今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史──ぼくらの昨日の世界」の第11回の前編をお送りします。
2009年9月、ポスト小泉期の自民党政権の迷走を打破するかたちで発足した鳩山民主党政権。それは平成初期からの政治改革勢力の悲願だった二大政党型の政権交代の実現として大いに歓迎されますが、この国の〈成熟〉を促す契機としては、何重もの意味で「遅すぎた」ものでした。
【イベント情報】
4月21日(火)のイベント「遅いインターネット会議」に與那覇潤さんがご出演されます。
自らの『中国化する日本』は「間違いだった」と述べる與那覇さんが、その反省からいま改めて現代史を整理するパースペクティブを再提示します。
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市民参加の果てに
双極性障害の最重度の病態に、ラピッドサイクラー(急速交代型)と呼ばれるものがあります。躁とうつのサイクルを1年間に4回以上繰り返す症例を指す概念ですが、平成21~22(2009~10)年の日本政治は、ほとんどこれに近かったかもしれません。
ポスト小泉期の信用失墜とリーマンショックの直撃もあり、自民党の麻生太郎政権の支持率は2009年8月時にわずか22%(『東京新聞』)。同月の衆院選を経て9月に発足した民主党首班の鳩山由紀夫内閣(社民党・国民新党との連立)は、自民党寄りの講読者の多い『読売新聞』の調査ですら、当初75%の圧倒的支持率を記録します。これが翌10年5月には19%まで急降下するものの、しかし首相を菅直人に交代するや64%に回復。ところが菅氏の唐突な消費増税発言を受け、7月の参院選で民主党は大敗。とはいえ9月に同党の代表選で菅が小沢一郎を破ると、世論は好感して再び支持率が66%に戻り、しかしその後の政局で、11月にはリベラル派の『朝日新聞』の調査でも27%に再降下──[1]。短命政権の多さで知られる平成の政治史でも、ここまで極端な民意のぶれ方は空前のものでした。
なぜ、発足時には国民に歓迎された二度目の──小選挙区制による「直接対決」を経て生まれた点では最初の、非自民政権はかくも不安定だったのか。平成冒頭からの歩みをふり返ってきたいま、ひとことでその理由をまとめるなら、この2009年の政権交代が何重もの意味で「遅すぎた」からだと言うほかはありません。
「反自民」だけが共通点の寄せ集めと揶揄された民主党ですが、しかし鳩山由紀夫・菅直人・小沢一郎らはいずれも1993年に細川非自民連立を作ったメンバーで、実際にこの連立を「第一次民主党政権」とする見方もあります(2009年の相違点は、公明党が自民側へと抜けていたこと)[2]。当時、小沢氏がビジョンとして掲げた『日本改造計画』は、北岡伸一や竹中平蔵など後に自民党政権を支えるブレーンも動員して作られており(第3回)、その点で「非自民」の側に政権のボールが返ってきたとしても、ある程度の安定性を持った政策の遂行は可能なはずでした。
最初のつまずきは、麻生政権の意外な不人気と経済危機で衆院解散が引き延ばされていた2009年3月、民主党代表だった小沢一郎の資金管理団体「陸山会」に検察のメスが入ったことでした。建設会社から裏金を受領したとするのが主な嫌疑で、仮に事実としても小沢本人の責任をどこまで問えるかなど、疑問点の多い事件ですが、同月の世論調査でも66.6%が「代表を辞めるべき」と答える厳しい声が相次ぎ(共同通信調べ)[3]、秋の政権交代時には同党代表=首相は鳩山由紀夫に替わっていたのです。総選挙の遅れによるこのボタンの掛け違いは、やがてハレーションのように民主党政権の不安定要因となっていきます。
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