今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史──ぼくらの昨日の世界」の第11回の後編をお送りします。
政権交代以降、鳩山民主党政権が様々な幻滅を振りまく一方で、地方では橋下徹らのタレント首長がSNS環境を背景に「躁的」なムーブメントを引き起こします。2010年に政権を継いだ菅直人首相の誕生は、「後期戦後」の社会課題に対応したニューレフトがついに国政のトップを握った瞬間でしたが、21世紀の国際情勢の変化を前に無力を露呈していきます。
軽躁化する地方自治
「わたしを次期総裁候補として、次の衆院選を戦う覚悟があるのか」
時計を政権交代前の2009年6月に戻します。目玉候補として口説くため、わざわざ会談に訪れた自民党の政治家にこう言い放った地方首長をご記憶でしょうか。言われた相手は当時、選対委員長を務めていた古賀誠。党内派閥・宏池会(現在は岸田派)の会長にして、短期間ながら森喜朗政権の後半(2000~01年)に幹事長も務めた大物です。
正解は、宮崎県知事だった東国原英夫。元々は芸名を「そのまんま東」というビートたけし門下のタレントでしたが、第一次安倍政権下の2007年1月に無所属で知事に当選。往年の人脈も活かして積極的なTV出演をこなし、地域おこしのシンボルとして人気を博していました。もっとも自民党の側はさすがに冷静で、当日のうちに細田博之幹事長が「知事が総裁候補を条件にしたのは、(出馬打診を)断るための冗談だろう」と一蹴します[22]。
そういう有権者がどれだけいたかはともかく、私にはこれはある昭和の挿話を思わせ、哀愁をそそる光景でした。1977年の12月、現職の横浜市長のままで飛鳥田一雄が社会党委員長に就任(翌年3月に市長辞職)。都市部のニューカマーの票を共産党や公明党に食われ(第6回)、退潮傾向が続く社会党が、革新自治体のエースとして声望の高かった飛鳥田を担いだものです。もともと60年安保に前後して同党の衆院議員だったこともある飛鳥田は、市長時代には政令に基づきベトナム戦争を支える米軍車両の通行を阻止するなど、精力的な活動で左派系市民の共感を得ていました。逆にいえば、名物首長にすがる2009年の自民党は、当時の社会党にも通ずる凋落過程に入ったとも見えたわけです。
このころ私がよく、仕事でつきあう人に口にしていたジョークは、「革新自治体とネオリベ自治体は順番がだいたい同じ」。前者は飛鳥田一雄・横浜市長(初当選は1963年)→美濃部亮吉・東京都知事(67年)→黒田了一・大阪府知事(71年)→本山政雄・名古屋市長(73年)。後者は石原慎太郎・東京都知事(1999年)→中田宏・横浜市長(2002年)→橋下徹・大阪府知事(08年)→河村たかし・名古屋市長(09年)。要は首都圏から始まったうねりに少し遅れて関西が食いつき、最後に東海地方が乗っかるというオチですが、ゼロ年代末のタレント首長ブームは国政での二大政党化が行き止まりを迎える中で、誰も予想しなかった風雲の震源地となっていきます。
なかでも台風の目となったのは、元々は自公の府連の支援(ただし公明は「核武装容認」など過去の問題発言を危惧し、推薦でなく支持のみ)で当選しながら、2010年4月に「大阪維新の会」を結成、やがてそれを国政政党に育てる橋下徹さんでした。1969年生で、政治家デビュー時はわずか38歳。小学校高学年で80年代を迎え、平成の訪れとともに新成人になった世代ですから、地方政治といえば「オール与党」が当たり前で、革新自治体の記憶はほぼないでしょう[23]。橋下現象にいたる地域史を長い視野で捉えた、砂原庸介さん(政治学)の『大阪』を参照すると、そのことが持つ大きな意味が見えてきます。