今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史──ぼくらの昨日の世界」第12回の前編です。
2011年3月11日に発生した東日本大震災と、その翌日に明らかになった福島第一原発事故によって終焉を迎えた「後期戦後」。
反原発を旗印に盛り上がったネット連動型の市民運動は「アラブの春」などの世界的な潮流とも呼応し、戦後日本の一大転換になるかと思われましたが、それは具体的な展望を欠き、やがて政治の領域の破裂に繋がります。
與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界
第12回 「近代」の秋:2011-12(前編)
デモへと砕けた政治
まさか、こんな日本を目にする日が来るとは。
「戦後日本」の平和と安定に慣れ親しんできた多くの人々がそう感じた機会は、平成のあいだ、必ずしも少なくはありませんでした。1993年と2009年の非自民政権への交代、95年のオウム真理教によるテロ、03年のイラク戦争への自衛隊派遣。しかしそれらすべての衝撃を合わせても、平成23(2011)年の3月11日に及ぶことはないでしょう。
14時46分18秒、宮城県沖で地震とそれに伴う津波が発生。モーメントマグニチュードは9.0Mwで観測史上空前、記録された最大震度はもちろん(95年の阪神・淡路大震災で初めて適用された)震度7。しかも波高10メートルにも及ぶ巨大津波の襲来のため、被害の広範さは阪神大震災とは比較になりませんでした。2019年末の警察庁の統計では、死者約1万6000名、行方不明者約2500名。
混乱に輪をかけたのは、翌12日に原子炉建屋が爆発して全国民に知られる福島第一原発事故です。地震に伴い原子炉自体は緊急停止したものの、停電時に用いる非常発電機が津波で浸水し、全電源を喪失。核燃料の冷却ができなくなったのです。前日のうちから近郊に出ていた避難指示は、収束の目処が立たない中で徐々に拡大し、かつ電力不足から首都圏でも計画停電が実施されたため、地震の被害は軽微だった地域にも甚大な影響が及びました。
宗教的な黙示録か、ほとんどSF作品を思わせる光景があらゆる国民を絶句させたのですが、私にとっての「こんな日本」の感じ方は、周囲とだいぶ違っていたようです。震災発生から一か月後の4月10日、都内で初めて1万人を超える反原発デモが発生。実は、もともとサブカル的な軽いテーマを想定して事前に申請していた企画を、震災を受け急遽看板を掛けかえただけだったらしいのですが[1]、火のついた民意は止まらず、ピークとなった翌2012年には(主催者発表で)最大時に20万人とも呼ばれる群衆が、毎週金曜に首相官邸を取り巻く事態となっていきました。
──ああ、原点に返るんだ。戦後の。
2008年度からずっと、大学で日本通史を講じていた私の目に当時浮かんでいたのは、ニュースフィルムの抜粋を教室で上映していた1947年1月、2.1ゼネストに向けた皇居前広場での大会でした[2]。30万とも報じられた労働者が赤旗を振るなか、司会は戦前、人民戦線事件で投獄されても反戦を貫いた加藤勘十(社会党左派)、演説はモスクワ・延安に亡命して日本の帝国主義と戦った野坂参三(共産党)。そんなものを見せても、ふだんは誰もなにも感じないのが歴史なき社会ですが、ポスト3.11の「眼前に似た風景があった季節」には、学生が息をのむような表情を浮かべていたのを思い出します。
震災の年を代表する話題書になった開沼博さん(社会学)の『「フクシマ」論』が指摘するように、ほぼすべての原発は1960年代の高度成長下に誘致が始まっています[3]。都心部への労働力の流出によって過疎化が進むなか、原子力政策への協力によって(補助金で)地域を維持する体制は、田中角栄首相―中曽根康弘通産相が主導して74年に整備された電源三法交付金制度に結実しました[4]。実は、当初は原発導入に積極的だった社会党をはじめとする革新勢力が、「反核」を掲げて反対に転じるのも70年代初頭になってからで[5]──86年のチェルノブイリ事故直後の反原発ブームを除くと──おおむね憲法論争ほかと同様の、「いつもの定番の争い」として長く聞き流されてきた。その意味で日本での過酷事故の発生による原発問題の顕在化は、不可視の場所で作られるエネルギーに支えられた穏和で生ぬるい「後期戦後」の終焉を、象徴するものでもありました。
いつまでも55年体制下の自社対立という「おなじみの構図」では、もはや対応できない課題が広がっていく。その問題意識は細川非自民政権に先んじて、金丸信による自社連立の構想から存在していたことに以前触れましたが(第4回)、中道政党出身の菅直人が率いた震災発生時の政権は、そうした平成の宿命を継ぐものとも言えました。震災直前の2011年1月、もともと自民党の重鎮だった与謝野馨が(たちあがれ日本を経て)電撃的に経済財政相として入閣し批判を浴びますが、与謝野は日本原子力発電の出身で、政界入りは1968年に中曽根の秘書として(初当選は76年)。消費増税から逃げない社会保障財源の安定化を持論とし、前年夏には参院選敗北後の菅首相にも、自民党との大連立を説いていました[6]。変節の誹りを覚悟で入閣を決めた理由は1938年生、当時72歳という年齢。下咽頭がんの後遺症に悩まされ、政策実現に残された時間は長くないと覚悟してのことで[7]、大臣退任後の12年には一時発声不能に陥り、17年に亡くなります。
しかし、そうした後期戦後以来の問題意識をあざ笑うかのように、福島事故はコントロール不能に陥ります。震災から一夜明けた3月12日の朝、東工大卒で一定の知識を持つ菅首相はヘリコプターで直接事故現場に飛び、情報の掌握を図りますが、私は「スリーマイルだ」とすぐにわかりました(1979年の米国での原発事故。当時大統領のジミー・カーターは工科大出身で原子力潜水艦の開発にあたった経験があり、現地を視察して民心の安定に努めた)。ところが帰京後に、起きるはずのなかった建屋の爆発が発生して菅氏は激昂、以降の東京電力に対する敵対的な姿勢については、いまも評価が分かれています。
相当数の国民が期待したように、このとき危機対応のための「挙国一致内閣」として、民主・自民で連立を組む可能性はある程度あったようです。民主党きっての実務家として急遽、官房副長官に復帰した仙谷由人が自民党副総裁・大島理森(現衆院議長)と、また「加藤の乱」以来の加藤紘一の仲介をへて菅自身が谷垣禎一総裁と、それぞれに大連立の構想を協議(3月16~19日)。しかし二つのラインは調整がついておらず、不信感を抱いた自民党側は申し入れを拒否。前年の官房長官更迭以来、菅・仙谷の二人は関係が微妙だったようで、当初は仙谷氏が就くと見られた復興相(6月末に新設)は結局、松本龍防災相の兼務となりますが、「九州の人間だから東北の何市がどこの県か分からない」など信じがたい暴言を吐きわずか9日間で辞任[8]。もはやむちゃくちゃと評するほかはない国政の惨状でした。