカスしても、商品の周辺についてはあまり見えていない。前提の深堀りが足りないというか、システムの一部だけを見て話しても意味がないんですよね。
丸若 そういった発想では、ペットボトルと茶の湯が同じ「茶」として一緒くたにされてしまう。たとえば、ニューヨークで砂糖入りの抹茶が流行っていますが、あれが良いとか悪いとかではなく、何を変えて何を残せば本質の強度が保たれるのかを考えないといけない。それができないと、タピオカミルクティーみたいにブームとして消費されて終わってしまう。逆にそこを確保できれば、変に面倒な説明をしなくても「イエス」と言ってもらえる。本来あるべきシーンを作って、そこにはめ込めば、知識がない人でもお茶を飲むだけで「美味しいね」となる。それがないから過剰なプレゼンをして、本当か嘘かわからないような話に持っていくしかない。これは茶に限らず、文化全般に対して言えることだと思います。
これはF1とプリウスを並べて、車のあるべき姿を議論しているようなもので、茶の湯の話をしてる風なのに、実はペットボトルの話をしていたり、ペットボトルの話をしていたはずが、すごく高尚な話になっていたりする。
大航海時代という物語性
丸若 以前、コーヒーについて掘り下げて考えてみたことがあって。そのときに辿り着いたのは、もちろん味も重要ですが、それよりも大事なのはストーリーだということです。コーヒーの場合はそれが明確で、背景にあるテーマは大航海時代なんです。『ONE PIECE』のように、いろんな土地を旅して手に入れたものを皆で飲むことが、コーヒー文化の大本のコンセプトとしてある。日本の茶の場合はそれとは違っていて、もちろん静岡の土壌はいいとか鹿児島はこうというのはあるんですが、狭い国内での文化なので、土地や自然環境から極端な差は生まれにくい。それもあって、ストーリーを上手く作り切れていないんです。
GEN GEN ANはサードウェーブっぽいとよく言われますが、それはアウトプットの話であって、本質は違います。その一番の理由は、日本の歴史には大航海時代がないからで、サードウェーブのストーリーをそのまま日本の茶に適用するのは無理があるんです。コーヒーが土地の文化で横軸に展開しているなら、日本茶は歴史を縦方向に深堀りする文化。そのストーリーを上手く構築できれば、コーヒーに匹敵するドキドキ感を伝えられるはずです。
宇野 産地に紐づいた物語作りは、植民地経済のスケールがないと作りづらい。だったら横軸ではなく縦軸でストーリーを作ることを考えたほうがいいということですね。
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